番外編《雨月》

休日閑話-後日談①


 夏休み最後の週を迎え、図書館は宿題の自由研究の題材を求める子どもたちで連日賑わっている。
 早番の仕事を終えた珠恵がロッカールームに戻り、鞄からピンクの携帯を取り出してみると、風太からのメッセージが入っていた。
『駅まで迎えに行く』
 いつものように短いメッセージに、これから出るところだと返事を送ってから、まだ残っている職員に声を掛け、図書館を足早に後にした。
 夏休みに入ってからは、夜家にいる事が多い風太は、時々こうして珠恵を駅まで迎えに来てくれる。そのまま外で夕食を済ませて帰ることも時々あった。
 電車から吐き出された人混みに紛れて、階段を下り駅の改札を出る。右側へ顔を向けると、そこが定位置になっている壁際に風太が立っているのが見えた。
 近付いていくと、珠恵に気付いた風太の目元が少し柔らかくなるのがわかる。ほんの僅かにだけ変わるその表情を見るのが好きだった。いつも胸の中が温かくなり、そしてどこかホッとする。
「ただいま」と「おかえり」
 視線を上げて、いつものように言葉を交わして、けれどそのままじっと見つめていることはまだ出来なくて、その目を風太の手元へ向けた。
「……風太さん? あの、それ」
「ん、ああ」
 手首にぶら下げた袋を風太が少し持ち上げる。中に入っているのは、先日、旅行先で購入した櫻灑という日本酒の箱だった。
 珠恵は、そういえば――と、旅行の二日目、朝旅館で目が覚めた時に風太がいなかったことを、思い出していた。

* * *

 既に明るくなっていた宿の部屋の中で、人の気配がしないことに気づいた珠恵は、慌てて布団の上で身体を起こした。途端に自分の身体がどこか酷く頼りない気がして、そっと視線を下へと落とし――。  その有り様に、恥ずかしさの余り手に触れた風太の浴衣で身体を包み、膝を抱えたまま丸くなってしゃがみ込んでしまった。
 陽の光の中で目に入ったのは、何も身に纏っていない素肌で、そこにはたくさんの赤い痕が散っていたのだ。
 熱を持った耳に外から聞こえてくる鳥の囀りが届き始め、しばらくそれを聞いているうちにようやく少しずつ落ち着きを取り戻し、顔を上げて風太の名前を一度、小さく呼んでみた。
 やはり反応がない。朝からこうして狼狽えている姿を見られずに済んだことに少しホッとしながら、珠恵は顔を巡らせ、そうしてテーブルに残された走り書きを見つけた。
 メモに目を通して再び戸惑いを覚えた。こんなに早くから、風太はいったいどこへ行ったのだろうか。それでも、時間を確かめるとそうもゆっくりはしていられないことがわかり、まだどこか重怠い身体に力を入れて立ち上がり、急いで身支度を始めた。
 メモに書いてあった通り朝食前に戻って来た風太に、どこに行っていたのかと尋ねてみた。人に会う用事があると言っていたから、その人に会いに行っていたのかと。
 ――年寄りは朝が早えからな
 少しだけ笑みを浮かべてそう答えた風太は、けれど、どこで誰と会っていたのかは、結局話してはくれなかった。
 珠恵も、本当は気にはなっていたけれど、何となくそれ以上は聞くことができなかった。ただ、部屋を出て荷物を車に積む時、昨日は四本あったはずのお酒が三本に減っているのに気が付いた。
 持って帰った三本のうち一本は親方に、そしてもう一本は、いつの間にか風太が仕事場でだろうか誰かに渡したらしく、一本だけが部屋に残っていた。

* * *

 これは、その最後の一本だろう。
「誰かに、持って行くんですか?」
 誰に渡すのだろうかと考えながら、問うてみる。
「まあな、いい加減連れて来いってうるせえし」
 それだけを答えて苦笑いを浮かべた風太が、この日珠恵を連れて向かったのは、ターニャの店だった。

