番外編《雨月》

休日閑話:雨と甘露4



 早朝、風太は空がまだ白み始めたころに、目を覚ました。
 すぐそばで布団にうつ伏せたまま、ピクリともせずに眠っている珠恵の身体には、風太の着ていた男物の浴衣が掛けられている。横になったまましばらくその様子を眺めていた身体を起こし、そっと布の端を摘まんで捲ってみた。
 浴衣の下には、何も纏わない珠恵が眠っている。微かに上下する白い背中に風太がつけた赤い痕が、花を咲かせたように浮かんでいた。もちろん、背中だけでなく身体の至る所にその赤は散っている。
 その様を眺めながら、気持ちが解放されていたからなのか、それともたったあれだけの酒に酔ったからなのか、夕べの初めてと言っていいほど乱れてみせた珠恵を思い出して、また熱がぶり返しそうになる。
「……ったく、盛ったガキか」
 ひとりそう呟きながら、風太は自分自身に呆れて苦笑いを浮かべた。
 風呂上りのいつもとは少し違う空気を纏った浴衣姿も。いつもより柔らかく溶けるように腕の中で解れていく様相も。泣きながら蕾が咲くかのように乱れていく姿も。
 全てが、確かに風太の中の、男の欲望や嗜虐心を煽り立てていた。結局、僅かの間意識を飛ばしていた珠恵がぼんやりと目を覚ました後も、まだ全身に滲ませている色香に当てられたように、その身体を引き起こし膝の上に抱え上げ、再び熱を取り戻したものを中に迎え入れさせた。
 もう辛いだろうなどという気遣いも何も考えられず、ただ奪い尽くすように珠恵を抱いていた昨夜は、昂る気持ちも身体も、殆ど全くと言っていい程に抑制が利かなかった。
 酔うほどにも飲んでいないはずの酒に、心地よく酔ってしまっていた気もした。非日常的な、どこか時間の流れも曖昧に感じるようなここでは、風太自身もいつもの自分とは、少し違っていたのかもしれない。
 時計を見ると、まだ五時少し前だった。夏の朝はやはり早く、もう外からは鳥の囀る声が聞こえてくる。
 今から出れば、朝食には間に合うだろう――。
 名残惜しく思いながらも、目の前に晒した珠恵の肌に再び浴衣を戻して、欠伸を一つ噛み殺してから立ち上がる。手早く服を着ると、風太はもう一度珠恵の姿を見つめ、眠っていることを確かめた。
 じっと見ていなければ息をしているのかどうかもわからないほど、よく眠っているようだ。
『朝メシまでには戻る』
 そんなメモ書きをテーブルに残し、部屋を出る。階下へ降りると、フロントの奥ではもう人が立ち働いている気配があった。
「随分お早いですね」
 年配の従業員に声を掛けられ、朝食までには戻ることを伝えてから、念のためにと地図を示して今から向かう場所のことを尋ねてみる。予定していたルートより近道だという道を教えて貰い、礼を言ってから、風太はひとり旅館を後にした。

 車に乗り込み山道を宿から下り、昨日来た方面ではなく更に奥地を目指し車を走らせる。
 何もない山道を三、四十分程走り続ける間に、二度ほど、都会では見かけることのない生き物が道路を横切るのを見かけた。
 やがて単調だった視界が開けると、本当に数え切れるほどに僅かな家々が点在した小さな集落が見えてきた。目的地は、もう近いはずだった。
 村に入ると、早朝にも関わらずもう田畑に出て農作業を始めている老人を見かけ、風太はその横で車を止めた。怪訝そうにこちらを見やった深く皺の刻まれた日に焼けた顔をしたその老人に、声を掛けてみる。こんな朝早くから余所者が車で長くうろついていては、怪しまれかねない。
 耳が遠いのだろう、風太の言葉を何度も聞き返した老人は、ようやくそれを理解したのか、今度は無言のまま、少し離れた場所を指さした。
 軽く頭を下げ、窓を開け放ったまま車を走らせると、先ほどの老人が示していた辺りに確かに小さな寺らしき建物が見えた。
 舗装されていない砂利道に車を止めて、助手席に置いていた袋を手に取り車を降りる。頭上高くを、どこかから現れた鳶がゆったりと漂うように飛んでいるのが見えた。

