[月時雨(つきしぐれ) 月の夜に降る(通り過ぎる)時雨]
雨が、教室の窓をポツポツと濡らしている。
今日の天気予報は晴れのち曇りだったが、雨が降りそうだと珠恵がリュックの中に入れた折り畳み傘があるから、幸い濡れることはない。
黒板の少し上を見上げると、時計はあと10分程で、授業が終わる時刻を示していた。
最後の授業は、どうしても集中力が散漫になる。当初よりも生徒が減ったせいで、空席が目立つようになった教室では、授業を受けている者の大半が、机に突っ伏して眠ったりスマホを弄ったり、ボンヤリと外を眺めたりしている。
中にはコソコソと話をしている者もいたが、それもいつもの光景だった。
欠伸を噛み殺した風太は、広げたノートの隅の方に書かれた、男の手のものとは違う繊細な文字に目を止めた。書き主の内面を表すように優しげなその文字は、一つ一つが形良く見本のように整っている。
筆圧の強い子どもじみた文字に寄り添うように書かれた、線の細い文字。それを見つめながら、柔く小さな手がその文字を書いていく様と、その位置から風太を見上げる真剣な眼差しが脳裏に浮かんだ。
静かに、息を吐き出して窓の外へと視線を向ける。雨が降り出したせいだろうか。身の内に、見過ごしそうなほどほんの微かに、擦り傷を負った時のような疼きを覚えた。
終業時間5分前、教壇に立つ教師が「今日はここまでにしようか」と、雨が降っているという理由で授業を切り上げると、風太は、教科書やノートをすぐにリュックにしまい、教室を後にした。
学校を後に、紺色の折り畳み傘を差し、駅とは逆の方角――風太と翔平が通う高等学校から、歩いて10分弱のところにある公立中学校へと向かう。
退職した元教員や学生ボランティアらによる学習教室が開かれているそこは、珠恵と図書館で出会ったころ、風太も通っていた場所だった。
学ぶ機会を持てなかった年寄りや、学校に通うのをやめてしまった若者など、何らかの事情を抱えた人達の、学びたいという気持ちを手助けするために開かれているその教室には、様々な年齢や立場の人が通っている。
そこへ向かっているのは、教室に用があるからではない。3ヶ月程前から、週に1回程度、教室を手伝っている珠恵を、迎えに行くためだ。
きっかけは、ヨーデフだった。
夜間高校と学習教室に利用されている中学校が近かったため、学校に通うようになってからも、行き帰りにヨーデフと行き合わせることがある。
駅のホームで珠恵と二人電車を待っている時に、偶然出くわしたこともあり、その頃からヨーデフは、風太と珠恵の関係を知っていた。
「ほう、君たち二人がねえ。そうですか」
丸くした目を細めてそう言いながら、嬉しそうに頷いていたヨーデフの、頬の上に乗っかった黒縁の眼鏡が、笑う度に揺れるのは相変わらずで、久々の対面に感激していた珠恵と、後から顔を見合わせ笑った。
そのヨーデフと、学校へ行く途中で久しぶりに会った時のことだ。教室を手伝っている学生の何人かが、就職活動や卒業論文の制作のためボランティアをやめてしまい、最近人手が足りないのだと、困ったようにヨーデフが口にした。
なにげに聞いていたその話に反応を示したのは何故か、その時一緒にいた翔平だった。
「珠ちゃん、教えんのうまかったっすよね」
「タマちゃん? ですか?」
「そう、珠ちゃん」
「ああ、タマちゃんというのは、もしかして――」
「ああ、そう。あいつの名前、珠恵だからな」
「やっぱり、福原さんですか。ほう、教えるのがねえ……」
結局、この時の遣り取りがきっかけで、珠恵が教室を手伝うことになったのだ。
