温めのしっとりと肌を労わるような湯にゆっくり浸かると、心地よさに、思わず声が漏れそうになる。ガラスで仕切られた窓の下が十センチ程開いていて、そこからも、川の流れる音がよく聞こえてきた。
檜で出来た浴槽は、ほどほどの広さがあり、一人で入るには贅沢過ぎるほどゆったりとしている。この宿は、露天風呂がついている部屋が半数ほどを占めているためか、珠恵が入っている間、他に誰も入ってくる客もおらず、最後まで風呂場は貸切り状態だった。
温泉の湯をしっかりと堪能し、風呂から上がる。肌が心なしか柔らかくしっとりしている気がした。身体を拭い浴衣を身に着けようとして、曇り止めが効いた大きな鏡に自分の全身が映っているのが目に入った。
すぐに逸らした目を、もう一度そっと鏡の中へと向けてみる。
たいして大きいとは言えない胸、決していいとは思えないスタイル、そして傷痕の残る足。おずおずと、鏡の中の自分を見つめるうちに、恥ずかしさと共に不思議な感情が胸に湧く。
ついこの間までは、自分しか知らなかった。なのに、今では風太が知っている、もしかしたら風太の方が知っているのかもしれない自分の身体。不意に、そこに触れる風太の手を思い出して、その途端に我に返り、恥ずかしさのあまり赤くなった顔を逸らした。
頭の中に浮かんだことを振り払うように、籠に入れた浴衣へと手を伸ばす。部屋を出る間際に風太が耳元で囁いた言葉に触発されたみたいに、熱が引きかけていた身体がまた熱くなる。
少し躊躇ってから、珠恵は浴衣を身に纏い、素早く乾かした髪を緩く結い上げて、どこか心許ない浴衣の上に半天を羽織った。
風太も風呂に入っているかもしれないからと、持って出ていた鍵で扉を開けた。前室の洗面台にある鏡で、すこしだけ自分の顔を確かめるように見遣る。身体が温もったからだろう、頬が薄っすらと染まった顔を見ているのが恥ずかしくなり、すぐに俯いて内側の襖を開けた。
部屋の明かりは、もう落とされていた。
橙色の間接照明だけが灯った薄暗い和室は、どこか夜の気配が色濃く感じられて、居た堪れない気持ちになる。テレビも消された部屋では、聞こえてくるのは、窓の外からの自然の音だけだ。
その場所が気に入ったのだろうか、風太は広縁に腰を下ろし、肘掛窓の窓枠に肘を立てて窓の外を見ながら、片手に持った透明なグラスを傾けている。
風呂に入ったのだろう浴衣に着替えた風太が、ゆっくりと、襖を開けたまま立っている珠恵へと顔を向けた。薄暗い部屋の奥から向けられる風太の視線を、何故かまともに見ていられなくなり、珠恵は少し目を伏せてしまう。
「あの……お風呂、とても気持よかったです」
襖を閉めて、荷物の方へと足を進めながら、声が少し上擦りそうになる。
「そうか」
「はい。あの、誰もいなくて、私一人で貸切りで……あの、あれなら風太さんも」
風太も入れたのに、と言い掛けた口を噤む。
「あ、いえ、あの、でも見つかったら、困りますね」
馬鹿なことを口走ったと自分の思い付きを慌てて否定して、のろのろと、荷物の整理をする。いつまでもそこから動こうとしない珠恵の耳に、風太の微かに笑う声が届いた。
「――珠恵」
名前を呼ぶ声に、身体がピクリと動く。返事も出来ずにゆっくりとぎこちなく顔を上げて、薄明かりの中の風太を見つめた。
「いつまでそこにいる気だ」
「……え、あの」
グラスを持った手が、誘うように揺らされる。
「こっち、来てみろ。いいもんが見えるぞ」
逆上せそうに身体が熱くなる。けれど、風太の言ういいものが何なのか、好奇心も抑えられない。何より珠恵自身、本当は風太のそばに行きたいと思っているのだ。
少し前を寛げるように緩く浴衣を着た風太の姿は、珠恵から見ても色っぽくて、いつもと違う人を見ているような気持ちになる。風呂上りで熱いのだろうか、浴衣の袖を肩口まで上げているため、いつもは隠れている色のついた腕が剥き出しになっていた。
ゆっくりと立ち上がり、少しずつ風太のそばに近付く。視線を逸らしているのに、じっと、自分へと注がれる強い視線を感じていた。
