旅を終えたその日の夕刻、土産を抱え戻ってみると、やたら母家が賑やかだった。玄関にはお世辞にも綺麗とは言えない靴がたくさん散らばっているが、何事だろうかと風太を見上げてみても、特に驚いた様子は伺えない。
「あー、あのな」
風太が何かを言いかけて口を開いたちょうどそのタイミングで、「あーっ、帰って来た。おっ帰りなさーい」と、騒がしい居間から飛び出して来たのは、何故か真那だった。
「えっ、ま、真那ちゃん、何で」
「いいからいいから、ほら、さっさと玄関閉めちゃって下さーい」
誰の家だかわからないくらい自然に振る舞っている真那は、確かにもう何度かここへは遊びに来ていて、家の人達とも随分と親しくはなっていた。
「あ、姉さん、風太さんお帰り」
「え、まあくん?」
「……んだ、あいつも来てんのか」
続いて居間から顔だけを覗かせたのは弟の昌也で、風太もそのことは知らなかったらしく、少し驚いた様子だ。
「え、何で?」
珠恵は戸惑いながら、真那に腕を引かれて玄関から上がり、もう一度後ろに立つ風太を物問いたげに見つめた。
「っと、説明は後でするから」
曖昧な答えを口にしながら、風太も靴を脱ぎ始めた。珠恵に顔を寄せた真那が、ニコッと笑う。
「どうでした、どうでした? お、ん、せ、ん。楽しかったですか?」
「えっ……あ、うん……あの」
「ラブラブしちゃいましたか? とか言って、そりゃそうに決まってますよねー」
「あっ……あの」
一人興奮している真那に引きとめられている珠恵の横を、口元に笑みを浮かべながら風太はさっさと通り過ぎていく。
「露天とかありました?」
「え、あ、……うん」
「二人で入っちゃったりとか?」
「そっ……そんなこと、し、してないから真那ちゃん」
「えっうそ? 入んなかったんですか? 貸切りとか部屋風呂とかそういうのは?」
「あの、あのそういう、部屋じゃなかったし」
「なーんだ、残念っ」
まだ廊下に一歩入っただけのところで、真那の質問攻めにしどろもどろの珠恵は、顔が熱くなり汗が浮かびそうだった。追及する口を緩めようとしない真那は、何故だか露天風呂に二人で入っていないということを、とても残念がっている。露天どころか、風太はまともに温泉にも浸かっていない。けれど流石に真那にも、風太が背負っているものの話は伝えてはいなかった。
「あの……ね、真那ちゃん、それよりどうして今日」
「珠恵」
なぜここにいるのかと尋ねようとした時、居間の入口でこちらを見遣った風太に呼ばれた。
「あ、はい」
「きゃー、珠恵、だってっ」
風太の声色を真似るように低い声を出して笑う真那のテンションが、いつもより更に高い気がした。よく見ると、目元が少し赤い。
「今の呼び方とか、なんか超俺の女って感じ」
「ま、真那ちゃん、もしかして、酔ってる?」
「酔ってませんよー。ほら、ふ、う、たさんがお呼びですよー……珠恵」
もう一度低い声色で珠恵の名を呼んだ真那は、楽しそうにケラケラとひとしきり笑うと、珠恵が足元に置いた荷物を手に取り、さっさと廊下を居間へと戻り始めた。
「あ、ねえ、真那ちゃん」
「これ、持ってっちゃいまーす」
「あ……うん、ありがとう」
そうして、居間の手前で風太の腕をポンポンと叩き、ニヘラっとした笑みを浮かべて、真那は部屋の中へと姿を消してしまった。
「……何だ、あの子酔っぱらってんのか」
「そうみたい、です」
少し目を丸くした風太に頷いて、居間の入口に並び立つ。いつもの見慣れた顔以外に、昌也と真那、何度か顔を合せたことのある職人仲間と、初対面のやはり職人なのだろう数人の人達が、宴会をしている様子だった。