もしも興味があれば、仕事に差し支えない無理のない範囲で手伝いに来てみませんか。と、風太を通してそんな伝言を聞いた珠恵は、はじめはかなり尻込みしていた。だが、ヨーデフが案外粘り強かったのだ。
「一度見学だけでも来てみませんか」
と声を掛け
「すみませんが、ちょっとその人を見てあげてくれませんか」
と手伝わせ
「よければ、もう一度だけ見学に来てみませんか」
とまた誘い
「あの方の国語の勉強、少しの間だけ見ててもらえますか」
とまた手伝わせる。
結果、見学に行ったその日から、結局珠恵は、ボランティアとして教室に通うようになっていった。
学習教室は、学校とは違う。そのため、教師が教壇の前で、皆に授業をするわけではなかった。
各々が、自分の学びたいこと――国語や算数、数学、英語などの小学校から中学校程度の学習に、それぞれの目的やペースで取り組むことが出来る。そうして勉強を進めながら、わからないことがあれば、先生やボランティアに質問するような仕組みになっていた。問題や宿題を出して貰うことも、希望すれば可能だ。
人見知りをする自分が、人に物を教えるなんて――と、当初は随分緊張していた様子の珠恵だったが、多分教えること自体は嫌いではなかったのだろう、通い始めてから三か月経ったこの頃は、少しずつ教室の空気に馴染んで来ているようだ。
通ってくる年寄り連中からも、珠ちゃん――と呼ばれ親切にして貰っているらしい。
校門を潜り、外灯に照らされた薄明るい校庭を横切って行くと、教室が終わったのだろう、明かりが灯った校舎の入口からポツポツと人影が出てくる。
傘を差しながら歩いてくる人の中には、風太の見知った顔もいて、頭を下げたり、短く言葉をかけてくる者もいた。
「珠ちゃんのお迎えかい」
大きな水溜りの手前で、声を掛けられ顔を上げると、白髪交じりの年配の女性が風太の前で立ち止まっていた。風太よりも前からここに通っている、皆から「武子さん」と呼ばれていた女性だ。
武子の背中越しに、ちょうど校舎から出てきた珠恵の姿が目に入る。風太を探そうとしてか立ち止まった珠恵は、だが、誰かに呼ばれたのか、後ろを振り返った。
駆け寄ってきた人影を見て、武子の話に曖昧に頷きながら、意識がそちらへと逸れてしまう。風太の目線を追って後ろを振り返った武子の、楽しげに笑う声が聞こえた。
「あの子、珠ちゃんには随分懐いてるねえ」
眉間に、僅かに力が入りそうになる。
「教室でも、私ら年寄りには挨拶もしやしないのにさあ。若い子はやっぱり若い子がいいんだろうねえ。ああでも、若い子だけじゃないね。わしゃもう棺桶に片足突っ込んどるって言うのが口癖の佐伯のおじいちゃん、あんた覚えてるかい?」
「……まあ」
「あの人も珠ちゃんが来る日は機嫌が良くってねえ。わしがあと二十若けりゃ、なんてあの顔で言うんだよ。何を色気付いてんだか、あんた二十年若返ったって六十過ぎじゃないか、下手すりゃ孫どころかひ孫だよ、まったく図々しいだろ」
佐伯というのは、確か八十も半ばを超えた爺さんだったはずだ。武子は楽しそうに風太の腕を叩き声を上げて笑っているが、風太には何が面白いのかさっぱりわからない話だ。
「水野さんもねえ、孫の嫁に欲しいって言ってたけどねえ、あそこの孫はほら、三十過ぎても働いてないだろ。そりゃ嫁より先に仕事だろって、そうみんなして言ってやったんだよ」
ほら、と言われたところで、誰の孫がニートだろうが何だろうが、そんな話は風太の知るところでもなければ、興味もない。
だいたい仕事があるとかないとかそういう問題じゃねえだろ、と胸の内で思ってるつもりが、顔に出ていたのだろう――
「大丈夫だって、そんな顔しなくても。ちゃんと言っておいてやったからさ。珠ちゃんにはもう、ラブラブなカレシがいるって」