手が届くところまで近付くと、伸びてきた指が珠恵の手首を捕り、緩く寄せるように引いた。片膝を立てた風太の身体に凭れるような恰好で抱きしめられて、どうしようもなく狼狽える。
「……うた、さん、のっ、……いいものって」
はだけた風太の胸元から目を逸らし、意味もなく顎先辺りに視線を送りながら、しどろもどろに尋ねてみる。
「外、見てみろ」
珠恵の様子を面白がっているのだろうか、必要以上に顔を寄せて話す風太から目を逸らしたまま、顔を上げ、窓の外へと視線を向けた。都会より深い闇の中に、木々の影が見えている。
「もっと上の方」
顎を持ち上げられ、言われた通り上を――夜空を見上げてみる。見つめる視線の先に、瞬く小さな無数の星々が浮かび上がってくる。
「あ……」
「わかったか」
「……はい」
風太に凭れていた身体を少し起こして、窓の外を更に覗き込むように見上げた。都会では考えられない程の数の空に散らばった宝石のような星が、みるみるうちにまるで増えていくかのように、視界の中に広がっていく。
「……きれい」
「ああ」
「何だか、吸い込まれそうですね」
呟くように口にして、しばらくの間その光景に目を奪われていた。カチッとガラスが合わさるような音に振り返ると、風太が、グラスに酒を継ぎ足しているところだった。
「それ、さっきの?」
「ああ」
「……美味しい、ですか」
「そう、だな。飲んでみるか?」
「あの、私はお酒は……」
「ああ、そうか」
櫻灑と書かれた酒の、おまけにとつけて貰った小瓶を、開けて飲んでいるらしい。酒瓶を床に置きグラスを持ち直した風太は、再び珠恵の腕を引き胸元に抱き寄せた。目の前にある風太の喉仏が、グラスから流し込んだお酒を嚥下するのに合わせ上下する様を、珠恵はただドキドキしながら見つめていた。
「何だ、緊張してんのか」
珠恵の身体に力が入っているのを感じたのか、風太が可笑しそうに笑う。それに合わせてまた喉仏が動く。
「だって、あの……」
俯こうとした顔が、グラスを持った手に引きあげられる。ほんのすぐそばにある風太の瞳が、この部屋を満たす空気のように濃く深い色を宿して見える。
「だって、何だ」
「ふうた、さん、何だか……いつもと違う」
「……そうか?」
薄く笑みを浮かべた唇が、すぐに触れそうなほどに近付く。
「お前も。いつもと違うぞ」
「え」
見開こうとした瞳一杯に、風太の顔が近づき唇が塞がれる。柔らかく軽く合わさった唇が薄く開いて、熱い舌が珠恵の唇をなぞるとすぐに離れて行った。
「味見、してみるか」
「え、あの」
問い返そうと開いた唇に、グラスの酒を少し煽った風太の唇が再び重なり、今度は舌と共にそこをピリッと刺激するような酒が少しだけ送り込まれる。鼻の奥まで抜けるような芳醇な酒の香りと、喉を通った後に残る熱さに、体温と心拍数が一気に上がった気がした。
小さく水を弾く音を立てて、唇が離れていく。グラスに残った酒を一気に飲み干すと、それを畳の上に置いた風太は、再び唇を塞ぎ、アルコールの匂いが濃く残る熱い舌で、珠恵の咥内を明確な意思を持って探り始めた。
肩に回された逞しい腕と、足に囲われた珠恵の身体は、すでに逃げ場を奪われて僅かに身じろぐのが精一杯だ。それなのに風太の自由になった右手は、緩く結わえた半天の紐を解いて浴衣の襟元から中へと入りこみ、いとも容易く、激しい鼓動を刻んでいる珠恵の胸の膨らみへと辿りついた。
浴衣の布以外は何も遮るもののないそこに触れた時、風太の唇が薄っすらと笑みを浮かべたのに気が付き、珠恵の心臓が跳ねた。
――どうせ脱がすんだから、なんもつけてこなくていいぞ
風呂に向かう直前、風太に囁かれた言葉のとおり、珠恵の浴衣の下は素肌だった。そのことを笑われたのだと、恥ずかしくて堪らなくなる。
「だってっ、ふた……さ」
「温泉入ったばっかだからか、あったけえな」
「……んっ」
「つか、これ邪魔だな」
耳元でそう呟きながら、唇が耳朶を擽るようにそこをなぞり、手が珠恵の肩から半天を落してしまう。