「あ、お帰り」
台所から顔を覗かせた喜世子や、宴会中の面々に口々に同じことを言われ、ただ今帰りましたと、慌てて挨拶を返す。
「あ、珠ちゃん、風太さんお帰りぃ」
喜世子の手伝いをしているのだろう、人の間を行ったり来たりしている翔平も、足を止め顔をこちらへ向けた。
「へえ、その子が風太の」
これ、と言うように小指を上げてみせる日に焼けた中年の男性は、親方の隣でビールの入ったグラスを傾けている。風太が小声で左官屋の河内さんだと耳打ちした。その隣にいるのが水道や水回りの工事を行う工務店の吉岡さんで、手前にいる少し若いのが大工仲間の水口さんとその友人の内装業者の柴田さん、そんな風に次々と紹介されて、その度に初めましての挨拶を繰り返す。
「まあまあ固え挨拶は置いといて、姉ちゃん、こっち来て酒の一杯も付き合いなよ」
もうすでに出来上がっている風の吉岡が、珠恵を手招いて隣に座れという仕草を見せる。戸惑いながらも居間に足を踏み入れようとすると、引き戻すように風太に腕を捕られた。
「あ、あの」
「正さん、こいつ、酒一滴も飲めないんで」
――夕べは、飲ませたのに
しれっと口にする風太にそんなことを思った途端、珠恵はついその後の濃密な時間を思い出しそうになり、慌ててそれを頭の隅へと追いやる。
「つまんねえこと言ってんじゃねえぞ風太よぉ。だいたい誰のために今日こうやって」
「あ、すんません、そっちのことは世話んなりました」
酔った風体の吉岡に小さく頭を下げた風太が、珠恵の耳元に口を近づけた。
「あのおっさん、酔うとやたら触りたがるから近寄んなよ」
小声で呟いた風太の言葉に、珠恵は目を丸くして小さく頷いた。
「ほらほら、正さん。あんたはこっちで十分」
助け船を出すかのようにビール瓶の口を差し出した喜世子が、笑いながら酔った男の耳を摘まんでいる。
「あのね正さん、珠ちゃんに何か悪さしたら、風太じゃなくて私がお灸据えてやるから憶えときなね」「そうそう、おじさんってばさっきから私にも変なことばっかり言ってくるんですよー。もう、セクハラですよセクハラっ」
「あんたは倍にして、言い返してただろうがっ」
口を挟んだ真那に、誰かが素早くツッコッミを入れていて皆がゲラゲラと笑っている。何が何だか圧倒される雰囲気の中で、端に座ってチマチマと食事を摘まんでいる昌也と目が合った。そんなにも酒に強くないはずの昌也の頬も、ほんのりと赤い。
「まあ君、ねえ、ここで何して」
「で、風太、見て来たか」
「あ、いや、今戻ったとこなんで。ちょっと先に見て来ていいすか」
「おー、いいぞー。オネーちゃんも、気に入るだろ」
「まあ、半分お前がやったみてえなもんだしな」
昌也への問い掛けは皆の声に掻き消され、誰かが風太に掛けた言葉に皆がニヤニヤしながらこちらを見ている。いったい何を言われているのかわからず、珠恵はひとり戸惑うばかりだ。
「あの、風太さん」
「ちょっと行くか」
「へ? あの、どこに」
先に廊下を玄関へと向かってしまった風太と、居間とを交互に見遣る。
「いいから、ほら珠ちゃんも行っといで」
喜世子がこちらを見て笑いながら頷いて、行けと手振りで示す。真那と昌也が立ち上がり、一緒に行って来ますと、珠恵を部屋から廊下へと押し出した。
「ねえ、真那ちゃん、まあ君も、あの、さっきからなに」
「まあいいからいいから、行きましょ」
「見てのお楽しみだよ」
二人共にはぐらかされながら、玄関でもう一度靴を履いて、先に出ていた風太に追いつく。問い掛けるような眼差しにも、風太は微かな笑みを浮かべるだけだ。
