ぼんやりと目を覚ましながら無意識に探る手が、目的のものを見つけられず、途端に目が冴える。
ベッドの中で重なるようにして眠っていた筈の芙美夏の姿が見えず、心臓に冷たい嫌な痛みが走った。
身体をすぐに起こし部屋の中を見渡すと、窓辺に立つ白い影が目に入り、ホッと息をつく。心臓の鼓動は、まだ落ち着きを取り戻していなかった。
時計を見ると、午前三時を少し回った時間だった。
あれから食事をルームサービスで取って、それからまた芙美夏と愛し合った。
部屋の中は空調がきいていて、恐らくは冷え込んでいるであろう外の寒さは感じられない。
窓辺に立つ芙美夏は、薄いサテンの膝丈のルームウエアを纏い、その姿がまだ深夜だというのに、どこか明るい外からの光にぼんやりと浮かんでいた。
床に落ちたバスローブはもう着れそうにない。纏っていた薄い毛布を身体に掛けベッドを出て、功は、そっと芙美夏の後ろに立った。
「眠れないのか?」
ガラスに映る功の姿に気が付いていたらしい芙美夏は、振り向かないまま答えた。
「目が……覚めて」
そっと後ろから肩に手を回して、毛布で包み込むように抱き締める。小さな肩に顔を乗せて、芙美夏と同じ角度で窓の外を見やりながら、前に回した手で、芙美夏の手を握り指先を絡ませた。
「雪……止んだな」
雪が降り止んだ夜の空は、澄んだ空気が張り詰めているように静かだった。その空を闇に留めてはおかない静謐な光を湛えた丸い月が、街を、この部屋の中を照らしていた。
「明るいと思ったら」
微かに頷く芙美夏の顔を月光が照らし、その美しさに功の心が絡め取られる。
「きれいな、――月」
呟いて、月に魅せられたように夜空を見つめる芙美夏を、しばらく黙って抱き締めていた。
「功さん」
「……ん?」
「本当はずっと、淋しかった?」
月に視線をやったまま、問いかける芙美夏の柔らかな頬に、頬を寄せる。
「淋しい?」
「小さな頃から、お母さんもお父さんも側にいなくて、淋しくはなかった?」
「ああ……子どもの頃のことか。正直言って、あの頃の自分がどんなことを感じてたのか、今ではほとんど覚えてないんだ」
「覚えてない?」
「そんなものだってどこかで思ってた気がする。気がついたら淳也が側にいて……香川の息子の割には、あいつの感覚はノーマルだったから」
クスッと小さく笑うそんな顔を、もっと見せて欲しいと思いながら、功は答えを続けた。
「あいつが、いつも側にいるようになって……それで上手く、バランスが取れてたのかもしれないな」
「……うん」
「芙美夏が来て、君の存在が大きくなって。……ああ、そうか。それからの方が、もしかしたら、淋しかったのかもしれない」
腕の中の芙美夏が、驚いたように顔を動かそうとしたが、話しながらその時の事を思い出した功は、まるで今その淋しさを抱えているような痛みを胸に感じ彼女の肩に顔を伏せた。
「功、さん?」
「側にいるのに……触れることは愚か、話す事さえままならなかった。いつか芙美夏が誰かのものになって、見ず知らずの他人みたいに別々に生きていくんだと思ったら、後はもう……俺には何も残らないって、そう感じてたよ、あの頃はずっと」
華奢な指が、功の手を強く握った。
「父や母に執着したことは、一度もない。けど、何でだろうな。芙美夏の事は、ずっと……欲しかった。欲しくて欲しくて堪らなかった」
本音を口にしながら、微かに苦笑いが浮かぶ。
「本当の事を言えば、淳也にもずっと嫉妬してた。何の縛りもなく君の側にいて、笑い合って、触れて。もしも淳也が君を愛したら、俺は、絶対に適わないっていつも思ってた。だから多分……無意識で何度も淳也を牽制してた」
