「ない?」
文字通り目を丸くしているターニャに、頷くのがどこか申し訳なくさえ思いながら、珠恵は小さく首を縦に振った。
「あんたね、もうそういう嘘はいいから」
「いえ、あ、あの嘘じゃ」
「ないわけないじゃない」
「でも、あの……ない、です」
「一度もぉ?」
もう一度小さく頷く。
「ほんとにぃ?」
そこまで言われると、そうまで否定しなければならないことが何となく少しだけ悲しくなってくる。隣に座っていたミカが、やっぱりまだ全然信じてない様子のターニャの唇を指し示した
「ママ、口がへの字になってるよ」
「だってアンタ、あんなデレデレイチャコラしといてよ、ないって、んなわけないじゃないのよ」
デレデレイチャコラ――
そんな風に振る舞っているつもりはないけれど、もしかしてそう見えているのだろうか、と戸惑ってしまう。
「あの、デ、デレデレとか私、そんな風にしてるつもりは」
きっと、無意識のうちに風太のことを見つめ過ぎていたのだと、自戒の意味も込めてそれを否定してみたが、綺麗にスルーされた。
「今更言わなくてもいいって思ってるんじゃないの?」
「なにそれ、釣った魚に餌はやらない的な?」
「そうじゃないと思うけど。むしろあれじゃない? 餌貰ってることに気がついてないとか」
「ああ、ありえるわぁ。それ」
赤く艶やかなネイルの施された指先で、自家製のポテトチップスを摘まんだミカは、ターニャと話しながらそれを赤く艶やかな唇へと放り込んでいる。
女の目から見ても、その色っぽさについドキドキとしてしまう。同じものを摘まんでいるはずなのに何が違うんだろうか。スツールの上で足を組み替えた拍子に、ミニスカートから覗いた素足が太ももの際辺りまで露わになり、珠恵はそこから慌てて目を逸らした。
「今も自分のこと言われてるって、あんまりわかってなさそうだし。ね、珠ちゃん」
ニコッと微笑まれて、慌てて瞬きをする。何とはなく、自分のことを言われている気はしていたけれど、確かにどこかピンとこなくてちゃんと頭に入ってはいなかった。二人から向けられた眼差しに、気圧されそうになる。
「でもさあ、あんま想像つかなくない?」
ミカの視線がまたターニャに戻されて、少しだけホッとした。けれど、話の内容はやはりまださっきの続きのようだった。
「何が?」
「そういうこと言ってる風ちゃんって」
途端に、ターニャがカウンターから身を乗り出す。後ろで客席に背を向けている弘栄も、少しだけ聞き耳を立てているような気がした。
話題が変わらないかと色々考えてみるけれど、割り込んで話を変えるほどの話術を持ち合わせていない珠恵は、どんどん居た堪れない気持ちになる。早く、風太が店に来ないだろうか。
「だ、か、ら、よ。だから。そういや風ちゃんはこの子にどんなこと言ってんのかって気になりだしたら止まんなくなっちゃって」
「まあねー」
「おタマちゃん」
「えっ……は、い」
鋭い目つきで見つめられて、腰が引けそうになる。
「どうもトンチンカンな勘違いしてるっぽいけど、そんな事はどうでもいいから、出し惜しみしてないで本当のこと言いなさいよ。早くしないと風ちゃんが来ちゃうじゃないの」
助け舟を出してくれないだろうかとミカに視線を向けても、三日月のような瞳で見つめ返されるだけだ。
何度聞かれても答えはさっきと変わらないのに、どうしてか。追及の手は緩みそうにない。
店に来てからしばらくは、確か夕べの深夜ドラマの話をしていたはずだった。ドラマ自体は見ていない珠恵も、原作本を読んでいたから話にはついていけた。
それが、主人公の二人が互いの気持ちを確かめ合うシーンの話をし始めた直後から、雲行きが怪しくなり、あっという間にターゲットが珠恵にすり変わっていたのだ。
「ねえ、じゃあ風ちゃんはさあ。どんな風に愛を囁いたりしちゃうわけ?」
始まりは、確かそんな質問からだった。
「……へっ?」
「愛してるよ、とか、好きだオタマ、とか、そんなこと言っちゃってるの?」
「え……あの」
「ほら、今いないんだから、照れてないで答えなさいよ」
