番外編《雨月》

四温の雨 2



 風太に手を引かれついて行った先は、レトロな外観の小さな洋食屋だった。
 『Lanthan』と書かれたその店は、ターニャの店がある区画とは駅を挟んで逆側の、喧騒から少しだけ離れた住宅地のエリアにあった。
「いらっしゃいませ」
 扉を開くと、白いシャツに黒のパンツ、腰エプロンを巻いた落ち着いた物腰の女性店員が、二人に笑顔を向けてくる。
「あの、予約した森川です」
「ああ、いらっしゃい、お待ちしてました」
 厨房となっているらしいカウンターから、シェフの出立をした男性が続けて声をかけてくる。上着などを店員に預けてから、案内されたのは、白いテーブルクロスのセッティングがされた2人掛けの席のひとつだった。

 カウンターが6席、4人掛けと2人掛けのテーブル席がそれぞれ二卓ある店内は、すでに席の半分ほどが埋まっていた。更に店の奥に個室があるらしく、扉が開くと客の声らしきものが漏れ聞こえてくる。フロアスタッフに椅子を引かれた珠恵が先に腰を下ろすと、自分で椅子を引いた風太が向かいの席に腰を下ろした。
 そっと視線を巡らせた店内は、落ち着いた雰囲気ながら畏まり過ぎてはおらず、他の客が談笑する声が邪魔にならない程度に聞こえてくる。馴染なのだろう、カウンターの客が店員に気軽に声をかける姿を見ながら、珠恵の気持ちも自然と綻んでいた。
「すぐ近くに、こんなお店があったんですね」
「ああ、昔からある店で、親方なんかもたまに来てるんじゃねえかな」
「あ、じゃあ風太さん――」
 風太も来たことがあるのかと尋ねかけて、珠恵は口を噤んだ。さすがにこういった雰囲気の店に、男性同士で来ることはないだろうと、焦って別の言葉をつなげようとしたとき、風太から答えが返ってきた。
「俺も入ったのは初めてだけど」
「そう……なんですか」
 その答えに、ほんの少しだけ安堵してしまう。そうして、後から入ってきた客で満席になった店内をみて、ようやくあることに思い至った。風太が珠恵の誕生日を知ったのは、恐らく今日になってからだろう。ならばこの店の予約も、今日急遽取ってくれたのだろうか。
「どうした?」
「あの、ここのお店の予約も、今日?」
「あー、まあ、な。つうか……」
 僅かに歯切れが悪い答えに顔を向けると、苦笑いした風太が、実はターニャに頼んだのだと教えてくれた。このあたりのことは、あの人の方が詳しいから――と。
「失礼致します」
 会話の邪魔にならないタイミングで、先程の女性とは異なる男性の店員が注文を取りにくる。
「本日はありがとうございます。お飲み物はいかが致しますか」
 広げられたメニューの中から、風太はまずはビールを、そうして珠恵はノンアルコールのカクテルを。続けて、店員のおすすめの中から、この店の名物だというタンシチューのコースを注文する。
 オーダーを復唱してから、物腰の柔らかなその男性店員は、なぜか席を立ち去ることなく、風太に顔を寄せ何事かを耳打ちした。

 僅かに「ターニャさんから」という言葉だけが珠恵の耳にも届く。その拍子に、風太の視線がチラッと、テーブルの上に飾られた綺麗な花に向けられた。
「……ああ」
 どこかいたずらっぽい笑みを浮かべたスタッフが、風太と珠恵に会釈をしてからテーブルを離れていく。その後ろ姿を何気なく追いながら、珠恵は、このテーブルとほかのテーブルとの違いに気が付いた。
 周りのテーブル席には、一輪挿しに刺した花が飾られている。だがこのテーブルにだけには、アレンジされた小ぶりの花束が飾られていた。視線を戻すと、目が合った風太がもう一度苦笑いした。
「言うなっていわれたけど、ガラじゃねえし」
「え?」
「それ――。ターニャさんかららしい」
 それ、といった風太の視線が向いたのは、チューリップ、ガーベラ、カスミソウ――全体的に淡いピンクの色合いで統一されたテーブルに飾られた花だった。もしかして、と思った矢先の答えに、豪胆に見えて繊細な気遣いをするターニャの顔が浮かび、胸が温かくなる。
「――うれしい」
 笑みを浮かべて、指先でそっと触れてみた花束から顔を上げると、優しげな表情を浮かべた風太が、ぽそっとひとりごちた。
「……またひとつ借りだな」

