本編《Feb》

第五章 下弦の月3



  契約の調印、共同記者会見を滞りなく済ませた後、個別に入っていた所謂ビジネス誌や経済誌と呼ばれる雑誌の取材に対応し、それを終えると、すぐに用意された車でパーティ会場のホテルに移動する。
 来日していた契約先の担当者や役員だけでなく、今後業務に携わることになるであろう関係者や招待客を接待しながら、功は、それらをこなす自分を、どこか遠い場所から見ているように感じていた。
 なぜこんなところにいるのだろうか。ここでいったい何をしているのだろうか。
 何を考えるでもなく、自然と今日の予定を円滑に進めることに徹し、パーティではホスト役をこなし、時には笑みさえ浮かべながら、会話を交わしてみせている。
 その中身などなにひとつ、頭に入ってきていないというのに。
 何度も淳也に連絡を取ろうとした。けれど何かあった時に、まともでいられる自信がなかった。話し掛けてきた相手に笑顔で応対しながら、内心では焦燥感ばかりが募っていく。
 今日のフライトには、もう間に合いそうになかった。

 時刻が夜の8時に差し掛かろうかという頃、会場の入口の方がざわつくような気配があった。何事かと思い顔を巡らせると、そこに、スーツに身を包み車椅子に乗った永の姿があった。
 以前より痩せてはいるが、永の存在感は健在で、周囲の人々からはその登場に賞賛の声が上がる。
 驚いた顔を向けていると、永が功に向けて手を挙げた。車椅子を押す香川に目をやると、意味深に頷いてみせる。
 シュナイゼルノイン社の副社長が、彼はニジョーのCEOである二条永ではないのか、と功に問うてきた。
「そうです。私の父です。ご紹介しましょう」
 そう言って彼を伴い父の元に向かう。
『お身体の具合が優れないと伺っていましたが、もう、よろしいのですか』
 互いを紹介した後、声を掛けた彼の言葉を通訳する。だが父は、功を介さずとも流暢なドイツ語でそれに答えた。
『お互いの将来のためにも、是非ともお目に掛かりたいと思うと、居ても立ってもおれず、秘書に無理を行って病院から連れ出して貰いました』
 そう言って穏やかな笑みを浮かべる永に、副社長はいたく感銘を受けているようだった。
『私の……息子はいかがですか。少しはお役に立てそうでしょうか。まだまだ未熟者ですが』
『とんでもない。とてもいい取引が出来ました。彼と話し合う時間は、我々にとってもとても有意義な時間だった。契約上の問題も、互いに一番傷の少なくて済む方法で収拾して頂いた。当社の社長も、若いのに優秀だと。さすが二条のご子息だと感服しております』
 あながち嘘でもないらしい評価に、永の顔が綻ろんだ。
『実は、この息子の婚約者が、今日事故にあいまして』
 功は驚いて父を見つめた。
『それは……、大変な事だ。それで彼女は大丈夫なんですか?』
『今は予断を許さない状態なのです。ですので申し訳ありませんが、息子を下がらせても宜しいでしょうか。変わりにというのもおこがましいですが、私がホスト役を引き継がせて頂きます』
 副社長は功に向き合うと、その肩に手をやり抱き寄せた。
『あなたという人は……。すぐに行ってあげなさい。私たちは充分に歓待してもらいました。早く、婚約者の元へ』
 身体中から力が抜けそうになる。功は、父の顔を見つめた。やつれてはいるが、それでもこの会場の中で、一番力を、存在感を持っているのは間違いなくこの父だった。まだまだ、到底敵わない存在だった。
「父さん……」
「早く行け。充分よくやった。芙美夏の元へ行ってやりなさい。香川……」
 父が呼びかけると、香川が胸元からメモを取り出す。
「下に車を回しています。功様の荷物もそちらに。飛行機の手配は済んでいます。今すぐ空港へ向かわれれば、フライトには間に合うでしょう。現地では吉村の部下が待機しています。すぐに病院に」
 三人の顔を順番に見て深く頭を下げる。
「功……。芙美夏を、頼んだ」
 骨ばった手が、功の手を握り締めた。香川も、どこか縋る様な目で功を見つめて頷く。
「後の事はご心配いりません。スタッフへの命令も行き届いています。すぐに向かって下さい」
 功は、香川の声に頷く。
 そしてもう、後ろを振り返らず、会場を後にした。

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