 店の扉を開けると、どこか太さを感じさせる賑やかな声が耳に入る。
 ドアの方へと視線を向けて、風太に「いらっしゃいませ」と声をかけてきたのは、珠恵も見覚えがある男性だった。背中に隠れるように立つ珠恵の存在に気付いたその人が、軽く目を開き、どこか親しげな眼差しを浮かべて珠恵へも会釈をくれる。
「一回会ったの、覚えてるか?」
 風太を見上げると、振り向きざま少し屈んでそう聞かれて、珠恵は小さく頷いた。
 六人掛けのカウンターにテーブル席が4つのさほど広くはないその店は、まだ少し時間が早いからか、客も二組しか入っていないようだ。カウンターに派手な髪の色をした女性が一人。テーブル席には、上司と部下だろうか、年の離れたサラリーマンぽい客が、明るいトーンで大きな身振りで話す派手な化粧を施したスタッフを相手に、すでにいい調子に出来上がっている。
 居酒屋以外の、所謂クラブやバーのような類の店に入った事のない珠恵は、店に入る前から緊張していて、あまり視線を動かす事が出来ずにいた。
 風太の後に続いて恐る恐るという感じで足を踏み入れた店内を、カウンター席へと向かう。
「お久しぶりですね」
 先程の男性が、カウンターからおしぼりを広げ風太に手渡しながら、そう声を掛けてきた。風太が短い返事を返すのをスツールの後ろに立ったまま見ていると、その人の視線が珠恵へと向いた。
 風太から、この人は弘栄さんだと、そう耳打ちをされる。そういえばそんな名前を耳にした覚えがあると思いながら、珠恵は慌ててもう一度頭を下げた。
「お会いするのは二度目になりますね」
「はい、あの時は、お世話になりました。……あの、あれからずっとお礼も言わずに、申し訳ありませんでした」
「いえ。そんなことは気にしないで下さい。お元気そうでよかった」
 頭を下げる珠恵に、カウンターの内側から穏やかな口調で答えたその人は、スツールを指し示した。座れということだろうと、風太の隣に腰を下ろす。
「風太さんは、まずビールですね。それから、珠恵さんは何か……ノンアルコールのカクテルでもお作りしましょうか」
「ですね、それでいいか?」
 弘栄から珠恵へと視線を移した風太に頷いて、風太から弘栄へと視線を移す。
「はい、じゃああの、それで。あの、ありがとうございます」
 弘栄が自然に珠恵の名前を呼ぶことにも、アルコールがダメだと覚えていた事にも、少しの驚きと、気恥ずかしさを覚える。
 先に風太にビールを出してから、手慣れた動きで珠恵のための飲み物を作っていた弘栄の視線が、スッと珠恵達の後ろへと向けられた。
「ママ、ずっと言ってましたよ。いつになったら連れて来るんだって」
「何度も連絡、来てましたよ」
 風太が苦笑気味に答えると、弘栄の視線が珠恵へと向けられた。
「会うの楽しみにしてたみたいです、珠恵さんに」
「え……?」
 そんな風に言われると、余計に緊張が込み上げて来る。出されたつまみを口にした風太が、珠恵に向けて口を開いた。
「捕って喰われやしねえから、そんな構えなくていいぞ」
「喰われるなら風太さんでしょう」
 恐らく冗談だろうが、真面目な顔で返している弘栄の言葉に、どう反応したらいいのかわからないでいると、そんな珠恵の様子に風太がおかしそうに笑う。
「喰われたりしてねえぞ」
「へっ、あの……、はい」
 カウンターの中から微かに笑う声が聞こえた気がして、顔を上げてみた。けれどやはり気のせいだったのか、先程と変わらない表情をした弘栄が、シェーカーを振る腕を下ろし、店内の薄暗く灯った明かりを反射するように綺麗に磨かれたグラスに、ブルーの色をしたカクテルを注いだ。滑らかな動きで、それを珠恵の前に置いた弘栄は、ほら、という様に、顔を珠恵の背後に向けた。
 それと同時に――