カレシという言葉だけ、妙に若者っぽく発音した武子は、なぜか得意げに風太を見てくる。
「聞けば珠ちゃん、うちの孫と同い年って言うじゃないか。しかもさああんた、うちの孫と、なんか似てるんだよ。だから、孫みたいに思えてさ。エラそばらないし、私らみんなにとっても丁寧に優しく教えてくれるしさあ。真面目だし一生懸命で、ちょっとからかうとすぐに真っ赤になって、ほんとかわいい子だよ。あんた、いい子見つけたねえ」
どこか聞き覚えのあるその言葉に、苦笑いする。
「あんたも、どうせ結構無茶してた口なんだろうけどさ、もういい年だろ、そろそろ落ち着いたらどうだい。あんた教室に来てた時よりいい顔になったよ。あの子のお蔭だろ、ボヤッとしてないでさっさと所帯でも持ちゃいいんだよ」
閉口した風太の様子にはお構いなしに、好き勝手にしゃべっていた武子は、急に何かを思い出したように、顔の前で手を振った。
「あっ、こんなとこであんたと喋ってる場合じゃないんだよ、ショウくんのドラマ始まる前に帰んなきゃ」
そう言って勝手に始めた話を勝手に切り上げると、なぜかおかしそうに笑いながら、さっさと帰っていってしまった。
武子が話をしている間、風太が口にしたのは、まあ、のひと言だけだ。
溜息を吐きながら、恐らくは翔平よりも若い、チャラチャラとした身なりの男に呼び止められている珠恵へと、目を向けた。
何か質問でもしているのだろう、ノートのようなものを開いて珠恵に向けている。広げたそれを近づけながら、若いその男は、さりげなく珠恵と目線を合わせるように屈んで、顔を必要以上に寄せている。
風太は、思わず舌打ちをしそうになった。
真剣にノートに視線を落としている珠恵は気が付いていないだろう、風太の目には、男の視線は全くノートには向かず、珠恵の顔やうなじの辺りを見ているように映る。珠恵が顔を上げた時だけ、真面目に話を聞いていたかのように、相槌をうちノートに視線を落としているようだ。
それでも、もしかしたら本当にわからないところを聞こうとしているだけなのかもしれないと、しばらくの間は黙ってその様子見ていることにした。
ポツリポツリと帰宅していく生徒たちの姿が見えなくなるまで、二人のやりとりは続いていた。
そういえば夕方メッセージが届いていたことを思い出し、待っている間に確かめようと携帯を取り出す。
その時、ふと上げた視線が、睨むようにこちらを見ている男と絡んだ。風太と目が合うと同時に、珠恵に声を掛けられた男はスッと顔を逸らす。
ああいう目付きをするガキなら、嫌っていうほどよく知っていた。ただこういった教室に通って来ているだけ、まだ、可愛い部類なのだろう。
それでも、こちらを見ていた男の顔は、風太がここで誰を待っているのか、わかっているものだ。珠恵の方へと男が顔を寄せ、話しながら楽しそうに笑みを浮かべている。
風太は、思わず漏れそうになった溜息をすんでのところで飲み込んだ。
珠恵は、人前であがりやすく緊張する性質だ。風太といるとはいえ、男慣れもしていない。だが、弟の昌也がいるためだろうか、年下の男に対しては少し無防備になるところがある。
携帯を確かめることもなくポケットにしまうと、風太は二人の方へと足を向けた。
迎えに来ているのに気が付いていたのだろう珠恵が、近付いてくる風太を見て、少し申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
「あの、もう少し」
「珠ちゃん誰、このおっさん」
隣にいた若い男が、珠恵の声を遮りあからさまに挑戦的な眼差しを、風太へと向けてくる。
「えっ、あ……あのこの人は」
