ターニャが顔を近付け話し掛けてくる知らない女の相談事を適当に聞き流しながら、風太は氷を混ぜるようにしてグラスを傾けた。
今日は現場で仕事上がりにビールが差し入れられたため、店に着く前にはもう、酔う程ではないが多少アルコールが入っていた。
――女……は、こういう話、好きだな
目の前にいる化粧を施したいかつい顔をチラッと見遣る。他人の色恋沙汰を、真剣だがどこか興奮を隠し切れないような眼差しで語りかけてくるターニャの声を聞きながら、ほんの少しだけ、珠恵の事が頭を過った。
「ね……風ちゃんは?」
それを見透かしたかのようなタイミングで、話の矛先が風太へと向けられる。聞きたいことは何となくわかっていたが、答えるのが面倒でわからないフリをした。
「何ですか?」
「そういうの、ちゃんとしてる?」
「ちゃんと、って」
グラスを口に含み、余り話すつもりはないと言うように、気のない返事をする。察しのいいターニャがその意図を汲み取れないとも思えないが、どうやらすぐに引き下がるつもりは無いらしい。
「だからぁ、ちゃんと気持ち、口に出して言ってあげてる?」
「……まあ」
「まあ、って何よ」
「……」
「まあ言ってるの? まあ言ってないの」
「……」
「ちょっと、あんたも釣った魚にエサやらないってタイプ?」
「つうか、俺の話はどうでもいいでしょ、別に」
眉根を寄せたターニャの顔に、不服気な表情が浮かぶ。
「いーや、どうでもよくなくなってきたわ。ねえ、別にからかいやしないから、答えなさいよ」
面倒臭さに溜息を零す風太に、さっきまでよりほんの少し声を潜めたターニャが、カウンター越しに顔を寄せてきた。
「ねえ……。好きだ、とかくらいは言ってんでしょ」
じぃっと風太の目を見つめるターニャから、僅かに視線を逸らした。
「え、なに?」
答えない変わりにグラスを傾け中身を空ける。追及の手を緩めるつもりはないらしいターニャからは、僅かな憤りと少しの戸惑いが感じられた。逸らしたままの視線を、少し離れた場所に立つ弘栄に向けて、氷だけが残ったグラスを軽く上げる。
「弘栄さん、これ同じの」
「もしかして、言ってないの?」
弘栄がまだ頷きもしないうちから、引き戻すように問うターニャの声が耳に入る。もういいだろう、とうんざりしたようにもう一度溜息を零した。
珠恵はやはり残業なのだろうか。早く来ないだろうかと考えていた。そうすれば、多分この話も終わるだろう。
「ねえ……」
「まあ」
「だから、まあって……。ねえ、 それって、あの子は何も言わないの?」
「……まあ」
「言わないだけで、さっきの子みたいに不安に思ってるんじゃない」
「……ですかね」
「ですかねって、何で言ってあげないの、出し惜しみ?」
「……いや」
「もしかして、男がそんなこと口に出来るかってやつ?」
「……」
「違うのね。じゃあ恥ずかしいとか……いや、それはないわ、ないない」
「何も、言ってねえけど」
「ねえ、だったらなんで? それくらいのこと減るもんじゃあるまいし。ねえ……好き、なんでしょ」
答えにならない返事を返しているうちに、はじめは好奇心だけだったはずのターニャの声から、少しずつ揶揄するような響きが消え始めていた。
「違う、の?」
問うてくる声も表情も、ケバケバしい化粧を施した顔には不釣り合いなほど真剣なもので、けれどそのアンバランスさを笑えるほど、軽い空気ではなくなっていた。
「違う……ってか」
何かを答えないうちはどうにも収まりそうにない。溜息と共に、自嘲するような僅かな笑みが零れた。
「それって……どういう、もんなんですかね」
「……どういう、って」
パチパチと長い付けまつげが瞬く様を見つめてから、少し視線をずらす。
「だから。好きとか、そういうの」
「……は?」
「俺には、正直よく、わかんねえっつうか」
「……」
「なんで、わかるんですか」
「なんでって……そりゃあんた」
「普通はそういうの知ってるもんなんですか」
「……そりゃ」
「まあ、俺は普通じゃねえし」
言ってしまってから、ターニャの表情が、何とも言えないような複雑なものに変わったことに気が付く。けれど、今口にしたことは確かに自分の中にある本音だ。
「でも……なら、おタマちゃんは? あの子は、そういうの言ったりしないの?」
「……いや……まあ」
「言われたこと、あるんでしょ」
「……」
「わからないで、そういうのどんな気持ちで聞くの?」
「どんなって」
「あの子がそう言ってる気持ちも、わかんないとか思ってたの? 信じて、ないの?」
口は悪いが情に脆いところのあるターニャは、人からの相談事にも結構親身になる質だ。他人事だというのに、今もまた問う声色にどこか自分の事のように不安を滲ませている。
「じゃなくて……」
「じゃなくて?」
「まあ……普通には」
「ちゃんと受け止めてる?」
「……まあ」
「ほんとに?」
「……あいつの、言うことは」
「言われて、ちゃんと嬉しいとか思う?」
眉根を寄せ、何故か少し泣きそうな顔をしているターニャに、流石に口元に苦笑が浮かんだ。
「なんか、えらく食い下がりますね」
「思うの?」
「……まあ。てか、もうこんくらいでいいでしょ」
――好きです
答えながら、そう口にする時の珠恵を思い浮かべていた。
何かが降り積もるように、自然と胸の奥に落ちて満ちていくその言葉の甘さを、飢えた様に何度も何度も求めている。同じ言葉を口にした女も確かにいた筈なのに、風太の何かを揺さぶり動かしたのは、珠恵の言葉だった。
