「――珠恵」
肩を揺すられ、はっと目を覚ます。車は駐車場らしき場所に止まっていて、顔を上げて周りを見ると、そこはもう、さっきまで走っていたはずの緑の木々で囲まれた山中とは景色が違っていた。
土産物屋や食べ物屋が立ち並ぶ、山間の温泉街のようだ。どれくらい眠っていたのかと慌てて時計をみると、三、四十分は時間が経っているようだ。
「あの、すみません」
「なにが」
「寝て、しまって」
「寝てろっつったろ」
機嫌がいいのだろうか、運転席から珠恵を見つめた風太の目元が柔らかくなると、手が伸びてきて、少し乱暴に髪を押さえるように触れた。
「あの、風太さ」
「寝癖、ついてんぞ」
「え」
慌てて手櫛で整えると、風太の大きな手が、髪から離れて行く。
「この辺で昼飯食ってから、ちょっと寄るとこがあるんだ。店、適当でいいか」
頭を押さえながら頷いた珠恵は、もう一度身なりを軽く整えてから、風太に続いて車外に足を踏み出した。
外へ出て少し固まっている身体を解すように背を伸ばすと、心地よい風が吹き抜けていく。
「涼しくて、気持ちいいですね」
空が、都会よりも広い。蒸し暑さが殆どなく、空気も澄んだキレイなものに感じられる。
「結構高いとこまで来てっからな」
確かに日差しは少しきつくて眩しい。そのままだと日に焼けてしまいそうだと帽子を取り出してかぶり、先に歩き始めた風太の後ろを慌てて追い掛けた。
二、三軒程の店を物色し、ここでいいかと聞かれて頷いた手打ちの蕎麦屋に入る。殆ど何もしていないはずなのに、きっちりとお腹はすいていた。
涼しい店内で昼食の蕎麦と山菜の天ぷらを食べ終えると、先に出てろと言われ、店の外に出て風太を待つ。店先には勢いよく飛沫を上げて回っている水車が設置されていて、珠恵はその動きを飽きることなく眺めていた。陽の光を浴びてキラキラと輝く水滴がとても綺麗だ。
顔を上げると、少し遠くには緑を湛えた山並みが浮かび、青空の中を鳶だろうか、ゆったりと漂うように数羽の鳥が飛んでいるのが見える。眩しさに目を細めながら、珠恵はその全てに、目を奪われていた。
しばらくすると、店の女性に何か尋ねていたらしい風太が、中から出て来た。何を話していたのかと聞いてみたが、「ちょっとな」と答えただけの風太は、それ以上話す気はないようだ。
しばらくの間、土産物屋を覗いてみたり、近くにある神社に参ったりして、ブラブラとその辺りを見て回った。急ぐ素振りもなくゆっくりしている所をみれば、人に会いに行くのは明日なのだろうか。でも、そう尋ねてみた時も「――まあな」と、そんな答えしか返ってこなかった。
それでも、こんな風に風太とゆっくりとした時間を二人きりでもつことも初めての珠恵にとっては、それは些末なことに過ぎず、気持ちはずっと高揚したままだった。
時折風太に指を取られながら、ほんの少しだけ後ろを歩く。珠恵が話し掛けると、振り返り顔を近づけて答える風太の他人とは違う距離の近さも、外ではまだ慣れていなくて、いちいち、恥ずかしさとくすぐったさを感じてしまう。
「いいか?」
風太が足を止め、確かめるように周囲を見渡して指し示したのは、茶色い立派な杉玉が軒先に吊るされた造酒屋だった。建物の裏の敷地には、大きな醸造蔵が見えている。店内は仄かに酒の香りがして、それだけで珠恵は、少し酔ってしまいそうな気がした。
店に入った風太は、何かを探すように店内に視線を巡らせ奥へ進むと、棚に並べられた様々なラベルの日本酒を手に取り始めた。
珠恵の方は、入口付近にディスプレイされた綺麗な色付きの瓶を手に取ってみた。口当たりがフルーティーでワインのようだと書かれたその日本酒入りの瓶を、角度を変えて眺めると、光が当たり色のついた影が白いテーブルに映り込む。
