つづら折になった山道を下っていくその先に、湖と温泉街が見える。車がその集落へと入っていく大きなカーブに差し掛かったところで、さっきまでは殆ど見当たらなかったはずの車が列をなしているのが見えた。
「結構、混んでるんですね」
「だな」
スピードを落としながら、車はその車列の後ろに追いついた。
「さっきまで、車、殆ど見かけなかったのに」
「まあな」
「どこかから急に現れたみたいで、不思議ですね」
「…………」
「あっ、そんなわけ、ないですよね」
「いや……まあ、な」
確か少し前に昼を食べた別の温泉街の辺りも、結構混み合っていたことを思いだして、珠恵は間抜けなことを言ったと少し恥ずかしくなった。
「にしても、暇な奴が多いな」
「あ、あの」
「何だ」
「私たちも、来てます」
「俺らは暇じゃねえだろ」
真面目に言っているのか、冗談で言っているのかわからなくて、もごもごと曖昧な返答をすると、風太の口角が微かに持ち上がる。
徐行で少しずつ前に進んだ車は、しばらくすると、山間の温泉街へと入っていった。
「やっぱり、夏休みだし、子ども連れも多いみたいですね」
「……だな」
「あの、風太さん」
「ん?」
「窓、もう少し開けてみてもいいですか」
「ああ」
ボタンを押して、車窓を大きく開けると、車内に冷んやりとした空気が流れ込んできた。
「涼しい……」
「冷房もいらねえはずだな」
山道に立っていた温度計は、夏だというのに、都心よりも十度近く低い数字が表示されていた。温泉地は少しだけ気温が高いようだが、それでも車内の冷房を切ってしまっても、殆ど気になることはなかった。
「気持ち、いいですね」
「そうだな」
前の車にぶつからないよう、車間を調整しながら運転する風太は、前を向いたままだ。
「温泉の、匂いがします」
「そうだな」
「お土産物屋さんも、いっぱい」
「ああ」
簡単な相槌しか返って来なくても、気持ちが高揚している珠恵は、ついはしゃいだように何でも口にしてしまう。
温泉街は、土産物屋や宿、飲食店などが並び、観光客で賑わっている。買ったものを食べながら歩いている人たちや、すでに宿で温泉に入ったのだろうか、旅館の浴衣に下駄で店をひやかしている人の姿も見受けられる。
「あ、焼きたてのおせんべいが売ってます。美味しそう。あ、ワインのソフトクリームもあります。キュウリの串刺し食べてる人も結構多いです。あ、ところてん」
目にしたものを次々口にしながら、珠恵はそれが食べ物ばかりだということに、途中で我に返り気が付く。車の中にも醤油や、肉の焼ける匂いが漂ってくる。
「後で、食いにくるか?」
そんな風に問う風太の口調は、どこかからかいを含んでいる。
「あの、いえ……そんなつもりじゃ」
「ああ、でもちょっとあれだな」
「え?」
カーナビを見つめた風太に、顔を向けた。
「宿、ちょっと離れてるみてえだ」
「あ、あの、いいです。見てるだけで、楽しいから」
「腹、減ってんじゃねえのか」
「そんなこと」
「さっきから、食いもんのことばっか言ってんぞ」
昼食もしっかり済ませたというのに。気恥しさに口を噤んで、珠恵は窓を少し閉めた。
「まあ、確かに旨そうな匂いがするけどな」
笑いながらフォローするようなことを言われても、余計に恥ずかしいだけだ。
前を行く車が、少しずつ左右にある宿へと吸い込まれていく。気が付けば、温泉街の喧騒を一旦通り抜け、車は、再びゆるい山道を上り始めていた。
「この、上にあるはずだけどな」
カーナビが案内を終了すると告げると、風太が、まだ見えてこない建物を探すように少しずつ車を進めていく。道路の右手に折れ入っていく砂利道が見えてくると、宿の名前の看板がそこを曲がるよう案内していた。
「ここ、ですか?」
「ああ」
砂利を踏み鳴らしながら車が奥へ入っていくと、突然開けた場所に、宿が姿を現した。どこから見ていたのだろうか。すでに駐車場には、到着を待ち構えるように宿の人が二人頭を下げて出迎えてくれている。珠恵は車の中から、そちらに向けて頭を下げた。
誘導に従って止めた車から車外へと足を踏み出すと、気持ちのいい涼しい風と澄んだ空気が胸を満たす。
「ようこそ、お越しくださいました」