功は顔を起こして、ガラス越しに芙美夏の顔を見つめた。
「呆れた?」
芙美夏の首が、横に振られる。そうして、やはりガラス越しの視線が返ってきた。
「初めて、功さんと会った時にね。淋しい目をしてるって思ったの。功さんの周りに、冷たくて固い膜があって、誰も寄せ付けない、なのに、触れて欲しいって、聞こえた」
「――え?」
「聞こえた、気がしたの。だから、いきなり触れようとして、怒らせてしまって」
その言葉に、いつでも功の心の奥にある傷が、ひりつく。
「ごめん。あの時の事は……後になって、死ぬほど後悔した。今でも、思い出すのが恥ずかしい。子どもだったんだ。何も見えてなかった」
初めて由梨江が芙美夏を功に引き合わせたあの日。
――功、美月が帰って来たのよ
小さな女の子の手を引いた由梨江が、そう言って微笑んだとき、功は驚くほど冷めた気持ちで二人を見つめていた。
美月と呼ばれた、その美月ではない女の子は、頬を赤くしながら恥ずかしそうにはにかんだ笑みを功に向けている。
だが功は、その子からすぐに視線を外してしまった。何も関心がなかった。
――ほら、お兄ちゃんよ、久しぶりで緊張してるの?
そう言って母に押されたその子が、大きな目で功を見上げた。
――おにい、ちゃん
まるで自分に言い聞かせるみたいに教わった呼び名で功を呼んで、おずおずと伸ばされた手が、功の手に触れようとした。
功は、気が付けばその手を振り払っていた。思いがけず大きな音がして、驚いたように強張った顔をしたその子が目に入った。
――ごめんなさい
泣き出すかと思ったその女の子は、消え入りそうな声で呟きながら、唇を噛んで俯いてしまった。
由梨江は功に何かを言って怒っていたが、功は胸に苦いものが込み上げて、ただこの場を早く立ち去りたかった。
あの時の事を思い出すたびに、苦さが胸に込み上げる。
悔やんでも悔やみきれない、そして二度と取り戻すことのできないそれが、芙美夏との生活が始まった日の朝の事だった。
「功さんは、気付いてないだけ」
芙美夏の柔らかな声が、功を現実に引き戻した。
――気付いていない?
問いかけるように、ガラス越しに芙美夏の顔を見つめた。
「あの時、私が伸ばした手を振り払った後、功さんの方が傷ついた顔をしてた。びっくりして泣きそうになったけど、私には功さんの方が、何だか泣きそうに見えた」
「……芙美夏」
「何でかな。小さい頃の私は、功さんの声が聞こえてる気がしてた。あれは……本当は功さんの声じゃなくて、私の声だったのかな。だから、功さんは本当はお母さんを求めてるって、ずっとそう感じてた」
芙美夏は、視線をまた夜空に浮かぶ月へと戻した。いつの間にかそこに微かに雲が掛かり、輪郭の一部がボンヤリと滲んだように光っていた。
「ママは……由梨江ママは、美月ちゃんのものだった。功さんのものでも、私のものでもなかった。でもママは。……本当は、功さんにちゃんと愛情を持ってたよ。どうやってそれを見せればいいか、わからなかっただけ。自分の悲しみに閉じこもって、世界を閉ざしてしまったけど、ママは功さんを……大切に慈しんで、お腹で育てて産んでくれた。功さんを愛してくれてた。ママは功さんの、家族だった」
「ああ。わかってる」