「にしても……これ考えた奴って」
抵抗など何の意味もなく、上がった吐息を漏らしながら風太を見上げた珠恵の目に、まだ薄く笑みを浮かべている唇が映る。襟元から入り込んだ風太の手は、今や我が物顔でそこにある膨らみを揉みしだき、持ち上げ、時折悪戯をするように、硬くなった場所を刺激し始めていた。
「絶対エロい奴だな」
おかしそうにクッと笑った風太が何を言っているのか、余り頭に入ってこない。与えられる刺激に身体が揺れて、風太の胸元にしがみつき顔を伏せた。
浴衣の裾が乱れ、足が腿まで露わになっているのに気が付く。そこに浮かぶ熱を持った痣が目に入り、慌てて浴衣の布でそれを隠そうとした珠恵の動きを制するように、裾を割って入ってきた風太の手が、傷跡を優しく撫でそのまま足をなぞり上げていく。
膝を閉じようと動かした足のつま先が何かに触れ、畳に物が倒れる音がした。
「ふ……た、さん……まっ」
「……なんだ」
「お酒の……瓶っ」
どうでもいいとでもいうように、ほんのチラっとだけ転がった瓶に目をやった風太は、手を止めることもなく、もっと奥へと指を滑らせていく。それが、珠恵の素肌と風太の指先とを遮る布に突き当たると、目の前の唇が再び可笑しそうに笑った。
「何だ……こっちは穿いてんのか」
「あ、のっ……だって、それは」
「どうせすぐ脱がせんのに」
「……ん……や」
「まあ……お前にしちゃ、上だけでも上出来か」
余裕あり気に話しながら、風太の指先は、布越しにそこをなぞり時折爪先で引っ掻くように動く。そこがどんな風になってしまっているのか、自分でもわかっていることをワザと珠恵に知らしめるように動く風太の指に、恥ずかしさのあまり何度かその腕を押しとどめようとした。けれどそんな行為も、邪魔だとばかりに風太に退けられる。
「これも、もう邪魔だろ」
「やっ」
意味深に笑いながらそう言われて、頭に血が上りただ風太の胸元で首を振る。言葉通りすぐに下着を抜き去った風太の指は、戻ってきたと思ったら、もうそうなっていることをよく知っているとばかりに、濡れた場所を抉るようになぞり、迷うことなく中へと入りこんで来た。
「……んっ、だめっ……た、さ……」
浴衣の襟を掴んで、風太に強くしがみ付く。酔っているのだろうか、いつもよりよく笑う風太が浮かべる笑みは、けれどどこかとても意地悪なものに見える。
「たまえ」
熱の籠った声で呼ばれて、肩ごしに回された風太の腕が火照った頬を引き上げ、先程までの余裕など無くしたみたいに、唇が熱く激しく重ねられる。結わえていた髪は、いつしか乱れ解けてしまっていた。
窓の外から聞こえる水流とは別の、自分の身体から聞こえる水を弾くような湿らかな音に、身体中が熱を上げる。さっき鏡に映っていた身体を見つめて思い浮かべたのよりも、風太の手は、今日は少し優しくない。長い指が、いつもより早急に珠恵を追い詰めようと敏感な場所を暴き捏ね、中に入り込んだ別の指が、そこを確実に責めるように蠢いている。
こんな場所では嫌だと思う理性もすぐに霞んで、気が付けば、風太の両腕を強く握り締めながら堪え切れずに声を上げ、その指だけで高みへと押し上げられていた。
流れ落ちた涙を唇で拭いながら、少し酷薄な表情で風太が笑う。珠恵はそれを、息も上がったままの熱の引かない目で、ぼんやりと見つめていた。
「やっぱお前……今日、いつもと違うな」
風太が口にする言葉も、どこか朧げに聞こえてくる。吐息がまだ熱い。けれど、こんな場所でひとり乱れたことが恥ずかしく、熱と涙が浮かんだ目を閉じて首を小さく横に振った。
珠恵が襟を握り締めていたせいで風太の浴衣は襟元だけが乱れているが、珠恵のそれは、もはや着物としての役割はほとんど果たしていない。
その有様に気づいていない珠恵を見ながら、風太の喉が、乾きを飲み込むように大きく動いた。
「……んと、加減できねえな」
呟いた風太の腕に抱き上げられた身体が、並べて敷かれた布団へと運ばれる。取り払われた半天と転がったままの酒瓶、そしてグラスが取り残された広縁を、珠恵は熱を持った瞳でぼんやりと見ていた。