人の気配に顔を上げると、レジの後ろの暖簾を掻き分け出てきたのは、半被を着た店員らしき男性だった。珠恵と風太に気が付くと、慌てて「いらっしゃいませ」と声を掛けながら店内へと入ってくる。
珠恵に頭を下げてから、その人は、物問いたげな視線を返した風太に近付いていった。
風太とそう変わらない年頃だろうか。彫りの深い顔立ちのその男性は、店員の割にはそれほど愛想良さは感じられないが、かといって冷たい雰囲気でもなく、どこか風太や竜彦、一寿達と同じような雰囲気を纏っているように感じる。狭い店内には客は珠恵達しかおらず、何か尋ねたいことがあった様子の風太と、その店員が交わす会話は、自然と珠恵の耳に入ってきた。
風太は日本酒が好きなのだろうか。普段はビールを飲んでいる姿しか殆ど目にしていないが、そんな風に思えるほど、日本酒のことを色々と尋ねている。
どうやら、男性はここで酒造りをしている蔵人のようで、時折店番にも出ているらしい。まだ修行中の身だと話す声を聞きながら、やはり皆と似た雰囲気の人だと感じたのは間違いではなかったと、腑に落ちた。
風太が、自分も修行中の身なのだと口にすると、途端に親しみを感じたのか、店員の口調が滑らかになり、自分は実はここの蔵元の娘婿なのだということまで話し始めた。
やがて風太は、土産にするものだと告げて、その男性が主に任されて造ったのだという大吟醸酒を、四本程購入した。
ラベルに『櫻灑』と達筆な筆文字が入った銘柄の酒は、この近くに大きな桜の老木があることから、その名が付けられたのだという。
「この辺りの他の蔵でも、やっぱり多いですよ。桜を使った名前」
そう言って笑った店員の顔は、思いがけず人懐っこいものだった。
――さくら
その花が連想させるものは、今では珠恵にとっては特別過ぎて、それだけで胸が少し切なくなる。今日も長袖のシャツを着ている風太の背中へと無意識に向けてしまっていた視線を、そっと外した。
何か感じるところがあるのだろうか、風太も、桜の文字の入ったラベルをじっと食い入るように見つめている。
「ご用意できました」
声を掛けられ会計に向かおうとする風太に、珠恵は自分が見ていたお酒を、喜世子への土産にどうかと尋ねてみる。
頷いた風太がそれを先ほどの店員に手渡し会計を済ませると、彼は、自分の造った酒を購入してくれた礼だと、同じ銘柄の酒の小瓶をおまけに一本付けてくれた。
杉玉の下で、その店員は長い間佇んだまま、二人を見送ってくれた。
「風太さん」
珠恵の声に背後を振り返った風太は、小さくなった彼の姿を暫くの間黙って見つめてから、頭を下げる代わりに、酒瓶の入った袋を軽く持ち上げてみせていた。
* * *
地元郷土料理や山の幸をふんだんに使った豪華な夕食を終えて、桔梗の間に戻ってくると、もう部屋には既に布団が二組敷かれていた。
最近少しは風太と二人きりでいることにも慣れてきたはずなのに、その光景にまた緊張してしまい、珠恵は布団から視線をすっと逸らした。
どこでどうしていればいいのかわからず、どうにも落ち着かないままテレビの側に寄せられた机の横に腰を下ろし、興味もないテレビをつけて見てしまう。
窓の外からは、さっきより大きく聞こえる水流の音と、もう秋を感じさせるような涼しげな虫の音が聞こえていた。
風太は、畳敷きになった本間と繋がった広縁に冷蔵庫から取り出したビールを片手に佇むと、部屋の外でもそうしていたのと同じように、部屋の構造や柱の組み方を確かめるように、じっと空に視線を向けたり、近付いては手で触れてみたり、押入れを開けて中を覗き込んで何かを確かめるように弱い力で叩いてみたりしている。
