小さな固い音に反応し、身体がビクッと動き目を覚ました。いつの間にか、芙美夏のベッドに伏せて眠ってしまっていたようだ。
身体を起こした功は、音の正体を探るように辺りを見回し、床に転がったビー玉を見つけた。椅子から腰を上げてそれを拾い上げようと屈み込んだ時、不意に違和感を覚え、ベッドに眠る芙美夏へと視線を向けた。
その正体を見極めるようにじっと凝視していると、見つめる視線の先で、白い指がピクリと動いた。
息が止まりそうになりながら、慌てて枕元に駆け寄る。無理矢理閉じられた目を開こうとするかのように、芙美夏の目蓋が震えていた。
「ふみか……芙美夏っ」
咄嗟に肩を掴もうとした手を直前で握り堪えて、すぐにナースコールを押す。対応した看護師が「すぐに参ります」と答え、ほんの僅かの間を置いて、慌ただしい気配と共に医師とスタッフが病室へと駆け込んできた。
「芙美夏っ」
「香川さん、香川芙美夏さん」
医師と功の呼び掛けに、芙美夏の目蓋が、少しずつ開いていく。焦点の合わないない瞳を眩しそうに細め、身体を動かそうとして顔を顰めている。
功は、その様子をただじっと、固唾を呑んで見守っていた。
「うごかないで。あなたは、大けがを負ったんです」
医師が、しっかりと理解させるように、繰り返しゆっくりと大きな声で、身体を動かさないようにと言いきかせている。
重たそうな瞬きを何度か繰り返し、ボンヤリと部屋の中を彷徨った芙美夏の瞳が、ベッドの足元に立つ功を捉えて止まった。魂が抜けたような瞳に、灯りが点るように光が射していくのがわかる。
ゆっくりと閉じた眦から涙が流れ落ち、もう一度それが開かれた時、芙美夏の瞳は迷うことなく功を見つめた。
「彼のことがわかりますか?」
はっきりとした口調の医師の問いに、視線を逸らすことなくしっかりと頷き返す芙美夏を見ながら、功は、いつの間にか詰めてしまっていた息を、ようやく深く吐き出した。
「芙美夏……」
名前を呼ぶ声が震えて、気持ちが高ぶる。
「……ぅ…」
擦れて上手く音にならない声でも、芙美夏の唇が、功の名を呼んでいることはわかった。
医師が尋ねる事に頷き、返事を繰り返すうちに、少し擦れてはいるが芙美夏の声が聞こえるようになっていく。
「……修一……君は?」
その無事を確認して安堵した芙美夏を診ていた医師は、これからしばらく検査が続きますが、と言いながら、まずはひと通りの診察を終えて、功と芙美夏を残し部屋を出て行った。
「何かあればすぐに呼んで下さい」
そう告げて病室を後にする医師やスタッフに頭を下げていた功は、ゆっくりと顔を上げると、後ろを振り返った。絡んだ視線をいっときでも逸らしたら、今が夢になるのではないかと思えて、じっと芙美夏を見つめながらそばへと近付く。
視線を絡み合わせたままで、功は、芙美夏の手をそっと握った。昨日まで何の反応も示さなかったその手が、功の手を握り返してくる。
「――芙美夏」
もう一方の手を伸ばし、涙で湿った頬に触れる。痩せてはしまっていたが、それでも温かい頬だった。芙美夏が、その手に擦り寄るように顔を傾ける。功は、手のひらに寄せられた頬を親指の腹でそっと撫でた。
「こ……う」
「……ああ」
「ほんものの、功の、手?」
「……ああ。そうだ、本物だ」
答えながら、芙美夏に顔を寄せてそっと口づけた。
「本物だ」
涙の味がする唇から離れて、そこを親指で拭う。
「ずっと……。ずっとね……幸せな夢を見てた。……お母さんがいて、由梨江ママがいて……美月ちゃんもいるの。柔らかくて暖かい……真綿に包まれてるみたいな場所で、フワフワして気持ちよくて……そこに、功もいて」
「……俺も?」
芙美夏の瞳が、まるでその心地良い場所に引き戻されるように、細められた。
「芙美夏」
重い目蓋をもう一度持ち上げて、功へと、どこか必死でしがみつくような視線を向けた芙美夏の指に、力が込もっていく。
「でも、功……触れても、温かくなかった。指先も、唇も……全部冷たいの。私の名前も、一度も呼んで、くれなくて。そうしたら、さっきまで感じてた幸せな気持ちが、全部消えてなくなって……。違うって。美月ちゃんが、私のいる場所は、ここじゃないって。……早く、帰れって。だから私、ずっと、ひとりで……本物の功を、必死で、探してた」
繋いでいた手を離した芙美夏は、頬に添えた功の手にその手を重ねて、指先を絡めてきた。力を込め過ぎないように、指を絡め返す。
「あたたかい……」
目を閉じた芙美夏の頬を、涙が伝い落ちていく。
「芙美夏の居場所は、ここだ」
絡めた指先を口元に引き寄せ、手のひらにキスを落として。功は、その手を自分の頬に添わせた。
「間違えずに、戻って来てくれて……よかった」
声が震えてしまい、力を入れてひき結んだ唇に、芙美夏の指先が触れる。
「約束したから……。もう、功を置いて行かないって。私……不安にさせて、ごめんなさい」
熱くなった目蓋を閉じると、堪えきれずに涙が零れ落ち功の頬を濡らしていく。
誤魔化すように微笑んだ功は、それでも、確かめるように縋るように。ずっと芙美夏の手を握り、何度となくそこに唇を当てていた。
* * *
そこは、暗くて冷たくて、恐ろしい場所だった。
何故だろうか、この場所を知っている。ここは、死よりも孤独な場所だ。
