本編《Feb》

エピローグ 三十日月1




 病状が落ちつき、転院に問題がないとの診断を受けてから、芙美夏は東京の永が入院する病院へと転院した。
 その間、見舞いに訪れ、床に頭を擦り付けるようにして土下座する大竹が園を辞めるというのを、何とか思いとどまって欲しいと説得した。
 事故に大竹の責任はない。園には、そして子ども達には大竹が必要だ。何より大竹の存在は、園の子ども達にとってもとても大きなものなのだ。それに、ようやく園に馴染み始めている修一のことも、芙美夏の代わりを大竹が引き受けているのだという。
「私の分も、どうか子ども達のことを――」
 そう何度も言葉を重ねる芙美夏と城戸との説得を、大竹がようやく受け入れたのは、芙美夏が転院する直前のことだった。

 芙美夏の転院を、誰より――もしかしたら功よりも強く望み進めたのは、意識を取り戻した芙美夏の元を、医師を半ば脅すようにして伴い、誰にも、香川にすら告げずに突然見舞った永だった。
 何の知らせもなく突然現れた永の姿に、和美は狼狽えて言葉を継げず、その和美から連絡を受け永を追ってきた香川は、血相を変えて芙美夏の病室に飛び込んで来ると、本気で永に怒っていた。
 以前顔を合せた時より、痩せて病に冒されていることをもはや隠す事は出来なくなってしまった永の無謀な行動に、芙美夏も無理をさせたと心配で堪らなかった。けれど永は、怒っている香川にも、心配そうに見つめる和美や芙美夏にも、いたずらっぽい笑みを浮かべてみせるだけだった。
 怒り疲れたのだろう香川は、最後に深く溜息を吐くと、気を取り直したように芙美夏の枕元に寄った。体調を気遣う言葉をかけて、話し続けようとする香川の背後から聞こえた永の言葉に、香川は絶句し、和美は、おかしそうに噴き出していた。
「お前ばかりが、ずるいじゃないか」
 芙美夏が目を覚ました後、香川はもう何度か病室を訪れているというのに、自身は一度も見舞うことが出来なかったことが、どうしても面白くなかったと、永はそう言ったのだ。

 病室を訪れた永から手渡されたものがある。芙美夏の真正な戸籍――母、矢萩望の子である芙美夏の戸籍と、そしてそこから香川夫妻と養子縁組をしている香川の戸籍の証明だった。
「君と橘君がイタズラした戸籍だ。元通り、君は香川と和美さんの養子に戻してある」
 手渡された戸籍を手に取った芙美夏は、そこに記された名前から視線を動かせずにいた。
「……おかあ、さん」
 そっと紙の上の文字をなぞりながら、呼ぶ声が震える。それでも、礼を言わなければと顔を上げた。
 心配そうな永と香川の眼差しが、芙美夏に注がれていた。そうして和美の手が、芙美夏の肩を抱き寄せて優しく撫でてくれた。
 皆の顔を順に見つめて、堰を切ったように涙が零れた。母の欄に矢萩望の名前が記載されたその戸籍を胸に、強く抱き締めながら。
「いつか話そうと思いながら、なかなか話す事が出来ずにいた。君のお母さんは、君を産んだ日に亡くなっていた。私達の調査でも、君の父親が誰なのかは結局わからず仕舞だった。すまない」
 香川の言葉に、ただ首を横に振る。
「生まれたばかりの君が、どういう経緯で置き去りにされたのかも、当時のお母さんをよく知る人が殆ど居ない今となっては、調べようがなかった。ただ、芙美夏。お母さんは……望さんは、命懸けで君を産んだんだ。どうでもいい子をそうまでして産んだりはしない。彼女を知っている人は、望さんの事を、母親思いのとても優しい娘さんだったと言っていた。きっと、芙美夏の命を守ってくれたのは、お母さんだよ」
 何も言えないまま何度も頷く芙美夏の肩を、和美がずっと支えてくれていた。
「お……かあさん……お母さん」
 ――私を産んで、そして今の私の年齢で亡くなった母。もう二度と会うことのできない母の一生に、幸せな時間もあったのだろうか。
 震える顎を伝って落ちる涙を拭うことなく、芙美夏は、脳裏に浮かぶ、はにかんだセーラー服姿の母を思っていた。

 写真に写った制服を頼りに、母の出身地を探り北海道にやって来た時、芙美夏は、母の地元と母校とを訪ねていた。そこで、母がもう亡くなっていることや、家の事で手一杯で遊びどころではなかった母には、母の事をちゃんと覚えていてくれるような友人も殆どいなかったことを知った。
 母親のために東京で看護師を志していたこと。
 そうして、亡くなったのが――田邊病院だったということも。
 その事を知ったとき、頭を殴られたようなショックを受けた。
 母の死とあの病院との間に、いったいどんな真実が隠されていたのかは、結局何もわからなかった。だがあの時、正巳に対する報復だけとは思えない徹底さで、田邊病院の経営者は間違いなく二条の力で排除されたのだ。
 功や淳也は病院の事についての関与は否定していたが、そうするだけの何かがあったのだと、芙美夏はその時確信した。
 当時あの病院に、少し揺さぶるだけで崩壊する多くの亀裂があったにせよ、まるで見計らったかのようなタイミングで病院が潰された裏には、やはり芙美夏の遺棄と母の死に関する秘密があり、潰すだけの理由を、功達はもっていたということなのだろう。
 だが、二条の手により巧妙にフィルターの掛けられた真実には、芙美夏では到底辿り着くことが出来なかった。

 今、ここにいる永が。そして香川までもが、わからないと語った芙美夏の父親のことも、そして自分が捨てられていた事情も、きっと本当はわかっているのだろう。
 知っていながら、芙美夏には話せない理由があるのだ。
 恐らくこれほど頑なに隠されているその事実は、酷く芙美夏を打ちのめすものなのだろうと、ずっとどこかでうすうすは感じ取っていた。
 真実を知りたいと渇望する思いは、確かにずっとある。
 けれど――怪我で生死の境を彷徨いこの世界に戻って来た時から、芙美夏の中に、不思議な感覚が芽生えていた。
 あの時、自分はもう一度生まれ直したのだと、そんな気がしていた。
 過去を隠そうとしている皆からは、芙美夏に対する深い想いが伝わってくる。ここにいる人たちは、そして功や淳也は、芙美夏に母を返してくれた。少なくとも母が芙美夏を捨てたのではないという事実を与えてくれた。
 もうそれで、いい。
 それ以上を、知ろうとしたりしない――と。
 自分の名前が記された母の戸籍を胸に抱いて涙を拭う芙美夏を、温かく見守る人達に囲まれながら。芙美夏は、そう心に決めていた。


タイトルとURLをコピーしました