番外編《雨月》

休日閑話-後日談②



 少し悪戯っぽい表情を浮かべて薄く笑う風太と、ターニャの顔とを見比べてみる。けれど、全く心当たりは浮かばなかった。話してもらったことを忘れてしまったのだろうかと、少し申し訳なく思う。
「まあ、多分わからねえな」
「そう、なんですか?」
「ちょっと風ちゃん、勿体ぶってないでわかる様に話しなさいよ」
「ターニャさん、いや、武四郎さん」
「やぁだあ、そのダッサイ名前で呼ばないで」
 武四郎。それが、きっとターニャの本名なのだろう。けれど、その名前にも聞き覚えはなかった。呼ばれた本人は、本当に嫌そうに顔を顰めている。
「素人のガキ相手に、全く手加減なかったですよね」
「そりゃあ、あんたがクソ生意気なガキだったからでしょうが。中坊のくせに本職に手え出すとかさあ、ほんっとバカよねー」
「本職がガキに手え出して、マジでシメる方がありえないでしょ」
 二人の会話に出てきたいくつかの言葉を、混乱する頭の中で何とか組み合わせてみる。すると、ある人物が脳裏に浮かんだ。
「――え……」
「わかったか」
「あの、もしかして、……あ、でも」
「ママは、空手の有段者ですよ」
 それまで、話を聞いているのかどうかもわからなかった弘栄が、ポソッと口を挟んだ。
「ちょっとぉ弘栄、そういうことは言わないでよ」
 嫌だ、というように手首をくねらせるターニャから、確かめるように風太へと視線を移す。唇を片方だけあげて笑った風太が、頷いた。それでも、あの夜風太から聞いた話と、今珠恵の目の前にいる人とがうまく結びつかなくて、頭が追い付かない。
「あらやだこの子、固まってるわよ」
「俺の話だけ聞いてりゃ、そりゃ驚くでしょ」
「い、いえ、あの、すみません。ちょっと……」
「ちょっと何よ」
「いえあの、……びっくり、して」
「ふん、どうせ風ちゃんから凶暴なヤクザだとか聞いてたんでしょ」
「嘘は言ってませんよ」
 笑う風太に口をへの字に曲げてみせたターニャと目が合うと、微かに笑うようにその口元が緩むのがわかった。
「まあ、クッソ生意気なガキを一人締めてやったのは確かだけど」
 大して面白くもなさそうにそう言いながら、ターニャが何気なく空になった風太のグラスを手にとる。すると、すぐに横から、阿吽の呼吸で新しいグラスが差し出された。
 その様子を目にしながら、もしかしたら弘栄もまた、同じような過去を持っているのだろうか、とつい考えてしまう。 
「弘栄さんも、まあ……ある意味、安見さんに関わりある人だ」
 風太へと視線を送ると、考えている事が伝わったみたいに、口にしていない問いを肯定する答えが返って来た。
 たくさんの疑問が脳裏を過る。今はもう、二人ともその世界からは足を洗っているのだろうか。何か事情があって、ターニャはこのような恰好をわざとしているのだろうか。
 その答えは、後々、風太がほんの少しだけ話してくれた。

 ターニャこと武四郎の性自認を、安見だけが知っていたこと。
 安見が、足を洗うことを絶対の条件として、この人を頼れと親方の連絡先を伝えていたこと。
 そうして、ある日親方の元を訪ねたターニャは、そのままこの街に居ついて、店を開き、気が付けばこの辺りの顔になっていて、いつの間にかそこに弘栄がいたのだ、ということを。

「で?」
 唐突に、語尾に疑問符が付くような口調で、ターニャの視線が珠恵と風太を見比べた。
「……え」
「あたしが誰だかわかったんなら、次はそっちの番でしょうよ」
「そっち?」
「んもぅっ、鈍い女ねえ」
「す、すみません」
「あんた、私の風ちゃんの、どこに惚れたの」
「えっ……あの、私の……って」
「そこは聞き流すとこだろ」
 ボソっと風太が横から口を挟む。なのに、ターニャに問い詰められている珠恵には、それ以上助け舟を出す気はないらしい。カウンターに乗せた肘に頬杖をついて二人の遣り取りを聞いている風太は、どこか楽しんでいるようにさえ見えた。
「ほらほら、どうなの? 言いなさいよ」
 本人のいる前で、正面切ってそんな事を聞かれている状況に、途端に狼狽え顔が赤くなる。
「あ、あの」
「あらやだ、なにこの子、こんなで真っ赤んなって。それでよくこの凶暴な男の相手が務まるわね」
 助けを求めるように風太を見ても、素知らぬ振りでグラスを傾けるだけだ。弘栄も、絶対に聞き耳を立ているだろうに、こちらを見ようともしない。目の前のやたらと迫力のある顔をした人だけが、珠恵を追い込むような熱い視線を向けてくる。
「わ、……私」
「一目惚れ? 風ちゃん、見た目はまあまあイケてるものね」