 短い参道を上がりながら、山桜だろうか、寺の周りを囲むように桜の木がポツポツとあることに気が付いた。そのことに、痛みのような温もりのような、上手く説明できない感情を覚える。
 参道を上がり切ったところにあったのは、小さな、半ば朽ちたような寺の建物だった。境内には人の気配もなく、鳥の声と何かが木々を揺らす音だけが聞こえてくる。顔を巡らせ、さらに奥へと続く石段があるのを見つけて、風太はゆっくりとそこを上り始めた。
 短い階段を上りきると、木々の奥に僅かに開けた場所があり、そこにいくつかの墓石が立っていた。
 周囲をぐるっと見渡した風太は、親方に聞いた場所を反芻しながら、墓地の半ばまで足を進めていく。人がよく参っているのだろう墓は、手入れが行き届き新しい花が飾られている。けれど、恐らく殆ど参る者のいない墓には、申し訳程度に色褪せた造花が飾られ、落ち葉や雑草がその周囲を覆っていた。
 風太が見つけた墓も、墓石に刻まれた名前が少し顔を寄せなければわからないような、そんな古びた墓だった。砂を手で払い、そこに浮かんだ文字をしばらくの間じっと見つめる。刻まれているのは、見知らぬ女性の古びた名前だった。
 ゆっくりとその前に腰を落とし、目の前に落ちている葉と雑草を気持ち引き払う。そうしたところで、次に誰かがここを参ることはないのだろうと思うと、無駄に思えてその手を止めた。

 顔を上げて、手を合わせることもなくその墓石を見つめる。
 ――久しぶりだな、おっさん
 胸の内で、そう声を掛けてみた。
 祖母の名が刻まれた墓石の下に、名前を刻まれることのないまま埋められた安見の遺骨。風太がここを訪れるのは、初めてのことだった。墓の場所を知ったのもつい最近のことだ。
 安見が死んだと――殺されたと聞いて以来、一度も、誰にも風太はそのことを尋ねてみようとはしなかった。考えたこともなかった、いや考えないようにしていたのだろう。あの男が、墓の下に眠っているということを。
 死んだ安見の遺骨がどうなったのか、いったいどこにあるのか、初めてそんなことを考えたのは、珠恵といるようになってから、やたらとあの男のことを思い出すようになったからだ。頭ではわかっていても、本当はずっと心のどこかで、安見の死を認めることができずにいた。
 ――桜の木の下で死にたい
 安見のことを初めて話した花見の夜、桜の下で珠恵が口にした歌。あの歌を書きとめたメモは、今も、貰ったお守りの中に仕舞ってある。
 あの歌を聞いた時、初めて、安見の死を受け入れることができた気がした。

 夏場に入り、親方に、安見の墓の場所を知らないかと尋ねてみた。しばらく黙って風太を見つめていた親方は、知っている――と、この場所をボソッと呟くように口にした。
 当時はまだ生きていた安見の祖母の元を、遺骨を持って訪ねたのは親方だったのだと、その時風太は初めて聞かされた。
 ――コウちゃん、と、約束した、からな……。俺も、それから、いっぺん、も、行ってねえな
 目を伏せた親方は、だからお前もこれ一度きりだと、風太にそう伝えたかったのだろう。本当は誰にも言うなと無理矢理約束させられたと、そう笑った顔は、どこか淋しそうに見えた。

 ――なあ。どうせそっちでも、女はべらせて、飲んだくれてんだろ
 脇に置いていた長細いビニールの袋から、箱を取り出す。その中から、白く曇った瓶を取り出して、墓の前に置いた。
「おっさん……あんたの息子が造った酒だ」
 櫻灑、と書かれたラベルを、どこか不思議な気持ちを覚えながら見つめた。安見には似ていない、けれど、笑うと思いがけず安見の面影を宿した昨日の男の顔を思い出す。
「ちゃんと、大事に飲めよ。これなら……酔ってもいい夢が見れんだろ」
 そう声に出して言ってみてから、自分がおかしくなって風太は少し笑った。
 怖いものなど何もなくて、時には非情な程に残酷で。自分の命にも執着を持たない安見という男の強さや怖さに、強く憧れた。あの頃の風太には、そこが自分が行きつく場所なのだとそう思えていた。けれどただ一度だけ。安見が悪夢にうなされる姿を見たことがあった。見てはならない、決して見たくはなかったその有様は、それでも確かにあの男のもうひとつの姿だった。
 本当は、寂しがり屋だったとこずえが言っていた言葉も、今なら少しわかる気がした。
 ――俺が来んのも、これが最初で最後だ。おっさん……寂しがって泣くなよ
 胸の内でひとりごち、墓石を見つめて少し笑う。
 立ち上がり手についた砂を払い、頭上を仰ぎ見ると、二羽に増えた鳶が空を舞い、細い鳴き声を上げながら遠ざかっていく。
 酒の入っていた袋と箱を手に取り、墓石に背を向け立ち去りかけて。風太はふと足を止め、もう一度その墓を見つめた。

「なあ、おっさん。……見つけたからな。一応、あんたには報告しとくわ」
 答える者など誰もいない石に向かってそう声を掛けてから、風太は、今度こそ振り向くことなく、寂れたその墓地を後にした。


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