本編《Feb》

第五章 下弦の月4



 時折、遠くからサイレンが近付く音がして、慌ただしい足音と声が聞こえてくる。
 淳也が駆けつけた時、まだ手術室に入っていた芙美夏は、長時間に渡る施術を終えた今も、まだ予断を許さない状態が続いている。
 骨折は全身数ヶ所に及び、内蔵にも損傷を受けていて体内での出血が酷く、手術室には大量の血液が運び込まれた。
 芙美夏の身内として医師からの説明を聞きながら、淳也は血の気が引くのを感じていた。
 全力は尽くすと言いながら、決して助かるとは口にしない医師を、助かる見込みはあるのかと問い詰める。彼が口にした20パーセントあるかないかだ、との言葉に、身体の震えを止める事ができなかった。
 今はただICUのドアの前で椅子に座ったまま、時折出入りする病院のスタッフに様子を尋ねることしか出来ない。
 少し離れた場所に腰掛けている学園の職員が二人、そして今はこの場にいない園長が、先程まで何度かに渡る警察の事情聴取を受けていた。
 到着時に挨拶を交わし、園長と警察から手短に事件のあらましを聞いていた時、隣にいる男はかなりパニック状態にあり、他の職員が付き添っていた。
 芙美夏が庇い、助けたというこの男が、功の言っていた芙美夏を好きな男に違いないと、感じていた。
 途中何度か父に、状況を報告する連絡を入れた。思った以上に最悪の状態に、父も言葉をなくしていた。数度のやり取りの後、夕刻の連絡で功をこちらに行かせると告げられた。
「でも、パーティは」
「あとは旦那様が引き受けられる。これで向こうの面目も十分に立つだろう」
 淳也は息を飲んだ。いくら今は容体が落ち着いているとはいえ、永の病状も決していいとは言えないのだ。
「旦那様って……でも具合が」
「あの方は二条永だ。淳也、こちらのことは、心配しなくていい。今は、芙美夏と……功様を」
「わかった」
 通話を終えた携帯を握りしめて、目を強く閉じた。何度も連絡を入れてきていた藍にも折り返す。どうしてもそっちへ行くと取り乱し泣く彼女を、今は来ても何も出来ないからと説得して宥めた。
 父の話では、明日の午前中には母がこちらへ来る予定にしているとの事で、入れ違いに、淳也は一度東京に戻る事になった。

 午後8時を回った頃、ほんの少しであればと、ICUに通される。
 全身をガーゼや包帯で覆われ、機械に繋がれたまま、浅い呼吸を繰り返す芙美夏の僅かに見えている顔は、そのあちこちに擦傷が見られ酷く腫れていた。
「何で……こんな……」
 この状態の芙美夏を目にする功の事を思うと、一層胸が千切れそうに痛い。
 ほんの、数日前だったのだ。
 功が、見たこともない程、幸せな顔で笑ってみせたのは。
 聞いているこちらの方が恥ずかしくなるほど、惚気てみせたのは。
 あんな功を見たのは初めてだった。功の感情を、どんな風にも動かす事が出来るのは芙美夏だけだった。
「何してるんだよ、みい……お前は、これから、幸せになるんだろ。功さんを……幸せにするんだろ……なあ、みい、目を開けてくれ……何で、みいが……こんな目にあってるんだよっ」
 気が付けば、声を上げて泣き叫ぶ淳也を看護師が芙美夏から引き離していた。
「お気持ちはわかりますが……」
 気の毒そうな表情の看護師がそう言いながら、淳也を部屋の外に連れ出した。
「申し訳……ありません」
 顔を上げることも出来ず、謝罪の言葉を口にした。
「こちらも全力を尽くしますので」
 言いながら戻って行く看護師に、ただ頭を下げることしかできない。
 頭を抱えて、待合室の椅子に腰を下ろす。現実の芙美夏を目にして、思った以上に衝撃が大きかった。
 目の前に靴先が見えて、顔を上げると園長が立っていた。
「隣……宜しいですか」
 伏せた顔を拭う。本当のところ、今は誰とも話すような気分ではなかった。返事を聞く前に隣に腰を下ろし、束の間、無言でいた園長は、やがて静かに口を開いた。
「あなたは、戸籍上、芙美夏先生のお兄さんだったそうですね」
「……」
 声もなく顔を上げる。何故それを知っているのかという戸惑いが顔に出ていたのだろう、小さく頷いた園長からすぐに答えが返ってきた。
「警察の方とのお話が、少し耳に入ったので」
「……そう、ですか」
「あなたのお父様は、芙美夏先生は娘のようなものだと、そう仰っていました。ですが……本当に世間でいうところの親子関係がおありだったんですね」
「……ええ」
「芙美夏先生は、自分は孤児で、身内はいないと言っておられた――あ、いや」
 眉根を寄せて園長の顔を見た淳也に、少し慌てたように言葉を繋ぐ彼の顔も、かなり疲労の色が濃かった。責任者である園長は、病院だけでなく、警察や役所などへのあらゆる対応に追われていた。マスコミも数社施設に押し寄せていて、ようやく先程病院に戻ってきたようだ。
「こんな時にこういう事を申し上げるのは不謹慎かもしれませんが、芙美夏先生に、こうして本気で心配してくれるご家族がいたことに、少しほっとしました。誰もいない者もいるんです。彼女がそうでなくて、よかった。大切な人達を残して、死んだりしません。きっと……芙美夏先生は助かります」
 そう口にする園長の声も、少し掠れていた。
「みいは……」
 ICUのドアを見つめたまま、淳也は渇いた唇を開いた。
「芙美夏は。……うちの養女でしたが、実質は二条家の養子のようなものでした。養家の、大人達の勝手な事情で、結局彼女には、居場所がなかった。いつも周りのことばっかり考えて、自分のことは二番目でも三番目でも、最後でさえなくて。初めから、自分の取り分があるってことを知りませんでした。大切な人を諦めて、突然、俺達の前から消えてしまった。ようやく……ようやく見つけたんです。みいは、やっと自分が本当に望むものを欲しいと言うことが出来たんです。それなのに、どうして……こんなことに」
 声を詰まらせる淳也の言葉を、城戸は、静かに聞いていた。
「意識を失うその直前まで、芙美夏先生は、子どもの……車の中にいた子どもの身を案じていました。彼女は結果的には大竹先生を助けましたが、あのまま車が園外に出ていれば、中にいた子どもや、それに他の誰かが、大事故に巻き込まれる可能性があった。彼女は、もう立派に先生なんです。もちろん、こちらの管理責任が問われることはわかっています。でも」
「いえ……今はとてもそんなことまでは。……それでその子は?」
「父親は、駆けつけた警察に逮捕されましたが。修一君は……ああ、その子どもですが、恐らく最初からちゃんと閉まってなかったんでしょう、急ブレーキの反動で開いた助手席のドアから外へ投げ出されて。……幸いな事に、擦り傷と打撲程度の軽症で済みました。あのまま、車内にいたままでぶつかっていたら……それを思えば、殆ど奇跡に近いと警察にも言われました。今は手当てを受けて、ちゃんと保護されています。あんなショッキングな出来事に巻き込まれて……けれど修一君は初めて……うちの園に来て、初めて口をきいたんです。事故の直後、芙美夏先生はまだ少し意識があって……駆け寄って縋り付く修一君に、気丈にも大丈夫だと、泣かないでと笑ってみせていた。彼から引き離されるまで、ずっとそうしていた。修一君は、芙美夏先生の手を取って泣きながら、何度も何度も、声を上げて先生の名前を、呼んでいました」