「あ、あの」
「大丈夫よ、おタマちゃんに聞いたとか言わないから。内緒にして自分で楽しむだけだから」
「いえ、あ……そういう、のは……」
「ああもうっ、想像するだけでニヤケちゃうわ。ね……どんな顔して、どんな事言うの? あの男は」
「なになに? 面白い話?」
「ちょっと、アンタが入るとややこしくなるから、黙ってなさいよミカ」
ドラマには興味がなかったらしく、カウンターの奥の弘栄と話をしていたはずのミカが、話の流れが変わったことに気がついた途端、一つ空けていた席を詰めて話に参戦してきた。
「いいじゃん。ね、何々、続けてよ」
「だからね、ほら、風ちゃん、この子にどうやって――」
言われたことがない、と正直に答えてみても信じてもらえず、こんな事態になっている。
「出し惜しみとかじゃ。本当に、あの……す、好きとか……そういうこと、風太さん、言ったりしないです」
自分で口にしながら、風太がそれを口にしているところを想像して、それだけで顔が熱くなってくる。
「じゃあ何で赤くなってるのよ」
「いえ……あの」
「まさか言われたとこ想像してとか、言わないでよ」
「すい、ません」
「あらやだ、本当にそれで照れてんの?」
「やだー、珠ちゃん可愛すぎる」
「あの」
「じゃああれなの? そういう時も、言ったりしないの」
「そういう?」
「あんた、それカマトトじゃないでしょうね」
「い、いえ……」
「ママ、珠ちゃんは素だと思うけど」
そのやり取りで、何となくターニャが聞いた意味がわかり、少し収まりかけていた火照りがまた戻って来る。
「あら、わかったみたいね。何か古臭いコントみたいだけど、手をかざしたくなるくらい赤いわよこの子」
「もうー。珠ちゃんってば、ほんとどうにかしちゃいたいくらいカワイー」
「あんたが言うとややこしいのよ。ほんと節操ないオンナねえ」
「いいじゃない、別に取って食うわけじゃなし。そんなことしたら風ちゃんに殺られちゃうもん」
「……あ、あの、ミカ、さん?」
ミカの長い指が伸びて来て、珠恵の頬に触れてくる。
「ちょっとあんた何触ってんのよ。風ちゃんに言いつけるわよ」
「だって、珠ちゃんの肌って、スベスベしてて気持ちいいんだもん」
「もう、キャパオーバーじゃないの、この子」
ミカから香る甘い香水の匂いにも、殆ど下着が見えそうなほどざっくりとした大きな編み目のニットにも、冷たく細い綺麗な指先にも、少しドキドキとしてしまう。手が離れて行ってようやく小さく息を吐き出した。
ミカとは、風太と暮らすようになってしばらくしてから、この店で顔を合わせた。
言葉を交わした訳ではなかったが、互いに初対面で無いことはわかっていたし、少なくとも珠恵は、二人の間に身体の関係があったであろうことも知っている。
けれど、少しだけ気まずそうな風太や、どう振る舞えばいいのかわからない珠恵とは違い、ミカは屈託無く珠恵に声を掛けて来た。
会ったことを覚えていないのだろうとも思ったが、そういうわけでない事は、しばらく話をするうちに分かってきた。けれど、珠恵には理解出来ないが、風太にもミカにも本当に互いに対する恋愛感情は全く無いようだった。
――寝てたって言っても、どっちかっていうとスポーツみたいなもんだから気にしないでね。気持ちはまーったく繋がってないから、安心して。
全く悪びれた様子もなくハッキリとそう言われて、顔を赤くしながら、どう答えるべきなのか戸惑っていると……。
――やだぁ、何その反応、かわいい。
そう声を上げたミカに気がつけば抱きしめられ、殆ど頬ずりされそうな勢いだったのを、風太が顔をしかめながら引き裂いていた。
流石に風太と三人で仲良く、という訳にはいかないが、その日以来、待ち合わせなどで珠恵が一人の時など、店に居合わせるとミカは声を掛けてきて、少し話をするようになっていた。
珠恵の中に何のわだかまりもない訳ではなかったが、ミカは全く頓着なさそうに振る舞っていた。珠恵を安心させようとしてなのか、それが素なのかは今でもわからないけれど。
「ふうぅん。まあ、どうやら本当みたいねえ」
