番外編《雨月》

月時雨②



 珠恵とヨーデフは、教室のことを話しながら前を歩いている。
 2人の少し後ろを歩きながら、風太の頭の中には、さっきのナツキという男の顔が浮かんでいた。
   いかにもな目付きで風太を睨んでいたあんなガキの相手を、本気でするつもりはない。だが、腹の中にモヤモヤとしたものが、消化しきれずに残っている。

 きれいになった――と、珠恵のことをいう声を最近よく耳にする。あの吉永までもが「最近お嬢ちゃん、ずいぶん女っぽくなったなあ」などと言ってくるくらいだ。
「先生それセクハラですよ」と、看護師が呆れ顔で注意していたが、もちろん吉永はそんな事などどこ吹く風だ。
 自覚など全くなく、からかわれているとしか思っていない珠恵は、真っ赤になって口籠っていたが、その隣で風太は、ニヤケ顔をした藪医者の口を縫い付けてやりたい気分だった。

 ターニャの店を訪ねた時も、初めはいつものように珠恵の肌質を褒めて頬に触れていたミカが「ねえ、ママ。珠ちゃんさあ、前はかわいいだったけど、最近キレイになったって思わない?」と言い出し、それに真那も同調して、ターニャや店子までもが、珠恵を取り囲み、化粧品は何が良いだの、メイクや手入れがどうだの、そんな話題に花を咲かせ始めた。
 珠恵はといえば、自分のことを言われるとアワアワと狼狽えて困ったような顔をしていたが、ターニャー達は、半ばそんな反応を楽しんでいるようにも見えた。
「そりゃあ、恋してるからよね」
 意味ありげに、ニヤニヤと視線を投げて寄越すターニャ達を無視して、風太は、唯一その輪に加わっていない弘栄と、酒の話をして時間を遣り過ごした。

 だいたいこの手の話に口を挟むと、ろくなことにならないことは、学習済みだ。
 去年の年末、珠恵と出掛ける日の朝、風太が取った態度のせいで、年が明けるまで愛華は風太とはひと言も口をきかなかった。目も合わさず、嫌がらせのように珠恵にベッタリで、これ見よがしに「珠ちゃん、練習台になってよ」と、珠恵にまた化粧を施したりもしていた。
 自分に非があることはわかっていたが、喜世子でさえしばらくは態度が冷たく、親方や翔平、竜彦達からは何をやらかしたのか――と視線や言葉で問われたが、その理由などとてもじゃないが話せるわけがなかった。
 あれ以来、流石にこういったことに下手に口を挟むもんじゃない、ということは嫌というほどわかっていた。

 珠恵自身も、やはり綺麗にすることに無関心なわけではない。恥ずかしがりながらも、楽しそうだ。
 別にそんな必要ねえだろ――と思ったことが顔に出ていたのか、女は男のためだけにおしゃれをする訳じゃないんだからね、と風太に釘を刺すように言ったのは、ターニャだっただろうか、それともミカだっただろうか。
 確かに、珠恵は必要以上に自分を卑下するところがある。だから、綺麗になったと言われることで、少しでも自信が持てるのなら、それはいいことなのだろうと、頭の中ではわかっている。
 けれど胸の内には、それを否定しようとする自分がいる。珠恵は珠恵のままで十分だろうと思っていた。決して口にすることのない本音では、自信など持たなくてもいいという思いさえあった。
 さっきのような光景を目にすると、そんな気持ちがより強くなる。

 自分の中にあるこんな狭量さを知ったのも、珠恵と出会ってからだ。珠恵という女は、幾つもの知らなかった感情を連れて来る。

 ヨーデフとは途中で別れ、家路につく2人は、比較的大きな家の続く静かな住宅街に差し掛かっていた。
 珠恵は何か考え事をしているのか、さっきから無言だった。質問の途中で帰ってしまったナツキのことを、気にしているのだろうか。
――面白くない
「珠恵」
 足を止めた風太に、珠恵も歩みを止めて振り返った。
「はい」
「お前……」
 口を開きかけた時、視界に入った何かに気を削がれて、風太はそのまま視線を上げた。さっきまで雨にけぶっていた夜空に、雲が掃けたのだろう、明るい満月が浮かんでいる。
 風太の視線を追うように顔を上げた珠恵も、それに気がついたのだろう、しばらくの間じっと瞬きもせず、魅入られたように夜空を見つめていた。
「きれい――、ですね」
 仄かに笑みを浮かべた唇がそう呟くように口にして、瞬きをした瞳が風太を柔らかく見上げる。
 今、珠恵の目に映っているのは、風太だけだった。ザラついていた気持ちが凪いでいく。伸ばした手で、風太を見上げた珠恵の細い手首を握り、軽く胸元へと引き寄せた。
 びっくりしたように顔を上げた珠恵の目が、大きく見開かれていく。
「――え」
 軽く唇を合わせてから少し顔を離すと、見開いたままの瞳が揺れて、頬が赤く染まる。触れ合っている胸元が温かい。
「……た、さ、あの、こ、こんなところで」
「誰もいねえだろ」
「でも、あの」