 あれは、一目惚れ、だったのだろうか。
 風太への気持ちは、顔を合わせる度に、少しずつ少しずつ膨らんで、気が付いた時には、一杯になっていた感じで。いったいいつから好きだったのかと聞かれても、はっきりとした答えはわからない。
「あ、あの、一目、惚れ……だったかは、……あの、よくわからないです」
「あらあっ」
 わざとらしい大げさなリアクションにも関わらず、その声の大きさについびっくりしてしまう。
「残念ねえ、風ちゃん。一目惚れじゃないんですって」
「じゃないっ、……っていうか、あの、でも、ちゃんと覚えてます」
 否定されると、それも何だか違う気がしてついムキになる。
「覚えてるって、なあに?」
 言いなさいよとでもいうように、顎を持ち上げたターニャから、僅かに視線を下げる。直接ではなくても、皆の視線が突き刺さってくるようで痛い。
「ふ、風太さんと、……初めて会って、話した時の事。……その後の事も、全部、ちゃんと覚えてます」
「……」
 顔を上げなくても、三人が反応に困っている事がわかる。途端に、馬鹿みたいに正直に答えてしまったことが、とんでもなく恥ずかしく思えてきた。これでは、一目惚れでしたと答えているのも同じではないだろうか。
「あらあら……」
 頭上から、ターニャの半分笑ったような声が落ちてきた。
「この子ってば、耳まで赤くなってるわよ。初々しい反応よねえ。ほんと、見てるこっちが恥ずかしくなるわぁ」
「す、……すみませ」
「謝る必要ねえぞ」
「ちょっとぉ、何なのよ風ちゃん、その顔」
 顔も上げられないまま、どうにか熱を冷まそうと顔に手を持っていこうとすると、それを制するように膝に置いていた手に何かが触れた。
 ピクっと身体が動く。さっきまで冷たいグラスを手にしていた風太の指が、珠恵の指を絡め取るように握っていた。きっと、カウンターの中からは見えていないだろう。けれど、今こんなことをされては、余計に顔が熱くなるだけで逆効果だ。
「ついでに聞くけど」
「……何すか」
「風ちゃんは、覚えてんの」
「……」
 トクッと心臓が跳ねる。握られた手にそれが伝わらなかっただろうか。
 風太は、きっと覚えてはいないだろう。珠恵でさえ、何故あんなに鮮明にそれを覚えているのかわからないほど、あの時の二人は、ただの図書館の司書とその利用者の一人に過ぎなかったのだ。
 好きになったのは自分の方で、今でもどこかで、風太はそれを受け入れてくれただけだと思っている珠恵は、彼がそれを覚えていることなど、有り得ないとはわかっていた。
 けれど、どこかで、違う答えを期待しそうになる自分がいる。
「覚えてますよ」
 耳に届いたその答えに、思わず顔を上げた。
「……え」
「んだ、その顔。覚えてねえとでも思ってたのか」
 小さく頷くと、風太の口元に苦笑いが浮かぶ。
「急にでかい声出したって、謝った時だろ」
 本当に、覚えていたのかと、驚いた。
「あれ、……違ったか」
 珠恵が何も反応をしなかったため、風太が少しばつが悪そうな顔をした。
「いえ……そうです」
「だよな」
 ホッとしたように、風太が笑う。それがどんな理由であれ、覚えていてくれたのだと、嬉しくなる。
「よく覚えてるわねえ。よっぽど強烈なことでもしたの?」
「いや、特には」
「じゃあ何で?」
「何でかわかんねえけど、覚えてるんですよ」
 どんな顔をしていればいいのかわからなくて、再び伏し目がちにカウンターの上を見るともなく見つめながら。風太の手を、少しだけ強く握ってみた。嬉しいという気持ちが、伝わればいいと思いながら。
「……ふうん」
 カウンターに座っている風太と珠恵を交互に眺めながら、ターニャが、フンっと鼻を鳴らした。
「バカらしいついでに、聞いちゃうけど」
 次は何を聞かれるのかと、恐る恐る顔を上げる。
「結局あんた達、どっちがどうしてこういう風になったの。覚えてんのはともかく、風ちゃんが一目惚れするようなタイプじゃないものねえ、おタマちゃんって」
「……す、すみま」
「謝んな」
「だいたいほら、今までの風ちゃんの相手からし、て……」
 さすがに拙いと気が付いたのか、言いかけた言葉を誤魔化すように咳払いをしたターニャも、珠恵が、これまで風太が連れていたタイプと違う事に、きっと驚いているのだろう。
「あの、わたしが……」
「ん?」
 ターニャの視線がこちらに向けられた。
「私が、あの殆ど無理やり」
「じゃねえだろ」
 珠恵の方から無理やり押しかけたようなものだと答えようとした言葉は、風太によって即座に否定された。隣を見ると、少し不機嫌そうな顔をした風太がこちらを見ている。
「あの、……でも」
 好きになったのは、私の方だから――と考えていたが、その顔を見て辛うじて先の言葉は飲み込んだ。
「武さん」
「なあに?」
 やはり少し不機嫌そうな声の風太に応じるターニャの声は、どこかそれを楽しんでいるようなもので、タケさんと呼ばれている事さえ喜んでいるように聞こえる。
「わざと言ってますよね」
「何のことかしら?」
 風太が大きく溜息を吐いた途端に、ターニャの口元に、どこか勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。
「確かにねえ、どこぞの女と何があったのかはよく知らないけど、珍しく女の事で散々荒れて、クダ巻いてた風ちゃんのことなら、よおく、知ってるけど」
 隣では、苦々しい顔をした風太が小さく舌打ちを零している。二人の会話の意味がよくわからずに、戸惑いながらそのやりとりを聞いていた珠恵の顔を、赤いマニキュアを爪の先に施した節くれだった指が差した。
「……え?」
「その女といつの間にこーんな事になってたのかは、私、全然知らないもの。風ちゃんってば、ほんっと水臭いわよねえ」
「あ、の……」
 なあに? というようにワザとらしく顔を傾けたところで、可愛らしいという仕草には程遠いターニャが、風太を横目で見ながらニヤニヤと笑っている。