「世話んなります。森川です」
遅れて運転席から降りてきた風太が頭を下げる。年齢的には、自分たちとそれほど変わらないように見えるそのスタッフが、車から降ろした二人分の重い荷物を肘に掛け、旅館の入口へと案内してくれる。
玄関までの敷石を踏みしめながら見上げた建物は、古くて重厚な雰囲気の木造で、どうやら二階建てのようだ。客室は全部で八室だというが、この敷地でその部屋数というのは、結構贅沢な造りのように思える。
初めて二人で旅行をするという状況に、少し前を歩く風太の後ろ姿を見ながら、珠恵の胸はもうずっとドキドキしている。傍から見て、二人はちゃんと恋人に見えているのだろうか。そんなことまで気になってしまう。
玄関を上がり、しばらくお待ちくださいと通されたのは、囲炉裏をしつらえた部屋で、少しすると先ほどとは別のスタッフが、宿帳と飲み物、そして小皿に入った和菓子を囲炉裏端に並べていく。
風太が宿帳を書いている間、珠恵は、首を巡らせ周りを見回してみた。黒く磨き上げられた立派な梁や床、全体的に、古民家のような造りになっているその宿の館内は、柔らかで暖かい杏色の照明が灯されている。剥きだしになった黒い立派な梁を見上げている珠恵の視線を追って、宿帳を書き終えた風太が、立ち上がり顔を上げた。
「いい、建物だな」
「ここ、築百五十年くらいの古いお屋敷を移築したって、あの……ホームページにはそう書いてありました」
夕べ宿の名前を聞いて、ネットで調べた情報を珠恵が口にすると、風太は上を見上げたまま、頷いている。
女性のお客様だけですがどれかおひとつ――と、宿のスタッフから、ちりめんで作った巾着に入ったアメニティの入った籠を指し示された。
これがいいかあれがいいかと風太に尋ねてみたところで、どれも「いいんじゃねえか」という答えが返ってくる。きっとどれも同じだから早く選べと思われているのだろうと焦りながらも、結局、全部を見た上で、薄いピンクに鈴蘭の絵をあしらった巾着を選んだ。
宿のスタッフの女性に、お客様にはぴったりですね、と言ってもらい、お世辞だとわかっていながら、気恥ずかしさと嬉しさが込み上げる。
待たせたことを詫びて、その女性の先導で、宿の説明を受けながら二人が宿泊することになる二階の桔梗の間へと向かう。
階段を上がり切ったところで、風太が足を止め、さっきより距離が近付き迫力を増した天井の梁を再び見上げた。
珠恵もつられて止まると、少し前を歩いていた宿のスタッフも足を止め、こちらを振り返った。
「あれ、欅ですか」
風太の問い掛けに、スタッフが上を見上げて頷いた。
「この建物を移築することに決めた一番の理由が、あの梁を宿の主人が気に入ったからなんです。かなり大きな天然の欅なんですけど、今じゃああそこまでの物はもう殆ど手に入らないらしいですよ」
よく尋ねられるのだろうか、澱みなく答えが返ってくる。
再び部屋へと向かいながら、欅は珍しいのかと風太に尋ねてみると、宿の人が言うように、あそこまでの太さのものは今ではなかなか手に入らず、手に入ったとしてもかなり高額になると教えてくれる。欅は扱いが難しくなかなか思うようにはならない大工泣かせと言われる木だということや、長い年月をかけて色付いたのだと思っていたツヤのある黒色は、元々柿渋や松の木を燃焼させてできた煤から作る墨、そしてベンガラなどの天然の塗料を使い黒くしているのだとそんなことも、説明してくれた。
「お詳しいんですね」
スタッフの女性も頷きながら風太の話を聞いている。
「いや……まあ」
誤魔化すように苦笑する風太より、珠恵の方がどこか得意げな気持ちになっていた。
案内された部屋は、手入れの行き届いた十二畳ほどの和室で、そこから繋がる畳敷きの二畳程度の広縁があり、窓からは豊かな緑が目に入る。建物のすぐそばにある渓流の、せせらぎというには大きくけれど決してうるさくはない水音が、絶え間なく聞こえてくる。
部屋数が少ないからだろうか、他の宿泊客とすれ違うこともなく、静かで、スタッフも行き届いている、とても落ち着いた居心地の好い雰囲気の宿だった。
* * *
――八月に、二日続けて休み取れねえか?