 月しか見てねえだろ――
 と、自分でも引くようなことを言いそうになって、思わず苦笑いを浮かべた。そんな風太を、不思議そうに見上げた眼差しから目を逸らして、誤魔化すようにもう一度、珠恵の口を塞いだ。
 抗うように入っていた力が、ほんの少しだけ、腕の中で緩むのがわかる。そっと唇を離すと、熱を持ったように潤んだ瞳が、少し責めるような顔で風太を見つめた。
――お嬢ちゃん、女っぽくなったなあ
 吉永の言葉を思い出して、つい、胸の内で舌打ちをした。
「お前な……」
 微かに震える睫毛や、色めいた唇を見つめる。
「もうちょっと……しろ」
「え?」
 触れてしまうと、もっともっとと貪欲に全てを求めたくなる。自制するように腕の中にある身体を、そっと引き離した。
「……帰るぞ」
「え、あの、風太さん」
 歩を進めた風太に、珠恵が慌てたように追いついて来る。
「なんだ」
「なんだ、って、あのさっきの」
「続きか?」
「え?」
「どっか寄って帰んのか」
「どっかって」
「決まってんだろ、今の続きをするとこだ」
「へっ? わ、私そんなこと、言ってません」
「そうか?」
「そ、そうです、じゃなくて、風太さん、あの、自覚って……?」
「……お前、言い寄られてるらしいな」
「――へ?」
「教室で、じじいに」
「え、あ、あれは、からかわれてるだけで」
 隣に並んで、必死で言い募っている珠恵を、無言で見つめる。
「そんな言い寄られてるとか、そういうことじゃ」
「まあ、じじいの寿命は伸びていいのかもしんねえけど」
「寿命って、そんな、お元気ですから」
「気いつけろよ」
「な……っ何に、っていうか風太さん、わかって言ってますよね」
「何が」
「だから、冗談で。……ですよね?」
「お前こそ、わかってねえだろ」
「なにがですか」
「じじいだろうが、男には違いねえぞ」

 困ったような顔をして風太を見た珠恵を、チラッと横目で流し見て軽く口角を上げる。
 もう、と小さく呟いた珠恵が腕に持った傘を何も言わずに手にとってから、空いた珠恵の手を包むように握りしめると、さっきより温かなその手が、風太の手をキュッと握り返してくる。その仕草と体温が、珠恵が風太には気を許せているのだと、知らしめているような気がした。
「――風太、さんも……」
 しばらく黙っていた珠恵が、何かを言いかけて躊躇うように一度口を噤んだ。何故か、気まずそうに視線が外される。
「俺が、何だ」
「あの、あそこに……行ってたんですよね」
「あそこって、教室か」
「はい」
「まあ、時々だけどな」
「あ、あの、風太さんもみて、貰ってたんですか」
「――見て?  」
「あ、の……先生だけじゃなくって、学生の人にも、勉強」
「まあ、な」
「あの……それは、あれ……ですよね」
 妙に歯切れの悪い口調に、何となく黙って続きを待っていると、やがて消え入りそうに小さな声が耳に届いた。
「お、おんなの子……、とかも……ですよね……。やっぱり何でも」
 今も数人はいる学生のボランティアは、割合としては女の学生の方が多い。珠恵が何を気にしているのかわかった気がして、つい口元に笑みが浮かんだ。
「まあ、ヤローに聞くよか、女子大生の方がヤル気になるもんだろ。……まあ、いろいろな」
「いろ……、そっ、そう、ですよね」
 あからさまに、声のトーンが沈んでいく。
「で、それがどうした?」
「……いえ、あの、なんでも」

 風太の手を握る指先に、無意識にだろうかさっきよりも強い力が込められている。珠恵の横顔をチラッと横目で見ると、少し俯いたまま、口を結んでしまってた。
 もっとからかって、このまま泣かせてやりたいと思うガキみたいな気持ちもどこかにある。だが、珠恵のその反応は、思いのほか風太を満足させていた。
「つうか……。まあ、教わってねえけどな」
 前を向いたままボソリとそう口にすると、珠恵の手から、僅かに力が抜ける。
「――え」
「学生の奴らには」
「え、あの……」
「正直、あんま、聞く気にならなかったっつうか」
「……でもさっき……、女子だいせい、とか……いろいろ、とか」
 複雑な表情で風太を見上げた珠恵を、ニヤついた顔で見遣った。
「ヨーデフには確実に世話になったぞ。あと鈴木先生とか。あの人は女子大生だったこともあるだろ」
「……」
「どうかしたか」
 鈴木はヨーデフと同じように、退職した年配の女性教師だ。どうやらからかわれたと気が付いたのだろう、気まずそうに逸らされた横顔は、さっきとは違って赤くなってる。
「……風太さん」
「ん?」
「意地悪です」
 ポツリと呟いた珠恵は、そのまま少し拗ねたようにまた、俯いてしまった。

 いつも、風太の隣を歩く珠恵は、ほんの少し俯き加減だ。そうして時折、何かを確かめるかのように、風太の横顔を見上げる。その度に、手を握る指先に微かに力が入っていることには、きっと気がついていないだろう。
 俯いた珠恵の横顔から覗く耳が、やっぱり微かに赤い。
 住宅地を抜けると、もう駅が近く人の姿も増えてくる。さっきまでより明るくなった道を二人で歩きながら、風太は息を吐いてもう一度、顔を上げた。

 夜空にはまだ、満ち足りたような丸い月が浮かんでいた。


(月時雨 完)


タイトルとURLをコピーしました