 話の流れから言えば、風太が、珠恵の事で荒れていた時期がある、ということなのだろうか。それがいったいいつのことで、何が理由だったのかもわからないが、否定するでもなく顰めた顔をしたままグラスの残りを煽っている風太の様子から、もしかしたら本当の事なのかもしれないと思えてくる。
 けれど、やはり俄かには信じ難い。
「ねえ弘栄。あなたも、よおく知ってるわよねえ」
 妙にマッタリとした口調で問うターニャに、何も答えない弘栄の口元に僅かに笑みが浮かぶ。それだけで、この人は頷いたのだとわかる気がした。
「……もう、いいでしょ」
「あらあ。おタマちゃんはもっと聞きたいでしょ」
「え、あの……」
 正直言えば、聞きたかった。けれど、肯定すれば、風太が嫌がるだろうことはわかる。
「会わせたし、もういいっすよね」
「あら、何よ? 帰っちゃうの」
「行くぞ」
 グラスを空けた風太は、カウンターにお金を置いて立ち上がった。本当に帰るのだと、慌ててまだ半分ほどグラスに残っていた綺麗なブルーのドリンクを飲み干し、スツールから降り立つ。
「あの、ご馳走様、でした」
 ターニャと弘栄に礼を言うと、弘栄は、いえ、と声を出さずに返事をくれた。
「そんな慌てて帰らなくても、まだまだ聞きたいこと、いーっぱいあるんだから」
 風太が、少しウンザリしたように溜息を吐いた。
「だってさあ、弘栄はこの子に会った事あるのに私はなかなか会わせて貰えないし。いっつも、竜ちゃんとか翔平とかあの無口な親方でさえこの子の話してて、私だけ聞かされるばっかりで面白くないじゃない」
 それが、本音だったのだろうか。少し拗ねたような口調になったターニャが、初めて、不思議と可愛く思えた。
「何なら、この子だけ置いてってもいいわよ」
「連れて帰りますよ、何吹き込まれるかわかったもんじゃねえし」
「あら、あらあらあ? 吹き込まれて困る話でもあるのかしら」
「……」
「まあ、いいわ。どうせこれから顔を合わせることも増えるでしょうから。ねえ、おタマちゃん、ヨロシクね」
 向けられた言葉は、どこか優しいニュアンスを含んでいるように珠恵の耳には届いた。ターニャを見つめると、思いがけないほど柔らかな表情が向けられる。
「はいっ、あの、よろしくお願いします」
 風太の昔からの知り合いに受け入れて貰えた気がして、嬉しくて素直にそう頷いていた。
「ねえ、今度は一人で来なさいよ。そうしたら、風ちゃんのイロイロな事、何でも教えてあげるから」
「はい」
「はいじゃねえぞ。こんな下品な店、ひとりで来んな」
「あらあ、失礼しちゃうわねえ」
 拗ねたような表情を見せてから、口角を少し上げて笑ったターニャが、カウンターから出てくる。店を後にする二人を戸口まで見送ってくれるようだ。
 後ろのテーブル席からも、風ちゃんもう帰るの、と、甘えたような声が聞こえてきた。