向かった先は隣の倉庫兼住居で、訳がわからないまま押されるように二階に上がる。手前の扉を開けた風太に続いて中に入ると、いつもと何か違う薬剤のような匂いが微かにした。
目の前に立つ風太は、廊下の奥を覗き込むように見てから、振り向いて、珠恵を通り越し、その後ろに立つ昌也と真那の方へと顔を向けた。
「風太さんの部屋から繋げたんで、そこからで」
何を聞いた訳でもないのに、風太の無言の問いを汲み取ったように昌也から答えが返ってくる。それに頷いた風太は、自分の部屋の扉を開けて、珠恵に中に入れと促した。
ドアのすぐ横にある電気のスイッチを押すと、少し薄暗かった部屋に明かりが灯る。後ろから追いやられるように部屋が見える場所まで歩を進めた珠恵は、そこで足を止めて目を見開いた。
――え
戸惑いながら、振り向いて風太を見上げる。小さく頷いた風太は、顎の先をしゃくった。後ろに立っている真那と昌也も、笑いながら珠恵を見ている。
部屋の中へと足を踏み入れると、そこはこれまでと殆ど変ることがない風太の部屋だった。けれど今までと違うところが、ひとつ。押入れだった場所の一部がなくなり、そのまま隣室へと繋がっている。
隣は以前は竜彦が使っていた部屋で、竜彦が出ていってからずっと空室のままだと聞いたことがあった。そっと足を進めて、珠恵は入口からその部屋の奥を覗いてみた。
「あ、スイッチここでーす」
後ろから伸びてきた真那の手が、壁際のスイッチを押した。明かりに照らし出されたのは、新しく内装し直された部屋だった。
新しい畳や木の匂い、そして、どこか接着剤に似たような塗料の匂いがする。部屋には、これまでずっと借りたままになっていた母家の客間から、布団や珠恵の荷物などが全て運び込まれていた。
小さな冷蔵庫も備え付けられていて、珠恵が使っていた背の低い可愛らしい小さな鏡台は、座ったままで丁度いい高さになる小さな木製の台に乗せられている。立ったまま全身が映せる鏡なども、壁に掛けられていた。
奥にもドアがあり、そこから廊下に出ると、トイレ、そうしてれも昔からそこにあったようだが殆ど使われることのなかった小さなシンクが、改装されて新しいものに付け替えられている。
凝ったものは無理だが、簡単なものなら作れそうだ。
風太の部屋とは違い、新しい部屋のカーテンや壁も全体的に柔らかな色に仕上げられていた。何もかもが、すぐにここで新しい生活が始められるように、整えられていた。
「あの……この部屋」
「まあ、いつまでも客間借りてる訳にもいかねえし、親方やおかみさんとも相談して、ちょっとな。部屋をいじらせて貰った」
「でも、あの……」
「部屋も空いてたから丁度いいって、二人もそう言ってくれてな」
部屋を繋げてしまえばいいと言いだしたのは喜世子だと、風太はそう説明した。
「お前に聞いても、どうせ俺の部屋でいいとか言うだろうしって。ああ、それから風呂も、母家の横にある勝手口から入れるようになってっから」
驚きと嬉しさの余り、しばらく何をどう言えばいいのかわからなかった。ここまでのことをして貰ってもいいのだろうかと、戸惑いも大きい。
「あの、これ、……さっきの皆さんが?」
「皆プロだからな、一日もあれば十分だって、手伝ってくれた」
わざわざこの部屋のために、集まってくれたのだろうか。家具など不要なものを持ってきてくれた人もいたようだった。
「これこれっ。カーテンとか壁は、私と愛華ちゃんが色とか素材選んだんですよ。やっぱ趣味いいって思いません?」
珠恵の手を引いた真那は、押入れの中の上手く整理された収納はカリスマお掃除主婦の本を参考にしたのだと、そう得意気に説明した。昌也は、偶然珠恵を訪ねて来たところを捕まって、訳のわからないまま色々と手伝わされたのだという。