殆ど頭に入ってこないテレビを見ながら、そんな風太の様子をチラチラと眺めていた珠恵は、ふと思い立って声を掛けてみた。
「あの、風太さん、よければ写真、取っておきますか?」
振り向いた風太は、ほんの少しだけばつが悪そうに「悪いな」と言いながら、その言葉に頷いた。
珠恵の投げかける疑問に答えながら風太が指し示す場所を、渡された携帯のカメラに収めていく。ひと通り部屋を撮り終えると、風太はまた広縁に戻り、置いてあったビールを手に腰を下ろした。
暫らくカメラの画像を確かめていた顔を上げて、風太が珠恵を見遣る。
「風呂、行ってきたらどうだ?」
この旅館には、本館の一階に少し大きめの浴場が二つあり、朝と夜とで男性用と女性用が入れ替わるらしい。風太の言葉に頷きながら、こういったいかにもな旅館で温泉に入るのは初めてだと、期待に少し胸が躍る。けれど、支度を始めてからも座ったままの風太の姿に、珠恵はあることに気付き手を止めた。
「あの……風太さんは」
「俺はこういうとこの風呂には入れねえからな」
少しだけ苦笑いして、珠恵が質問の意図を汲み取った風太が答える。
「じゃあ、お風呂は」
「この部屋、一応風呂がついてっからそれに入る」
「でも……」
部屋には確かに風呂は付いているが、それは小さなユニットバスだった。折角温泉に来たのに、あんな狭い風呂で、とどうしても思ってしまう。
「気にすんな。まあ、露天がついてる部屋もあったけど、全部満室だったしな」
どうにか風太が温泉に入れる方法がないだろうか、とボンヤリと考えていた珠恵の耳に、「そっちのが取れりゃまあ、色々できたんだろうがな――」そう続く風太の声が不意に届いた。
「……いろいろ、って?」
顔を風太の方へと向けて、何のことだろうかと疑問を口にする。
「色々は、いろいろ、だ。くわしく説明してやろうか」
そう繰り返し、行きの車内と同様からかうような顔で珠恵を見ている風太の様子から、何となくその意味するところが分かった気がした。
「いえ、あの……いい、です」
恐らく頷かない方がいいのだろうことは、もうわかる。熱くなった顔をそっと逸らしたものの、口を噤んだまま珠恵を見ているらしい風太に、どこか追い詰められているような気分になる。
「あの……」
「折角温泉に泊まってるんだ。ゆっくり入ってこい。温泉、嫌いじゃないだろ」
「あ、はい」
「いいから、行ってこい」
「あの、じゃあ行ってきます」
「ああ」
こういう場所で公衆の風呂を使えないことを、風太自身はよくわかっていて、特に残念がっている様子でもない。その時、もしかしたら風太は、珠恵のために自分が入れない温泉旅館を取ってくれたのだろうかと、不意に気が付いた。
そうだったならば、折角の温泉を、ちゃんと楽しみたい。
そう思った珠恵は、用意された浴衣や鈴蘭の巾着袋に詰められたアメニティ、風呂で使うもの一式を準備して、立ち上がり風太へと声をかけようと振り返った。
「風太さ――」
いつの間にか広縁から立ち上がっていた風太が、すぐ後ろに立っていた。顔を上げかけた珠恵の耳元に少し屈み唇を寄せた風太は、二人しかいない部屋だというのに、内緒の話をするような低い声で、そこに言葉を落し込んだ。
「………ぞ」
告げられた言葉につい顔を上げてしまうと、風太の唇が、薄く意地悪そうな弧を描く。
「あのっ、わ、私……行ってきます」
赤く熱くなった耳を抑えて、慌てて部屋を飛び出た珠恵は襖を後ろ手に閉めた。
「……もう」
恥ずかしさを誤魔化すように小さく呟きながら。部屋に残った風太が今、やっぱり楽しそうな笑みを浮かべているであろうことは、想像がつく気がした。