「ちょっと、ねえあれ。……またなの?」
顔を顰めたターニャの視線の先には、コーラの空き缶が転がっている。口角を気付かぬくらいほんの僅かに持ち上げた弘栄は、目線だけをターニャに向けた。それで、頷いたのだとわかる。
「弘栄さんっ、お代わりまだっすかっ」
「やだあ、ちょっとあの子、完全に出来上がってるわよ。ほんっとにアルコール混ぜてないの」
「翔平さんはまだ飲めませんし」
「そう、よねえ。それにしても」
「ターニャさんっ」
「……なによ」
「俺が弘栄さんと、熱く語り合ってんっすよ。邪魔しないで下さい」
「……熱く?」
「……」
「……」
オーダーが入った自家製ピクルスを、表情を変えることもなく皿に取り分け始めた弘栄を見つめて、ターニャは、答えを聞くまでもないと無言で首を横に振る。
「ねえ、コーラだけでいったいどれ位こうしてるのこの子」
「そろそろ二時間、くらいでしょうか」
「にっ……」
時刻は、もう深夜0時近い時刻だった。呆気に取られたように言葉を呑み込んだターニャの脇をすり抜け、弘栄は準備を終えたピクルスを、テーブル席に運んでいく。
「ねえ翔平ちゃん、あんたうちの店のコーラ飲み尽くすつもり?」
言いながらも、新しいグラスに注いだコーラを目の前のコースターに置いたターニャに向かって、何事かを答えようとした翔平の口から、空気を吐き出す地を這う雷のような音がした。
「やだあーもうっ。あんたいい加減にしなさいよ。あら……あらまあ宮野さん、ごめんなさいねえ。カウンターにウシガエルがいたみたいで」
テーブル席の客は盛り上がっているため、聞こえている様子は全くなかったが、たまたまのタイミングでトイレから戻ってきた客が、翔平の後ろで足を止めてしまっていた。
愛想を振り撒きながらターニャが奥のテーブルに目配せをすると、客についていた店子が寄ってきて、腕を絡めながらテーブルへと引っ張っていく。
力強い店子に半ば腕を支えられるようにして席へ戻る客の背中へと向けていた愛想笑いを、口元に残したまま、ターニャがそっと溜息をついた。
「翔平ちゃん、あんたもうコーラはいい加減やめときなさい。それに、もうこんな時間よ。いくら若いからって、あんたも明日早くから現場なんでしょ」
「こっから現場に行くっす」
「やだ、唇尖らせてちゃって。なによ、ちょっと可愛いじゃない」
「ママ」
カウンターに戻ってきた弘栄の少し咎めるような口調に、口の端を持ち上げ、ターニャはニヤリと笑った。
「大丈夫よお、こんな鼻っタレたガキは守備範囲じゃないから。まあ、ちょっと母性本能? 擽られるけど。……それにしても、だいたいいったい何があってこんな」
「あ……」
マドラーを回す手を止め、弘栄が、なぜか不味そうな顔をしてターニャを見遣った。
「何があったか知りたいっすか? そうっすよね、そりゃそうっすよ。ターニャさん」
「いや……大して」
知りたかないけど、と言い掛けたターニャの言葉を遮るように、翔平がカウンターの中へとにじり寄るように顔を近付けた。
「ちょっと何なの」
「どう思います? あの二人……つうかっ、風太さん」
「あら、やだもしかして私、寝た子を起こしたの?」
「まあ……まだうたた寝、くらいでしたが」
「ターニャさんっ、聞いてるんっすか」
「あーはいはいはい、なあに? 翔平ちゃん、聞いてるわよお」
聞き流すように適当な相槌を打つターニャに向かって、そんなことはお構いなしに、翔平がブツブツと愚痴を零し始めた。
「だいたい、珠ちゃんとちょーっと仲良くしゃべってるだけで、てめえ何口きいてんだ、あ? みたいな目で見てくるし、なんすか、あれ。一緒に住んでんだから、そりゃ喋るに決まってんじゃないっすか?」
「いや、まあ……ねえ。……っていうか、またあの二人の話なの?」
「そうみたいですね」