「何でか、愛華ちゃんの宿題までさせられたけど」
そう言って、苦笑いしている。
「はあ……なんか新婚さんの部屋って感じー。いいなー、どうですか? 珠恵さんご感想は」
「あの……」
「はい」
皆の顔がこちらを見つめている。風太は、部屋の仕上がり具合を確かめるように、もう一度その中をぐるっと見渡してから、珠恵を見つめた。
「……びっくりして、私……でもあの、嬉しい……ありがとう、真那ちゃん、まあ君も」
「びっくりしたでしょー」
「うん……凄くびっくり……した」
答えながら、ようやく実感が湧いてきたようで、目の奥が熱くなり視界が滲んでくる。
「あーでも、あれですよ、半分以上は森川さんが準備してたみたいだから」
「え?」
驚いて顔を上げる。いったいいつの間に、と。何も、気がつかなかった。
「あー、まあ、学校も休みだからな、暇なときにちょっとずつだ」
学校が休みになったとはいえ、風太は夏休みに入ってから一寿の仕事の手伝いが入り、毎日のように朝早くから、現場を掛け持ちしていた。言う程に暇があったとも思えない。
「あの……ふうた、さん、も……」
「ん……ああ」
珠恵の頭に大きな手を乗せ揺すりながら、「泣くようなことか」と風太が笑う。
「あーっと、私たち、先にあっちに戻ってますねー」
二人の様子を見ていた真那と昌也は、気を利かせ、そっとその部屋から出て行ってしまった。二人だけになると、目の前の風太の胸に頭を凭れさせた。
「……ありがとう、ございます」
「まあ、お前の部屋っていうか、俺達の部屋だからな」
「……はい」
泣いているのが恥ずかしくなって、顔を上げて少し笑った珠恵を見つめる風太の目が優しくなる。その時――
「あーっ、駄目ですって、今は邪魔しちゃ」
「いいからいいから、風太っ、どうだ」
「満足したか、おネエちゃんも」
賑やかな声と足音が聞こえて、それぞれが何故か食べ物や飲み物を手にした面々が、風太の部屋から入って来る。
「珠ちゃんこれ見た? これ、俺が作ったんだ」
奥の部屋に入って来た翔平が、鏡台の下の可愛い木の台を指さして珠恵に笑みを向けた。
「あの、ありがとう、翔平君。凄く、使いやすそう」
「でしょー」
「おい翔平っ、お前そっちのドアから夜這いかけんじゃねえぞ」
突然誰かがそんなことを言いだして、翔平が焦ったような声を上げた。
「そ、そんなことするわけないっしょ」
「珠ちゃん、あんたも気をつけた方がいいぞ、そっちのドア鍵閉めとけよ」
「翔平、んなことしたらお前風太に殺されんぞ」
「珠ちゃん、俺、そんなことしないし」
「あ、う、ん……わかってる」
「おい、風太」
「何すか」
「こっちの部屋、壁ちょっと分厚くしといてやったぞ」
揶揄を含んだ声色に、ゲラゲラと皆が笑う。流石に珠恵にも何を言わんとするかは理解できただけに、どうにも居た堪れなくて顔が赤くなる。
「そりゃどうも」
「翔平、おめえ、聞き耳立てんじゃねえぞ」
「だから、んなことしないっすって」
真っ赤になって言い返している翔平の横で、珠恵もまた俯いたまま、早くこの話題が終わらないかと助けを求めるように風太を見つめてみる。けれど、風太は唇の端を少し上げ、エクボを浮かべて笑うだけだった。
結局その日は、新しい部屋はさすがに気の毒だという喜世子の意見が取り入れられて、風太の部屋へ場所を変え、夜遅くまで宴会が続いた。
初めての旅行から戻り、風太と新しい部屋で過ごす初めての一日は、そんな風に、たくさんの人達に囲まれながら、とても賑やかに過ぎていった。
了