「ちょっと何? この酔っ払いみたいなの。弘栄、あんたまさか飲ませたんじゃないでしょうね」
「いえ、これ、だけです」
弘栄が持ち上げたコーラの缶と、カウンターに座る翔平とを見比べて、ターニャが微妙な笑みを浮かべる。
「ちょっと……聞いてるんっすか、弘栄さんっ!」
「はい、聞いていますよ」
「だいったい、前からみぃーんな、気付いてたっつうんすよ」
「はい」
「わかってないの、風太さんだけで……いや、どー思います、あれって、やっぱわかっててわざとっすかね? ほら、ツンデレ、みたいな……ねえ、弘栄さん」
「どうですかね。そのあたりの事は。私も今日初めて会った方ですから。ツンデレ、だったのかどうかも、よくわかりません」
ブツブツと弘栄に絡みながら、炭酸の泡がはじける黒い液体を飲み干した翔平が、グラスをグイっと差し出してくる。
「おかわりっ」
嫌そうに唇を歪めたターニャは、コーラを新しいグラスに注いでいる弘栄に小声で声を掛けた。
「ねえ、翔平ちゃん、さっきから風ちゃんに怒ってんの? 何、さっきのカラオケの話と何か関係ある感じ?」
「まあ……そんなとこ、ですかね」
決して愛想が悪い訳でもないが、余り表情を変えることもない弘栄が、ターニャの問いに小さく頷いた。
「でも、無事だったんでしょ、その子」
「まあ、ちょっと強めの酒は飲まされてましたが」
「ふう……ん、で?」
弘栄が注いだグラスのコーラにひと口だけ口をつけて、しかめっ面でそれを翔平に手渡したターニャが、唇の端を上げて弘栄を見遣る。
「どうだった?」
「どう、とは」
「可愛かったかってことよ」
「ああ、まあ……可愛い人でしたよ」
他の客からオーダーが入ったアルコール度数のきつい酒をグラスに注いで、マドラーで掻き混ぜようとしていた手を止めてから、弘栄は、やはり淡々とした口調でそう答えた。
「ママは、見た事ありますよね」
続く言葉に、ターニャがまつ毛をパチパチとさせてから、小さく何度か頷いた。
「やっぱり、あの花見ん時の子なのね」
その問いに弘栄が答えようと口を開くと同時に、どう聞いても酔っているようにしか聞こえない声が再びクダを巻き始めた。
「ちょっとぉ。聞こえたっすよ弘栄さん。今、珠ちゃんの事、可愛い、って言ったっすよね。やっぱり……。珍しく弘栄さん笑顔なんか見せたりしてたし」
「え、そうなの?」
ターニャが今度こそハッキリと目を丸くして、弘栄に問いかけた。
「や……別にそう、珍しくもないって思いますが」
「珍しいわよ」「珍しいっすよ」
翔平とターニャのシンクロした答えに、さすがに少しばつが悪そうに、顎のあたりを擦りながら、弘栄は苦笑いを浮かべた。
「私が見たことあるっていっても夜だったし、酔ってたし、だいたいあの距離じゃ顔なんて人かどうかぐらいしかわかんないわよ。へえ……そう……かわいいの」
「まあ、ある意味そうですね。それに、風太さんがああいう顔を見せるの、珍しいですし」
「ある意味って何よ。それにああいう顔ってどういう顔? ちょっともうすっごく気になる。ねえ、翔平ちゃん、可愛いの? そのおタマってネコみたいな名前の子」
ターニャを見つめた翔平が、少し口を尖らせて頷く。
「かわいい……すよ」
「えー何よっ、○○とか××、みたいな?」
女の子に人気のモデルやアイドルの名前を口にするターニャを、どこか胡散臭そうな目で見つめた翔平が、小さく溜息を吐いた。
「そういうのとはちょっと違うんっすよ。……何ていうか……うーん、どう言えばわかって貰えるんすかね……俺より年上っすけど、こう、なんてか……純粋? ……一生懸命つうか、そういうとこが何ていうかもう……あーっ! 思い出したらまた腹立ってきた。そうっすよ、だいたい珠ちゃんと仲良くしゃべってる俺をあんな怖え目で見てるくせに、俺が行ってもいいんすかって聞いたら、好きにしろ、とか言っちゃって……。そのくせ、さっきのあれ、何すか、誰も触んな、みたいな」
ぶつくさと言い募る翔平に肩を竦めたターニャは、一歩下がった位置でグラスを磨き始めた弘栄を見遣った。
「ねえ弘栄、私、その子に俄然興味沸いてきたわ。だいたい、花見の日に風ちゃんのそばに誰かいるの見ただけでも結構驚いたのよ。親方さんに聞いたって、風太の先生だとしか言わないし。そこへきて今回の事でしょ。これまで店の客って立場をずっと崩さずにいた風ちゃんが、ああいう事を私に頼んで来たってこと自体がもうね」
「……そう、ですね」
「しかも、名前よあんた。私を名前で呼んだんだから、よっぽどの事だと思うじゃない」
「まあ、よっぽどの事、でしたが」
視線をグラスに向けたまま手を止めることのない弘栄を見ながら、少しの間、ターニャは口を噤んだ。
自称アルコール代わりのコーラ四杯でお腹が膨らんだ翔平が、ボソボソと話す二人の遣り取りを聞いていたのかいなかったのか、今度は一転してどこか少し沈んだ声で話し始めている。
「まあ、わかってた事っすけどね」
呟くようにそう口にして、深く溜息を吐きそのまま椅子から降り立った。
財布を取り出した翔平に、ターニャが小さく首を振る。さすがに、ターニャにも翔平が何を愚痴っているのかは察しがついたのだろう。
「今日はおごりよ」
その言葉に素直に頷くと、いつもの半分ぐらいの小声で礼を口にして、翔平はもう一度大きな溜息を落としてから、とぼとぼと店を出て行った。
帰る間際――
「弘栄さん、風太さんが言ってたボトル、絶対キープしといて下さいよ。いっちばん高いの」
それだけは言い残して。
まだ、これから客が入ってくる時間ではあったが、今のところ店内はすいていて、二組程しか客は入っていない。接客をしている店子が通すオーダーに弘栄が応え、ターニャも時折客に声を掛け、からかい交じりに短い会話の応酬を交わす。
やがて、それぞれのテーブル内で話がはずみ出す様子を眺めながら、ターニャは、カウンターの中で、きついお酒を口に運びながらポツリと口を開いた。
「ねえ。風ちゃん……その子に惚れてんの」
「そう、ですね。そんな風に見えましたけど」
「ふう、ん。……それって本気で?」
「多分」
アイスピックで割った氷を、客とターニャのグラスに入れながら、弘栄が静かに答える。その口元に、微かに笑みが浮かんでいた。
「もしそうなら……安見さんに、見せたげたいわね」
「そうですね……」
「ねえ、何て言うかしら」
「嬉しがって、からかうんじゃないですか」
グラスを掻き混ぜるカラカラとした音が小さく響く。
ターニャは、ゆっくりとロックのグラスを口元に運び、弘栄は別のグラスに注ぐカクテルを作り始めた。
互いにそれ以上視線も言葉も交わす事なく、そこだけがただ、物思うような静かな空気に包まれていた。
(end)