「あんた、先に言っときなさいよ」
「すいません」
ターニャと弘栄の小声での遣り取りなど耳に入っていない様子の翔平は、カウンターに立てた肘に頬を乗せて、ますます不貞腐れた表情を浮かべた。
「今日だって、わざと邪魔するみたいに部屋から出てきて、あんなこと、わざわざ言ってくるし……」
「……」
「あんなこと……」
「……」
「だからあんなこと……」
「っあーっ、面倒くさいわねもう、で、あんな何を言われたの」
問い返した途端、今までの勢いがしぼんだ翔平が、ボソボソとした声で何かを口にする。
「……って」
「は?」
「……んなって」
「え?」
「… ズにすんなって」
「……へ?」
「だからっ。てめえ、珠恵をオカズにすんなよ、って」
「は?」
「……ママ」
呆気に取られ口を開けたまま固まったターニャを、弘栄が冷静な声で呼ぶ。その呼びかけに我に返り、一度口を噤んだターニャは、ここへきて初めて翔平に同情するかのように眉をハの字に寄せた。
「んなこと言われたって、珠ちゃん、なんか風呂上がりにむっちゃいい匂いさせてるし、スッピンだし、顔とか薄っすら赤くして、なんか髪とかちょっと濡れてて、首筋とか張りついたりしてるし、後ろ姿とか無防備だし、それで振り返って、ねっ? とか言って、笑って俺を見てくるし」
「そりゃまあ笑うくらいするでしょうに」
「あんなの、そりゃ、ちょっとくらい変な気分になっても、しょうがないって思わないっすか?」
俯き加減で一息にまくしたてた翔平は、大きく息を吐き出すと、訴えかけるようにターニャを見上げた。カウンターで引き気味に話を聞いていたターニャの口元に、僅かにどこか楽しむような笑みが浮かんだ。
「変な気に、なっちゃったんだ」
「……」
翔平の視線が泳ぎ、コーラの変わりに水が注がれたグラスを手に取り、一気に飲み干す。
「そこは無言なわけ」
「……」
「そりゃあんた風ちゃ」
「思わないっすかっ」
「あら、復活したわ」
カウンターにグラスを戻す勢いを借りるように、翔平が再び、同意を求めるような顔をターニャに向けた。
「あーもう、ほんっとに面倒くさいんだけど……。ああ、仕方ない仕方ないない、仕方ないわよねえ、けど翔平ちゃん。あんた、もうどっかでちょっと、致しといた方がいいんじゃないの? 本当そのうち煩悩が溢れて犯罪に走るわよ」
「……どっかでって、……んなこと言われたって」
翔平が、更に不貞腐れたような呟きを漏らす。
「んもう、竜ちゃんや一寿が連れてってやるって言った時に、素直に行っときゃよかったのよ」
「……いいっす。……そういうの、俺」
「あー、ならいっそもう、私が誰か世話してあげよっか?」
殆ど口先だけでそう口にしたターニャを、翔平がじとっとした目で見遣った。
「ターニャさんに前紹介された人……ついてたじゃないっすか」
「あら? あの子ありだったかしら」
「だったかしら? じゃないっすよ」
「うーん、他にもいい子いっぱいいるのよ」
「……」
「あらダメ?」
「年上もいいつったら、ターニャさんと同い年の人紹介するし」
「……ママ」
わずかながら同情を含んだような弘栄の声に、ターニャが揶揄うような顔を収めた。
「わかったわかった。翔平、あんたもほら、ちょっと訛ってるけど可愛い顔してんだから、そのうちいい子が見つかって、ガンガンヤレるわよ」
「……人のこと、ヤりたいばっかみたいに言わないで下さい」
「あら、違うの?……ヤリたくないの?」
「そ、……そりゃ……ちょーっとは」
「ちょっとの訳、ねえだろ」
「……そりゃ、したいっす……けど、誰でもいいってもんじゃ」
「ママ、もうそのくらいで」
いつの間にか、ターニャの方が身を乗り出すように翔平ににじり寄っていて、その圧力に耐えかねたように翔平の方が顔を引いていた。