 夜半、ひと気の少ない病院の廊下に、靴音が響いた。
 ベンチに腰を下ろしたまま淳也が顔を上げると、功と、彼を連れてきた吉村の部下の岡田が、こちらへ向かって来る。立ち上がり、二人に頭を下げた。
「功、さん……」
 青ざめてはいるが、功の表情はどこかとても静かなものに見えた。
「ICUに入っているとは聞いてる。今、どんな様子だ」
 功の問い掛けに、目を逸らし首を横に振る。
「まだ……意識は、戻ってません」
「担当の医師から、話は聞けるか」
「直ぐに確認してきます」
「頼む」
 その言葉を受けて、看護師を探しに走る淳也の耳に、ここまで同行した岡田を労い、今日はもう戻るようにと指示を出す功の声が聞こえた。
 少しの間であれば、との返事を受けて、看護師に伴われ、功を医師の元へ案内する。
「香川芙美夏の婚約者の二条と申します」
 ドアを開け、頭を下げて名乗った功の声に、身体をそちらへ向けた担当医の眉が微かに上がる。
「そうですか、あなたが……」
 確かめるような視線を淳也に送った医師は、頷いた淳也から目線を功へと戻した。
「実は二条さんの実家からも、うちの院長に連絡がありました」
 言いながら、功に椅子を示す。功が腰掛けるのを待って、淳也は外で待っていると告げて退室した。
 暫くすると、医師の説明を聞き終えたらしい功が、看護師と二人戻って来た。
 こんな状況だというのに、功の表情は、やはりどこか凪いだ海のような静けさを湛えているように見えて。そのことが、却って普通でない精神状態を表しているようで気に掛かる。
「少し、会って来る」
 淳也の元に戻ってきた功は、そう告げて、手に持っていたコート、スーツのジャケットと鞄を淳也に手渡した。それらを受け取り、躊躇いながらも口を開く。
「功さん。みい……かなり酷い状態です。見ているのが、苦しいくらい」
「ああ」
 静かに小さく頷いた功は、隣で待つ看護師へと顔を向けた。
「宜しくお願いします」
 看護師に付き添われ、ICUの中に消えて行く功の後ろ姿を見送ってから、父に功の到着を伝えるために、移動した。
 通話を終えて、ひと気の無い薄暗い病院のロビーから外を眺めると、静かに降り続ける雪が、もうかなり積もっている。
 静寂の中、都会では考えられないような夜の闇から舞い降りてくる白い雪を見ながら、今あの部屋の中で物言わぬみいと向き合っている功の事を考えた。
 外の静けさは、まるで先程の功の様子を思い起こさせる。
 見つめるうちに吸い込まれてしまいそうな雪夜に、不意に足元が覚束なくなり、淳也は強く目を閉じた。

 功や芙美夏を――
 どうかどこにも連れて行かないでくれと、誰にともなく、心の中で縋るように祈った。

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