「はい……あの、すみません」
「謝ることはないけど、でもさあ、だったらやっぱり言って欲しいんじゃない? おタマちゃんも」
「え?」
「そりゃあ女の子だもん、言って欲しいに決まってるよねー」
隣から顔を覗き込むように見つめてくる長いまつ毛の奥の瞳を、見つめ返した。
「あの……」
「私ならいくらでも言われたいわあ」
「ママは、いいから」
「あら、失礼」
正直なところ、言われたいとか、そういう願望のようなものは余り感じたことがなかった。というより、言われてみて初めて、考えてみたことが無かったことに気が付いた。
「私は、あの、別にそれは」
「あらあ、ダメよ、ダメダメ。ああ、でもわかったわ……そういうことね。おタマちゃんあんた前にチラッと言ってたけど。もしかして、今でも風ちゃんは絆されて自分と一緒にいるって、そんな風に思ってるんじゃないの?」
「え、嘘、そうなの?」
「あ、あの……それ、は」
言われた言葉をはっきりと否定できない珠恵に、さっきまでのからかうような表情ではなく、どこか痛々しい物をみるような眼差しをした二人が、顔を見合わせて小さく頷き合った。
「やっぱり、ちゃんと言葉にしてもらわなきゃダメねこれは」
「え、あの」
「うーん、そうかも。でもまあ、言って貰ったら珠ちゃんだって嬉しいよね」
「そ、れは……でも、無理矢理そんな」
「ダメよ、やっぱりこういうのは有耶無耶にしちゃ」
「あの、本当に私は別に――」
妙に結託してしまった二人に抵抗すら出来ないまま、風太が店にくる直前に、殆ど有無を言わさぬように、珠恵はカウンターの奥にあるパントリーに押し込められていた。
* * *
「あれ、まだ来てねえのか」
風太が店に入って来た声がして、心臓が痛くなる。やっぱりこんなこと、と椅子から立ち上がろうとした珠恵を、ミカが唇に指を当てて引き止めた。
「おタマちゃんと待ち合わせ?」
「今日は早いっつってたのに」
「急な残業でも入ったんじゃないの」
全く動じていない風のターニャと、風太との遣り取りが思ったよりも近くで聞こえて、思わず息を潜めてしまう。聞きたいという気持ちがないと言えば、正直嘘になる。けれど、聞くのが怖いというのも本音で、それに、こんな風に盗み聞きをするのがいいこととは思えない。
けれど、今更どうすればいいのかもわからず、結局はミカに促されるまま誘惑に抗いきれずに、もう一度椅子に腰を落としてしまった。
ミカは、持って来たグラスをチビチビと舐めながら、店の中の会話に、意識を集中させているようだった。
何時ものようにカウンターの一番奥――珠恵達が籠っているパントリーに最も近い席に座った風太の声は、ほんの僅かだけ扉を開けていることもあり、控え目なトーンにも関わらず、ちゃんと聞こえてくる。俯きながら手を握り、駄目だと思っているくせに、それでもその声を拾おうとしてしまう自分が、とてもズルい人間になった気がした。
殆ど話をしているのはターニャで、それに時折相槌を打つ風太の声がする。
いつもより深刻ぶった真面目な口調で、ターニャは、付き合っているつもりの男が何も言ってくれないのが不安だ、という、客の女性からもたらされた相談事を絡めて、話を核心へと持って行こうとしているようだった。
珠恵には、もはやそれすら、本当の事なのか作り話なのかわからない。
「いくら態度で示してるつもりでも、やっぱり不安に思うものよね、オンナって」
「そんなもん、ですかね」
どんな顔をしてその話を聞いているのか、見えない状態では、想像すらつかない。けれど、返事をする声がどこか適当なことから、余り関心を持って聞いている様子でないのがわかる。
「ね……風ちゃんは?」
「何ですか?」
「そういうの、ちゃんとしてる?」
心臓がトクッと跳ね、手に変に汗を掻いていた。居た堪れなさに椅子から再び腰を浮かせようとしたけれど、グラスを掴んでいたミカの片手が伸びて来て、珠恵の手を上からギュッと握り締める。
顔を上げると、思いがけず真剣な顔をしたミカが、小さく首を横に振った。