本編《Feb》

エピローグ 三十日月2



 やがて永は、桜の花が散る頃、舞い散る花びらに誘われるように、静かに息を引き取った。
 永の棺には、由梨江と美月、功と芙美夏の写真と共に、永がずっと大切にしていた芙美夏の送ったカードの束と、亡くなるまで手元に持っていたという、芙美夏からの手紙が納められた。

 転院後、同じ病院に入院した芙美夏は、入院中は毎日、退院後はリハビリに通いながら、やはり殆ど毎日永を見舞った。
 そんな中、功は、年が明けるとすぐに二条ホールディングスの副社長に就任していた。
 功がそれなりのキャリアとトップとなるに相応しい経験や年齢を重ねるまでの措置として、当座、最高責任者の地位は、永の従兄弟で右腕でもあった副社長の二条博康が引き継ぐ事になった。
 そうしてほぼ時を同じくして、親族らを集めた席上、病を押してその場に顔を見せた永の口から、当主の代替えが直接一同に言い渡されていた。
 その席で、功は芙美夏との婚約を発表したが、一族への根回しや予想される反発を押さえるための様々な条件提示は、永が、香川を通じて予め行っていた。

 その中で最も皆を驚かせたことは、功の次代の当主についてのもので、当主の血筋を長兄の直系に戻すというものだった。
 跡継ではなかった永が当主の座に就いたのは、そうせざるを得ない事情があったからだ。長男の高志が当主となり、そうして、永の子ではなく高志の子どもが継嗣となるのが本来の道筋だった。高志は当主の座を永に渡した時に、父親によって事実上勘当され相続人としての地位を廃除されていた。
 また、当時はまだ彼に子どもがいなかったため、永の後を継ぐ当主は特に反発もなく自然、功とされた。
 由梨江の葬儀の時に連れ添っていた派手な身なりの若い妻と別れ、数年前に再婚した高志の新しい妻は、これまでとは違うどこか穏やかで大人しそうな女性だった。
 彼女の妊娠をきっかけに前妻と別れ再婚したようだとは、芙美夏も功から少しだけ聞いていた。
 子どもを授かってからの高志は、心を入れ替えた――とまでは言えないが、それでも随分まともな生活を送るようになったのだという。
 生まれた高志の子どもは、この春ようやく六歳になる『葉瑠』という名の男の子で、父親に似ず聡い子どもだとの評判だった。

 離れを改装し兄夫婦の住まいとし、葉瑠に功の後を継ぐ継嗣としての教育を施し、その地位を正当な長子の血筋に戻す事。
 功は、二条の当主が当然受け取るべき二条家固有の財産を全て放棄し、葉瑠が成人するまでは、後見人としてそれらを管理する立場となる事。
 葉瑠が、功の次の当主となるに相応しくないと判断された場合の措置。
 永は、そういったことを当主の権限で決め置くことで、功と芙美夏を巡る周囲の雑音をある程度抑えてしまった。

「功が執着するのは、君の事だけだ。あれは当主としての責任を全うするだけの度量も責任感もあるが、その地位には全く執着していない。芙美夏と引き換えになら、何を捨てる事も躊躇わないだろう。もともと私や功は、かりそめで当主の地位に就いたに過ぎないのだから」
 戸惑いを隠せない芙美夏が、それでも口を挟む隙もないほど、永と功の決断には揺るぎがなかった。
 本来、当主となる功の婚約や結婚は、一族のみならず政財界をも巻き込むある意味公の行事の側面を持つものだ。
 けれど永は、派手なことを望まない、そしてまだ体調が万全に戻ったとは言えない芙美夏を余計な雑音に晒さないために、自らの病と死を利用して、喪中の混乱に紛れて手続きを進めるようにとさえ、功に指示を与えていた。

 対外的には婚約中ということにしながら、功と芙美夏は、四月を迎える前に、永のために永の病室で、永と香川を証人として婚姻届を記入し、事実上の入籍を済ませた。
 その時の永の幸せそうな顔は、功からも父に対するわだかまりを全て拭い去るのに十分過ぎるものだった。

 北海道から転院してきてしばらく経った頃、芙美夏は、リハビリが思うように進まず苦しんでいた時、落ち込むあまり、永と香川に、事故の後遺症がどんな形で出るかわからない自分が、功の側に居ても本当にいいのかと躊躇いを口にしたことがあった。
「芙美夏、私はね、君の事故の知らせを聞いた時、また娘を失うのかと目の前が真っ暗になった。私の命はもう、そうは長くないが、もしもあのまま君を失っていたら、今生きている自分に絶望していただろう。芙美夏、君が意識を取り戻すまでは、生きた心地がしなかった。だが君が闘っているのに、私が諦めてはならないと香川に諭されてね」
 永は、優しい口調と穏やかな表情で、そう言葉を掛けてくれた。そばに付き添っていた香川も、同じような顔をして頷いていた。
「私はもう間違えるつもりはないし、功に間違った選択をさせるつもりもない。功を生かすのも殺すのも君次第だということは、もう充分過ぎる程わかっている。芙美夏……生きてさえいてくれればそれでいい。どんな辛い事も苦しいことも、功と乗り越えていきなさい。もう一度……今度こそ、私の……私と由梨江の本当の娘になってくれないか」
 そう微笑みながら、芙美夏の手を強く握り締めてくれた。
「これではまるでプロポーズですね」
 そばで聞いていた香川は、そう言ってからかうように笑っていた。
 温かで優しい二人の思いやりは、芙美夏を泣かせて笑わせて、そうして気持を軽くしてくれた。

 功と芙美夏の二人が入籍を済ませた事に安堵したかのように、永の病状は進行し、それから半月も持たずに逝ってしまった。
 その間、芙美夏は永のことを「お父さん」と呼んでいた。
 毎日病室を訪れる芙美夏に、見たこともない程優しい顔を見せる永に、功は、笑いながら溜息をついていた。
「父が若くなくて助かったよ。あの人と、芙美夏を取り合うのだけはごめんだ」
と、そう呟きながら。


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