前へと進もうとしていた足が、鉛のように重くなる。独りにしないと言ったのに嘘つきと、誰かを責める自分自身の声が、耳鳴りのように響いている。
自分の一部が欠けたような感覚に、心も身体も切り刻まれるような痛みを感じていた。
何かを――。決して失くしてはならない何か大切なものを置き去りにしてでも、その怖さと孤独と寒さから逃げ出したくて、後ろを振り返った。
偽物でも、いるべき場所じゃなくても。母や由梨江や美月がいたあの場所に早く戻りたい。ここに居るのは嫌だ。暖かくて幸せな場所に、一刻も早く戻りたい。
ここまで歩いてきた道を引き返そうと、一歩足を踏み出そうとしたその時――。
不意に、左の手のひらが温かくなった。確かめるように強く握り締めてみると、小さな丸いものに指先が触れる。そこから身体に、空気に、熱が伝わり、少しずつ周囲が明るくなっていく。進むことを諦めようとしていたその先を、光の道筋が照らしている。向かうべき場所が、そこにあるのだと指し示すように。
……か
ふみ……
ふみか――
光の向こうから、誰かの名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
ああ……あれは、私の名前だ。
その声が聞こえる方へ必死で手を伸ばそうとすると、不意に光の束が瞳に飛び込んで来て、その眩しさに目の前が真っ白になった。
眩しさに少しずつ慣れてきた目に、ボンヤリとしていた像が形を為して映る。目の前で名前を呼んでいるのは、白衣を着た見知らぬ男性だった。
確かに聞こえていたはずだと、探していた人を求めて視線を彷徨わせる。そうしてその人を見つけた瞬間、身体が息を吹き返した気がした。
幻でないことを確かめるように、一度閉じた目を恐る恐る開くと、そこに芙美夏の全部が乞う人がいた。
身体に血が通い、体温を取り戻す。空気を感じて息を吸い込み……吐き出す息と共に、瞳から零れた滴が、頬を濡らすのを感じていた。
* * *
「芙美夏、少し待ってて」
静かな時間が流れ、やがて互いに少しだけ落ち着きを取り戻すと、そう言ってそっと手を離した功が芙美夏の側から離れていく。重なった手の温もりが離れたその瞬間、芙美夏の胸に、小さな痛みが走った。
ソファに置いた鞄に手を入れた功が、しばらくするとベッドサイドへと戻ってくる。その手に握られたものに気が付いて、芙美夏の胸がまた熱くなった。
何も言わずに差し出されたそれを、ギプスを嵌めていない方の手を伸ばして受け取る。
手触りを確かめるように、柔らかなベージュの起毛をそっと撫でた。何度手放しても戻ってくるそれは、芙美夏の宝物――熊の顔をかたどったポーチだった。
柔らかな毛を撫でた手に固いものが触れて、膨らみのあるその感触を不思議に思いながら、功を見上げる。
「ファスナー、開けてみて」
微笑みを浮かべて芙美夏を見つめた功が、熊のポーチの端を握る。芙美夏は、片手でファスナーを開けると、その中に指を入れてみた。指先が、しっかりとした硬い作りなのにどこか柔らかな手触りの小さな箱に触れる。取り出したそれを見て、芙美夏は小さく息を呑んで功を見上げた。
芙美夏の手から小箱を取り上げた功が、目の前で箱の蓋を開いて見せる。中から、繊細で美しいデザインを施した指輪が現れた。
「指は、多分痩せただろうから、サイズはまた調整する」
そう言って指輪を台座から取り出す功を、芙美夏は言葉もなく見つめる。
「本当は、芙美夏が東京に来た時にオーダーするつもりで、デザイナーを呼んでたんだ。バタバタしてて断るのを忘れてたから、病院から戻った翌日に彼女が訪ねてきた。いつかきっと……必ず君にこれをはめることができる時が来るって……そう信じて、祈りを込めて作って貰ったんだ。芙美夏……はめてもいいか?」
声もなく頷きながら、差し出す指先が震える。優しくそれを片方の手に乗せた功の指先が、芙美夏の薬指に、そっとリングを滑らせてゆく。
根元まではめ込んだリングを満足そうに見た功が、顔を上げて芙美夏に問いかけた。
「それ、何のデザインだかわかる?」
夢を見ているようなふわふわとした気持ちのまま、手を翳した芙美夏は、指にはめ込まれた指輪をじっと見つめた。見つめるうちに、そこに隠された形が顕になっていく。
「……うそ……みたい」
呟く声が震える。
「一生溶けない。これでいつでも、二人で一緒に見ることが出来るだろ」
小さな、一ミリ程度の幅しかない細いリングに、美しい雪の結晶が連なっている。
「きれい……」
光にかざすと、小さな結晶達は本物の雪のように繊細に輝く。溶けない雪の結晶が、少しずつボンヤリと霞んでいく。顔をクシャっとゆがめた芙美夏は、片手で功の腕を握り締めその身体を引き寄せ、首元に縋りついた。
「功……」
背を屈めた功が、優しく抱き締め返してくれる。
「気に入った?」
「……一生、大切にする」
何度も頷きながら答える。
「いいけど、俺の次にして」
笑いながら呟いた功は、芙美夏の身体を離すと、唇を重ねそのまま額を合わせた。
目の前にある愛しい人の瞳が切なそうに揺れて、絞り出すような囁きが、芙美夏の耳に届く。
「芙美夏……。生きてここに戻って来てくれて……ありがとう」