そう風太に聞かれたのは、七月の半ばを過ぎ、風太の夏休みが始まってしばらく経った頃だった。七、八月は夏休みに入るため、休館日はなく、毎日図書館は開いている。その分休みは少し少なくなり、代わりに六月や九月にまとめて休みを取る者も多い。
手帳を見て夏のシフトを確認すると、八月下旬に一度だけ二日続けて休みになる日がある。それを告げると、しばらく部屋を出て戻ってきた風太に、「人に会いに行く用があるから、一緒に行って温泉にでも泊まらないか」と、そう誘われた。
どこへ行くのか、誰に会うのか。詳しい話は結局聞いてもはぐらかされて教えては貰えなかった。ただ、東京から北西にあたる場所の名前を口にし、珠恵が一緒に行くのなら、その辺りの温泉に泊まるつもりだとだけ、聞かされていた。
行先がどこであっても、風太と一緒に出掛けられるのならそれだけで十分嬉しかった珠恵は、それ以上問うこともせずに、ただその日を楽しみに待ちわびていた。
喜世子や愛華、そして真那にも、どこに行くのかと根掘り葉掘り尋ねられたが、本当によくわからないのだと答えると、呆れたように笑われた。
当日は晴天で、東京は茹だるような暑さだったけれど、午前中に家を出て、東京駅から電車に乗り二時間、そこからレンタカーに乗り換えるのだといわれた駅に降り立つ頃には、明らかに東京よりは気温が下がっていた。駅から見える街並みも、都会とは全く違っていて、高層の建物は見当たらず、山並みが遠くに見える。
レンタカーに乗り込み、カーナビに触れた風太には確かな目的地があるらしく、確かめる間もない素早さで操作を終えてしまう。出発した車が正面の山並みへと向かうと、遠くに見えていたそれがすぐに目の前に迫って来て、意外と近かったのだと分かった。
電車の中では普通に会話をしていた風太は、車に乗り込んでからは少し無口だった。機嫌が悪い、という訳ではないようだが、どこか、物思いに耽っているようにも見える。
初めのうちは、目に映る自然の景色を楽しんでいた珠恵は、次第に、眠気に襲われて、首をカクッと折ってしまった。慌てて誤魔化すように顔を上げる。
「夕べ、あんま寝てねえんだろ」
「いえ、あの……」
やはり気付かれていたのだろう、風太が、久しぶりに口を開いた。
「何度も、寝返りうってたぞ」
「もしかして、風太さんも起きてたんですか」
「いや、まあ、時々な。だいたいは寝てた」
「すみません」
「別に謝ることじゃねえだろ」
「あの……何だか、緊張して」
「ん?」
「あ、風太さん、と……旅行に行くって思ったら……」
「んで、眠れなかったのか」
問い返す風太の声が、柔らかい。
「遠足前の、小学生みたいですよね」
小さく笑う声に、顔を上げた。ふと、さっきの言葉を思い返して、心配になる。
「もしかして、私が煩くしてて起こしましたか」
「や、そうじゃねえ。まあ、俺も……目が覚めたのは、多分お前と一緒の理由だ」
口角を持ち上げたままの風太が、ちらっとこちらを見た。
「え」
その答えに、少しだけ鼓動が跳ねる。こんな風に簡単な言葉や表情一つで、珠恵をドキドキさせるのだから、風太はずるいと思う。
「あ、あの、運転、……大丈夫ですか」
「眠くねえから心配するな。まあ、お前よりはよく寝てたみてえだしな」
風太の視線が、進行方向に向けられる。その表情を見ていると、風太が眠れなかった理由は、珠恵とは少し違うような気がした。
「寝てていいぞ」
「……大丈夫で」
「どうせ夜、ゆっくり寝れる保証はしてやれねえし」
「……え?」
悪戯っぽい顔をしてこちらに笑みを向けた風太から、思わず赤くなっていく顔を逸らす。
今日は、本当に二人きりなのだ。誰も、知った人のいない場所で、風太と二人だけで過ごすのだ。そんなことを急に意識してしまい、車内で二人でいる今の状況にさえ、ドキドキとする。
誤魔化すように外へ向けていたはずの瞼は、結局いつしか閉じていて、やがて緩やかな振動に吸い込まれるように、珠恵は眠りに落ちていた。