 ドアを開けると、暑さの中に、ほんの少しだけ涼しさが混じった空気が、身体を包む。
「風太」
 ドアを押さえるように凭れたターニャが、さっきまでよりも少しだけ低い声で、風ちゃん、ではない風太の名前を呼んだ。立ち止まった風太が、何も言わずにターニャへと視線を向ける。
「あれ、お酒。ありがとね」
 風太の口元に、少しだけ笑みが浮かんだ。
「いい、酒でしたよ」
「……そう」
 店に入ってすぐ、風太が弘栄に土産だと酒を渡した時には、ターニャはそこにいなかったはずだ。なのに、その遣り取りを聞いていたのかと少し驚いてしまう。
 ターニャの表情は、さっきまで見せていたものとは違って、嬉しそうで、でもどこか少し寂しそうにも見えた。
「でも、安心した」
 静かな口調でそんな言葉を掛けたターニャに、風太がどんな表情を向けたのかは、珠恵からは見えなかった。
「武さん」
「もうっ、だからその名前はやめて」
「眉毛、取れてますよ」
「えっ、嘘、やだあ」
 慌てて両手で額を覆ったターニャに、風太は、クッと声を出して笑った。遣り返したとでも言いたげなその顔を、眉間に皺を寄せたままターニャが睨みつけた。
「もうこいつ、連れてきませんから」
 どこか笑いを含んだような口調でそう言った風太から、珠恵へと視線を移したターニャが、グッと顔を近付けてくる。
「あ、あの」
「あんたはまた来たいわよねえ、おタマちゃん」
「……あの」
 顔を引いて、答えを口にしようとした珠恵の手を引いて、風太が歩きはじめる。
「待ってるわよ」
「――はい」
 聞こえたかどうかはわからないけれど、辛うじてそう答えて、頭を下げながらその店を後にする。
「風ちゃん、はい、だってぇー」
 ターニャの大声が追いかけて来て、風太は小さな溜息と共に足を止めた。後ろを振り返って見ると、大きな身体のターニャが、額を手で押さえたまま大きく舌を出して、店の扉の中へと消えていった。

* * *

「ねえっちょっとぉー今の見た見た?」
「何なの、あんたたちお客様は」
「だって、ねえ、ナンシーも見たでしょ」
「もちろん、見たわよぉ、ケンちゃんっ」
「いやーん、やだあ、超ショックぅ、あんなのもう風ちゃんじゃないっ」
「だから、何なの」
 客を席に残したまま、カウンターに戻ったターニャの元に走り寄ってきた店子の二人が、興奮したように声を上げ、一人は眉をハの字にしている。
「あんなことして」
「あんなって?」
「手ぇ……っていうか指っ、こんなことしてたのぉ」
 目の前で、互いの指を絡めるように繋いで見せた二人を見て、ターニャは、小さく溜息を吐きながら呆れたように笑った。
「まあねえ、確かに私も、ちょっとびっくりしたけど」
「ちょっとどころか、ああ、ダメ。アタシ今日熱でちゃいそう」
「もう、うちの店出入禁止よママ」
「やあよ、あの二人で遊ぶの、とーっても楽しそうだもの。ほらほら、あんたたちもう、早く席に戻んなさい」
「こうなったらあたし、もう翔平ちゃんに乗り変えちゃう。それで、それで自分好みに仕上げちゃうわ」
 キャーキャーと騒ぎながら席へと戻る二人を、苦笑いを浮かべて見つめてから、ターニャはカウンターの中へと戻った。
「何、弘栄」
「いえ」
「何か言いたそうな顔してるわよ」
「……嬉しそう、ですね」
「そう?」
「ええ」
 グラスに残った薄くなったアルコールを飲み干して、ターニャはそこに置かれた酒の瓶を手に取った。
「これ」
「……」
「大事に味わって、飲まなきゃね」
「……ですね」
「これは、お客には出さないでよ」
「わかってます」
「あんたも……嬉しそうよ弘栄」
「そう、ですか」
「……でも、弘栄、あんたさ……」
 ふと、口にしかけた言葉を呑み込んで、グラスを磨いている弘栄を見つめる。その様子に気が付いたのか、手を止めた弘栄も、ターニャを見つめ返した。
「ううん、何でもない」
 小さく首を振ったターニャは、静かな眼差しから視線を逸らした。そうして、何かを思い出したように小さく口元に笑みを浮かべて、手にした酒瓶のラベルを、大切なものに触れるように、そっと撫でた。




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