そっと優しく布団に横たえられる。風太が、けれど優しかったのはそこまでだった。
腕を押さえつけるように上から組み敷き、珠恵を縫い止めた風太の瞳は、ただ仄暗い欲望と熱を纏っている。そこからはもう、優しさはそぎ落とされていた。
背筋をゾクリとした何かが這い上がり、身体中に燻るように残っていたさっきまでの余韻が、煽られて熱をぶり返すのがわかる。
しなやかで逞しい獣に、組み敷かれているようだ。
逃げ出したいほどの怖さも確かに感じているのに、もう、奪われ食べ尽くされる愉楽を知っている本能は、悦んで全てを目の前の人に差し出そうとする。
薄明かりの中で珠恵を組み敷いた風太を見上げながら、そんなことを感じている自分が、酷く淫らに思えてたまらなく恥ずかしい。
珠恵の考えていることなどわかっていないだろう風太は、殆ど意味もなく残っていた珠恵の浴衣の帯を解くと、自分の帯も同じように解き、邪魔だとばかりに浴衣を脱ぎ去った。
何も纏わない風太の肌が、目の前に晒される。
いつもならば珠恵に触れさせるその肌に浮かぶ絵も、今日はその間さえ惜しいとでもいうように与えられず。両腕を片手で抑えつけた風太は、目の前に差し出された獲物を嬲るように、珠恵の唇と身体を、今度は唇と舌と指で、そして重なる肌と欲を滲ませた目で愛撫し始めた。
さっきまでよりも濃度を増した夜の中、薄く部屋を染める柔らかなほの暗い明りに、風太の身体を彩る絵が浮かぶ。昼に聞いた話が頭の隅に残っているせいだろうか、桜の古木に天女が舞い降りた幻想を見ているようだ。
熱と快感に浮かされたようにぼんやりした瞳に、涙が浮かぶ。この桜は、珠恵だけの桜なのだ。
「口……開いてろ」
優しくもない声が聞こえて、いやだと首を振りながら結局従順に開いてしまう唇に、本当は珠恵も望んでいるのを知っているとばかりに唇が重なり、舌が入り込んでくる。応え方を教えられた舌でそれを迎え入れ、与え差し出すように絡めた。
静かな部屋の中に聞こえてくるはずの虫の音や、木々を揺らす風の音は、もう耳には届いていなかった。息遣いと甘い嬌声、時折風太が漏らす声、淫靡に響く水音、そして何故だかそれに重なるように、川音だけがやけに大きく聞こえる。
無意識に逃げようとする珠恵の身体を引き戻し、容易く片足を上げた風太によって晒された場所に、唇が落とされ舌で嬲られ、頭が溶けそうな愉楽を与えられた。嫌だといったのと同じ唇から、色を帯びたあえかな声が、そして瞳からはただ涙が零れていく。
酒のせいなのか、風太の身体も自分の身体も熱い。熱くて、熱くて堪らない。風太の身体からも汗が滴り落ちる。抑えきれない意味をなさない声が、熱を持ち濡れた唇から何度も零れていた。
軽く達した珠恵の身体を割り込むように、ほとんど休む間もなく今度は風太の昂ぶりが中へと入ってくる。それだけで、身体が風太と混じり合い、消えてしまうような錯覚を覚えた。
二人分の熱に侵された頭が、溶けそうだった。
「……やっ……いゃっ」
初めて覚える自分が自分でなくなるような感覚に、珠恵の肌が粟立つ。
「いやっ、……こわ、い……ふ、……さ」
泣きながら何度も風太の名前を呼ぼうとするのに、それさえ上手く言葉にならない。
「お前っ……中、凄えぞ……酔って、んの、か」
羞恥などもはやどこかに消え去ってしまっていた。風太の声色も余裕が感じられない。
珠恵の足をより高く上げた風太が、奥まで、身体の奥深いところまで入り込んで来る。荒い呼吸と堪えるような声、珠恵を見つめる目にはいつものような優しさは欠片もない。ただ、珠恵を追い詰め喰らい尽くそうとするその目に、そうして欲しいと縋りつくように手を伸ばした。
激しくなる風太の動きに合わせて、何も考えられなくなっている珠恵の身体だけが、応えるように、求めるように動く。
一瞬息を詰めた風太の身体に、強張るような力が入り、しがみついた腕の中で震えるのを感じた刹那。
細い悲鳴のような声を上げた珠恵の意識は、遠くなり白く途切れた。