「わかったわよ弘栄。にしても、あんたも今時貴重なオトコよね。まあ、今んとこ報われてなさそうだけど」
「でも……いいっすよね……風太さん。だって珠ちゃん、なんかやることイチイチかわいいし」
「まあねえ、目の前でイチャコラされたんじゃ、あんたも目の毒よねえ」
「そうっすよ。そうなんっすよ。わかります? なんが、あこだけぇ、空気がピンクっつうかあ」
「ピンク?……ピンクな風ちゃんってちょっと想像出来ないんだけど。……っていうかあんた訛り漏れてるわよ」
「なに言ってんっすか、ピンクなのは珠ちゃんだけっすよ。風太さんは黒っす、ブラックっすよブラック」
「わかんないけど、ようは翔平を通して、二人の惚気を聞かされてるってこと?」
「まあ、そうですかね」
「……バカらし。弘栄あんた、よくこんな話に二時間も付き合ってられたわね」
再び唇の端を微かに上げた弘栄は、やはりそれには答えることなく、翔平の目の前に乾燥トマトと自家製ハムをのせて焼いた熱いピザの皿を置いた。
「そろそろ、お腹がすいてるんじゃないですか」
顔をパッと上げ、主人を見つめる犬のような目を弘栄に向けた翔平は、感激に目を潤ませている。
「……弘栄さん……俺っ、……もし、もし俺が女だったら、絶対俺、弘栄さんに惚れるっす」
「ありがとうございます」
「あらあ? 翔平ちゃんもお目覚め? んもう、なら話が早いじゃないの、弘栄に頼んで」
「……」
弘栄はもう諌める言葉もなく、そして翔平は唇を尖らせ、二人の視線がターニャに突き刺さる。
「ちょっと、……ただの冗談じゃない。相変わらずこういうの通じないわね弘栄も。翔平ちゃんも、これくらいでそんな怒らなくても。ほら、チーズが硬くなるから早く食べちゃって帰んなさいよ。それはサービスだから」
頷くように、目の前の皿を引き寄せピザの匂いを吸い込んだ翔平の口元が緩む。
「俺、マジ腹が減ってたんっすよ。じゃ、いっただっきまーす」
ムクれていたことも忘れたように、手でつまんで口に運び、ハフハフしながらそれを頬張り始めた。
「くーっ、旨いっす。マジ沁みるっす」
美味しそうに夢中でピザを食べていく翔平を見ていたターニャの口元に、しょうがない子ね、とでも言いたげな、柔らかな笑みが浮かんだ。
「まあ……この様子じゃ、大したことなさそうね」
小声でそう呟いたターニャに、横顔を見せていた弘栄が同意するような視線を向ける。続けざまに入ってきたオーダーに対応するため、ターニャも翔平のそばから離れた。
「……ねえ」
「はい」
「やっぱり私、その子にすっごい興味あるんだけど」
「ですね……」
「風ちゃん、連れて来るかしら」
「……ええ。多分」
「風ちゃん、一時すっごくタチの悪い飲み方してたじゃない。それが全然顔見せなくなったと思ってたら、おタマって子を家から掻っ攫って来たとかなんとか竜ちゃん達が言ってんのは聞いたけど。肝心の風ちゃんがあれっきり顔見せないもんだから」
「まだ、落ち着いてないんじゃないかと」
「そう、そうよね……。それにどうもすっかり、色ボケてるみたいだし」
「……」
しばらく手を止めた弘栄は、何も言わずに再び手を動かし始めた。
「連れてきて……くれるかしら」
「……」
「もし連れてこなかったら、こっちからおタマに、会いに行っちゃおうっと」
「……」
「だから冗談よ」
「わかってます」
「あんたの顔は、わかりにくいのよ」
「……すいません」
準備を終えたスナックプレートを弘栄に託して、そっと振り返りカウンターの端を見遣る。
ピザを食べ終えた翔平は、最後にチーズと共に皿に垂れ落ちたハムを摘まみ上げ、口に放り込んで、満足気な笑みを浮かべている。
カウンターに戻った弘栄も、ターニャの視線を追って、今度こそ、はっきりとそれとわかる笑みを、口元に浮かべた。