風太の気持ちを知っているかのように、乞えば珠恵は必ず与えてくれる。珠恵の気持ちに、その言葉に執着し、何度もまだそこにあるのだと確かめて、安堵する。
それがどういう気持ちかを知らないと言いながら、珠恵の言葉を甘受するのは、確かに矛盾なのかもしれない。
「よか無いわよ。っていうか、寧ろさっきの女の話の方がどうでもよくなってきちゃったわよ」
「んなの聞いて、何が楽しいんすか」
やはり女は、こういう他人の恋愛話を聞くのが好きなものなのだろうか。珠恵ですら、こういう話を聞く時はどこかキラキラしたような目を見せる。風太をはじめ弟子達の間では、殆ど笑い話にしかならないような親方と喜世子の馴初めや何かを、目を潤ませるように興味深げに聞いている様子など、どうにも風太には理解出来なかった。
「楽しいっていうか、気になるじゃない、あんたの事は昔っから知ってる分だけ余計に」
「親の心境ってやつですか?」
「やだちょっと、さすがにあんたと親子はないわよ、失礼しちゃうわね」
恐らくはもう本当に、最初の相談事などどうでもよくなっているだろうターニャの、不満げに口を尖らせた顔に少し笑ってしまう。
顔を上げると、ターニャと風太のグラスを取り換えに来た弘栄と目が合い、無言のままスッとその目が逸らされた。
「ねえ。そういうのわかんないって風ちゃん言ったけど。でも、じゃあさ、あんたのあの子に対する気持ちって、実際のとこ、どういうもんなの」
「どう、って」
「大事なんでしょ、あの子のこと。それはまあ何となく見てたらわかるわよ。だったら、好きとかそういうんじゃなくても、何かあるでしょうよ」
――大事に、できているのだろうか
まだまだ足りない気がした。けれど、どうすれば足りるのかはわからない。
心の底では、珠恵の世界が俺だけになればいいとそう思っている。手放してやれない。それは、本当に珠恵を大事にしてるということなのだろうか。
答えなければならない義務もないのに、問われたことを、つい考えてしまっていた。ぼんやりと自分の思考を辿りながら、口を開いた。
「……言わなきゃ、駄目ですか」
「駄目よ。言わなきゃ帰してあげない。だいたい、私にはあの人の代わりに、風ちゃんの事をちゃんと見ておく義務があるんだから」
――こいつと一緒に生きていきてえって、そう思える女を探せ。
ぐでんぐでんに酔っぱらいながら、風太にそう言った男。あの泥酔ぶりでは、さすがに自分が口にしたことも翌日には覚えていなかっただろう。
珠恵と出会ってから、時折思い出すようになったその遣り取りが、また脳裏に浮かぶ。
珠恵に感じているもの。それは、今まで自分の中に存在しなかった知らない感情で、そんなものを言葉にするのは難しい。そういうものを、普通は好きだとか愛していると言うのかもしれないが、自分の中で繋がらない言葉を、口にすることは出来なかった。
「何つうか……」
一番しっくりとくる無難な言葉を探してみる。ターニャの目が、先を促すようにこちらを見つめていた。
「まあ……温かい、って、こういうことか、とか」
「あたた、かい?」
微かに頷く。
「それって胸の中のこと?」
「……まあ、いろいろ」
「それだけ?」
下らない事を口にした気がして、苦笑いする。グラスに注がれた琥珀色の液体を喉元に流してから、ボンヤリとグラスの中の泡が消えていく様を見つめた。
思考が、どこか深い所へ沈み込んで行く。気が付けば、その中にあるものを口に出してしまっていた。
「あいつと、一緒にいるようになって……時々、思うことがあって」
「……なに、を?」
「例えば、普通に飯食ったりテレビ見たり、本読んでるあいつのそばで道具の手入れしたりとか、まあそういう」
「……うん」
「あいつがただそこに居るような、別に、何てことないような時に、時々」
「時々……?」
「今、死んでもいいって」
「……え」
明らかに狼狽したターニャが、口を開けて風太を見つめている。真っ赤な口紅を塗った唇が、笑みを形作ったまま微かに震えた。
「ちょっと、あんた、何言って」
「別に、死にたいってことじゃねえけど」
その感情は、何もかもがどうでもよかった頃にあったものとは、全く違う場所から芽生えてくるものだった。
少しずつ積み重ねて何でもない日常になっていく珠恵との生活の中で、ふとした瞬間、珠恵がいなくなることを想像すると、そこにあるのは手に入れる前よりもずっと大きな深くて暗い空洞だった。
「例えばあいつを守るとか、まあ……あいつのために死ねたらって考えたら……そうやって死ねりゃ、俺の人生、すげえ、幸せなんじゃねえかって」
風太にとって、珠恵は一緒に生きていきたいと思った唯一の女だ。それは確かなことだった。けれど、時折不意にそんな思いに駆られることがある。
矛盾する事なく、確かに自分の中には、その両方の感情が存在していた。
「なによ、あんた死ぬことばっかり」
「だから、死にたいってのとは、違いますよ」
「そりゃ……そうかもしれないけど。でも、だけどね、珠ちゃんは、多分嬉しかないわよ。あんたがそんな風に思ってるって聞いても」
その通りだろうと、それくらいのことは風太にもわかっていた。誰かに話して聞かせることではないとも。
「それに、そんな風に死なれたんじゃ、残された方は悲しくて堪らないわよ」
「でも――」
心の奥底にある、仄暗い感情が顔を覗かせる。口元に、それとはわからない程微かに、苦笑に似た笑みが浮かんだ。
「そうすりゃ多分あいつは……俺のことを忘れられなくなる」
珠恵の中に、ずっと消えることのない自分の存在を刻み付けられる。