 スープ、サラダ、前菜、バケット、そしてメインのタンシチュー。舌にのせるとほろほろと溶けるように崩れる濃厚な味わいは、さすがに店の名物といわれるだけのもので、風太も「うまいな」と言いながら、ペロッと平らげていた。
 言葉にしない時でも、珠恵は、目の前にいる風太と目が合う度に、一緒に食べている料理の美味しさを、交わす視線だけで共有できた気がした。
 これまで、幼い時を除けば、自分の誕生日をそれほどまでに特別なものだと思ったことはなかった。
 けれど――。今日という日は、確かに特別だった。風太が、この日を、特別なものにしてくれたのだ。
 初めて風太に祝って貰った誕生日、訪れたこの店、一緒に食べたこの料理、この時間を。忘れることはきっとない――と、珠恵は、胸の内でそう思っていた。

 * * *

「ごちそうさまでした」
「うまかったです」
 そんな言葉を残して、店を後にする。
 ターニャが店に頼んでくれたテーブルにセッティングされていた花は、「お誕生日おめでとうございます」の言葉と共に、最後に店のオーナーから、どうぞお持ち帰り下さい、と手渡たされた。
「お気をつけて。またどうぞいらしてください」
「はい。また来ます」
 社交辞令ではない気持ちでオーナーとスタッフにそう声を掛けてから、珠恵は会計をする風太より一足先に、店の外へ出てみた。
 その途端、吐く息の白さに、暖かな店内では忘れていた寒さを感じ思わず身を竦める。風がないため少し冷え込みはマシだが、やはり2月半ばの寒さは、温まった身体をすぐに冷やしてしまいそうだ。
 手にしていた鞄からマフラーを取り出そうとしたとき「寒いな」と、会計を済ませ店から遅れて出てきた風太の声が背後から聞こえた。
「そうですね――」
 と、そう答えようとしたとき、不意に珠恵の襟元が柔らかなぬくもりで包まれた。

「――え?」
 仰ぎ見るように振り返ると、風太の視線が僅かに逸らされる。
「風太さん……あの、これ」
「あー、誕生日の、あれだ。まあ、間に合わせみてえで悪いけど」
 珠恵の襟元に巻かれていたのは、極淡いミントカラーとベージュの色合いがリバーシブルになった、柔らかな素材のあたたかなストールだった。
「もしかして、今日の仕事の後で、買いに?」
「まあ……合間にな」
 食事だけで――いや、今日という日を祝って貰っただけで十分で、まさかプレゼントまで用意されているとは思いもしなかった。
「そういう色、持ってなかったよな」
「持って、ません」
 嬉しさにそっと触れてみた柔らかなストールから顔を上げて、振り返ろうとすると、隣に並んだ風太に手を取られる。冷えた珠恵の指先が、温もりを分けるように、大きな手のひらに包み込まれる。ストールに埋めた頬、手のひら、そして胸の中が温かくて、じわじわと涙が込み上げそうになる。
「手、冷てえな」
「でも……こっちは。すごく、あったかいです」
「……そうか」
「色もきれいだし、手触りも。風太さん……ありがとう、ございます」
「気に入ったなら、まあ、よかった」
 繋いでない方の手が伸びてきて、隙間を埋めるように、ストールが巻き直される。その手を止めた風太が、「珠恵、あとな――」と言いながら、珠恵の目をじっと見つめた。
「風太さん?」
「いいから、こういうことは、ちゃんと言え」
「あ……」
 もしも逆に風太の誕生日を知らなかったら――それを想像すれば、教えて欲しいと思う気持ちは珠恵にもよくわかる。何となく言い出しにくかった、それだけの理由で風太に伝えなかったことに、さっきよりも申し訳なさが募る。
 けれど、ごめんなさい、と珠恵が口にしようとしたのと同時に、視線を逸らした風太が、駅で会った時と同じように口元に少し苦笑を浮かべた。 
「まあ、気づかない俺もたいがいだけどな」
と、そう言いながら。 

「じゃあ、行くか」
 話は終わりだ、というように手を引かれて、冷たい空気の中、静かな住宅街を駅の方へとゆっくりと戻り始める。
「風太、さん」
 呼び戻すように、握った手に少しだけ力を入れて、風太を呼ぶ。さっきは口をついて出そうになったけれど、ごめんなさいと謝るのは、風太の思いに水を差すような気がした。
「ん?」
「今日、本当に、うれしかったです」
「……そうか」
「食事も、プレゼントも。すごく……すごく、うれしかった。これ、大切にしますね」
 横顔を見上げると、風太の口元に微かに笑みが浮かぶのがわかる。顔を少し上げた風太が、寒さを確かめるように、白い息を吐いた。
「こんな寒い日に、お前、生まれたんだな」
 独り言のように落とされたその言葉に、なぜだか胸が少しキュッとなる。同じ角度で顔を上げてみると、冷たさに澄んだ空気に、いつもより星がきれいに光って見えた。
「そう、ですね。でも今日は――」
「ん?」
「いえ、なんでも」
 吐く息が白く、冷たい冬の夜。
 けれど今夜は、やっぱりあたたかかった。

 襟元に巻かれたストールに触れると、握った手の温もりと同じように、優しい温かさが、そこにあった。


(fin)

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