屋根がある場所に入った風太は、傘を開いたまま足元に下ろした。男には見向きもせず、口ごもっている珠恵へと顔を向けると、風太の傘から落ちたものか雨の雫が髪を濡らしている。
手を伸ばし柔らかな髪に触れると、ピクッと身体が動き、珠恵の目が見開かれる。素知らぬ顔で水滴を拭った風太は、そのまま髪を掬い上げて、指先で耳に掛けた。
耳朶が、案の定薄っすらと色付く。穴ひとつあいていない滑らかなそこをそっと指で摘まむと、一瞬固まった珠恵が、焦ったように身動いだ。
「風太さん、何して」
狼狽えて耳以外も赤くなっている珠恵が、遮るように風太の手を押しやろうとする。意図に気付かぬふりをして、風太はその手を逆に握り返した。
「……冷たくなってんじゃねえか」
珠恵は、緊張するとすぐに指先が冷たくなる。少しは慣れてきたとはいえ、まだ教室に通うことに緊張感が消えないのだろう。
「おい、おっさん」
不満が充満した声の主の存在に、初めて気がついたかのようにゆっくりと顔を向けた。
「……何か、言ったか」
不穏な空気を感じ取ったのか、途端に珠恵が戸惑ったような表情を浮かべる。
「風太さん、あの、今ちょっとナツキくんの質問を」
細めた目でこちらを睨み上げている若い男を、風太はじっと見つめ返した。
そばに寄ってみれば、男は思った以上に幼く見える。尖ってみせてはいるが、恐らくほんの15、6というところだろうか。
ほんの少しだけ、その目に、どこか懐かしさのようなものを覚えた気がした。だからといって、珠恵に向ける視線を、温かく見守ってやる物分かりのよさは持ち合わせていない。
「邪魔すんなよおっさん」
「……あ?」
「耳までモーロクしてんじゃねえの」
「ナ、ナツキくん、あの」
ますますオロオロしている珠恵へと視線を戻した。何かを訴えかけるような目がこちらを見つめ返す。
「邪魔したか?」
「え、あの邪魔とか、そ、そういうのは、でも、あの今、ナツキくんの質問を」
「だーから、俺が珠ちゃんと喋ってんの、見てわかんねえ? あ、ローガンか?」
珠ちゃん、と呼んでいることをやたらと強調するように話すナツキと呼ばれたガキへ向けて、笑みを浮かべた。
「質問なら、ちょうどもっといい人が来たぞ。ほら」
風太が顎をしゃくるように視線を向けた後ろから――
「まだ残っていたんですか、どうしました? 福原さんに三藤くんも」
そんな、ノンビリとした口調の声が聞こえた。最後に教室を出てきたらしいヨーデフだった。
「あ、遠藤先生、あの、ナツキくんが」
そちらを振り返ることもなく、ナツキは、珠恵の手からノートを取り上げた。
「ナツキくん」
「もういいよ」
「先生に、聞きてえことがあるんじゃねえのか」
「うっせえ、おっさん」
トゲトゲしい口調でそういい捨ててから、ナツキは、手に取ったノートを乱雑にリュックに突っ込んだ。
「珠ちゃん、男の趣味悪いんじゃね」
そう捨て台詞を口にして、水溜りを弾くように校庭へと走り出て行く。最後に、風太を睨みつけることは、忘れなかったようだ。
「あ、ナツキくん傘――」
言いかけて、雨が止んでいることに気がついた珠恵が言葉を止めた。
ナツキは、「気をつけて帰りなさい」とのヨーデフの声にも、振り返ることなく、校門を抜けて帰ってしまった。
「雨、やみましたねえ」
ナツキの後ろ姿が消えるのを三人で見送ってから、背後から聞こえたノンビリした声に顔を振り向けた珠恵は、小さく頷いた。
「そう、ですね」
「今日は、傘を持ってきていなかったので、助かりました」
「ついさっきまで降っていたので、丁度良かったですね」
「そうですね。また降り出す前に、我々も帰りましょうか」
ニコニコと笑いながら、珠恵と風太を見て頷きかけてきたヨーデフと共に、風太たちも学校を後にした。