「珍しいわね、弘栄、あんたが笑うって」
 突然背後から声が聞こえてきて、飛び上がりそうになる。
「ちょっと、随分なご無沙汰だったじゃないの、風ちゃん」
 語尾を微かに伸ばしながら話すその人の、低くて少し嗄れた声に、珠恵はすぐに後ろを振り返った。
「で、……この子ね」
 思ったよりもすぐそばに、店のママであるターニャの姿があった。
 間近で対面すると、より迫力を感じさせる鍛えられた体格のその人は、顔つきや髪型、体型を見る限りは男の人だったが、厚い唇に塗られた赤い口紅や、頬を染めるチーク、ラメ入りのブルー系のアイメイクが、きっとそうではないのだろう事を知らしめている。
 じろじろと、それこそ上から下まで無遠慮な視線が珠恵を辿っていく。たじろぎながらも、慌ててスツールを下り立ち、頭を下げた。
「ふうん」
「あの、は、はじめまして。私……福原珠恵と申します。以前は、お世話になり、ありがとうございました」
「あらあ、はじめましてじゃあないわよ」
「え、……あ」
「花見の時、あの時もあなたいたでしょう。風ちゃんのこと独り占めしちゃって。ま、ただ見かけたってだけだけど」
「あ……はい」
 文字通り珠恵を見下ろしているターニャは、一通り観察を終えると、その目を三日月のような形にして笑みを浮かべた。
「あ、の」
「いったいどんな子が私の風ちゃんをメロメロにさせてるのかと思ったら、案外普通の子じゃない」
「ターニャさん」
 苦笑ぎみの風太の声に構わず笑いながら送られてくる値踏みするような視線に、珠恵はまたたじろいでしまう。
「あ……あの、す、すみません」
 言葉自体はきつくは無かったけれど、そんな風に言われて咄嗟に謝ってしまう。メロメロ、という言葉が頭に引っかかって、それを否定しなければと、変に首を振っていた。
「謝る必要ねえぞ」
「ママは女性は褒めませんから。まだいいほうですよ。もっと辛辣な事を言われたりしますから」
「弘栄、余計なこと言わないで。ほらあ、私が苛めてるみたいじゃないの。あなたも、もういいから座んなさいよ」
 弘栄を軽く睨みつけてから、カウンターの中へ入っていったターニャは、差し出されたグラスを受け取り、隅に一人腰掛けていた客に簡単に言葉を掛けてから、風太達の前へと回って来た。
 軽く、風太のビールグラスにそれを合わせてから、再び口を開いた。
「おタマちゃんだっけ。あなた、結構噂になってるわよ」
「え、う、わさ?」
 おタマ、と呼ばれた事にも驚いたが、その後の言葉にもっと戸惑う。
「何すか、それ」
「風ちゃんを落としたのはどんなオンナかってね。この子もこの辺じゃ、ちょっと知られてるから」
 まさかそんな事になっているなどと思ってもいなかったため、動揺し言葉に詰まる。
「なんだかすっかりトゲが抜け落ちちゃってまあ。ねえ、この男をどうやって手懐けたのよ」
「て、手懐け……あの、そんなことは」
「昔の風ちゃんなんて、そりゃもういつもヒリヒリしてて、身体中棘だらけにしてたのよ。……あ、しまった。ちょっとねえ風ちゃん、この子にどこまで話してんの」
「まあ、……ヤバイ話以外は」
 ――ヤバイ話……
 それはどういう話なのだろうか、そんな事を考えていると、頷いたターニャが、グラスをカラカラと回しながら口を開いた。
「じゃあ、回り回れば、私があなた達を引き合わせたのよ、っていう事も?」
「……ああ、いやまあ、そうですかね」
「え?……あの」
「そうよぉ、あなた私に感謝しなさいよ」
 グッと顔を近付けてきたターニャに気圧されながら、風太に戸惑いと疑問の目を向けた。
「お前には話したことあるから」
「え?」
「この人と、初めて会った時のこと」


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