「私には、家族がいなかったから。家族を知らなかったから、家族がいるだけで幸せなんだって、御伽噺みたいにそう思ってた。小さな私にとって、家族は、ショーケースの中の丸くて大きなケーキみたいなものだったの。甘くて美味しそうで、食べたくてたまらないのに手が届かない。キラキラ輝いてて、あれを食べたら、きっと甘くてとても幸せな気持ちになれるんだろうって。だけど、二条の家に引き取られた時、功さんも由梨江ママも、それにパパも……皆が淋しいって、心が泣いてるみたいだった。甘くなんてなかった。それでも……やっぱり私には眩しくて。自分も家族の仲間入りが出来るって心が浮かれて。夢中で、しがみ付いてた。家族ごっこでも、何でも良かったの。本当は……功さんや、美月ちゃんが居るべき場所に、我が物顔で偽者の私が居座り続けて」
功はその言葉を遮ると、芙美夏に言い聞かせるようにはっきり、耳元で言葉を紡いだ。
「母さんは、芙美夏を大切に思ってた。死ぬ間際に、俺に芙美夏を託した。最後に口にしたのは、俺の事でも美月のことでもない。芙美夏、君の事だったんだ」
月に吸い込まれそうに、芙美夏の目が大きく見開かれる。その瞳を月の光から遮るように、功は手のひらで芙美夏の両目を覆った。瞼か微かに震えて、功の手に温かい涙が落ちる。
「それを恨めしく思ったりしたことも、羨んだことも一度もない。俺が……母さんを許した瞬間だった。それまで、許してなかったって気が付いた瞬間だった。芙美夏、君が、父も母も俺も……俺たち家族を救ってくれたんだ。小さな君が、俺たち家族を愛そうと必死でしがみついてくれたから、俺たちは皆、きっと救われたんだよ」
芙美夏の身体をゆっくりと反転させ、胸の中に閉じ込める。
「月にまで嫉妬させないで。芙美夏、俺を見て」
腕の中の愛しい存在が、功を見上げた。頬を伝う涙を、指で拭う。
「芙美夏に根っこがないなら、俺の上に根を張って。ここが、君の居場所だ。きっと嫌な思いもさせる。それでも、もう君を離すことはないから。絶対に一人にはしないから。だから、芙美夏。俺と……本当の家族になってくれないか」
芙美夏の瞳からまた大粒の涙が溢れ出た。
「ほんと、の……家族?」
「そう。本当の家族だ。二条芙美夏になって。ずっと、俺を満たし続けて」
「こう……さん」
「返事は?」
額を合わせて、涙を湛えた瞳を見つめながら、微笑む。やがて目を閉じた芙美夏の顔が、縦に揺れた。
「ああ……」
思わず安堵の声が漏れる。芙美夏の手を取ると、自分の心臓にあてた。その鼓動の早さに、芙美夏の目が少し見開かれる。
「こんなに、緊張するものなんだな」
目の前の泣き顔に、微笑みが浮かぶ。笑った頬を伝い、また涙が零れて落ちた。芙美夏の手が功の手を取ると、それを彼女は柔らかな膨らみに宛がった。そこも、功と同じくらい、鼓動が早くなっていた。
「誘ってるのか?」
わざと意地悪く囁く。恥ずかしそうに首を横に振りかけた芙美夏は、それを途中で止めて、功の目を見つめた。そうして小さく、けれどはっきりと頷いてみせた。
功の瞳から笑みが消えて、途端に欲望が顔を覗かせる。
「芙美夏……まだまだ、全然足りてないんだ。わかって煽ってる?」
芙美夏の瞳も、違う色で濡れていた。
「私も……全然功さんが足りない……もっと、欲しい」
どちらからともなく、唇を寄せた。また、濃密な空気が部屋を支配し始める。
「もう一度、好きって言ってくれないか」
唇を離さないまま、濡れた頬を両手で掴みそっと呟く。芙美夏の目が、功を愛しそうに見つめた。
「……功さんを……愛しています」
泣きたくなるような、愛しさが込み上げる。
やっと手に入れた宝物を取り込んで離さないように、飲み込むように、夢中で唇を貪りながら、功は芙美夏の身体を抱き上げベッドへと運んだ。
月はもう雲に隠れて、その輪郭を完全になくしボンヤリとした光だけ湛えていた。