本編《Feb》

第五章 有明の月2




 功は少し考えてから、口を開いた。
「咲ちゃんも、この間ケガをしたんだよね?」
 頷きながら城戸の顔を見上げた咲は、彼が頷き返すのを見て、額と髪の毛の境目に手を当てた。
「あのね……ここ、おっきなたんぶこが出来たの。たくちゃんにね、押されたから転んだの。血が、いっぱい出たんだよ」
「そうか。もう、痛くない?」
「うん、痛くない。ふみかせんせいがね、フーフーって、してくれたよ」
「芙美夏せんせいは、咲ちゃんが痛いのに頑張ってお医者さんの言うこと聞いて偉かったって、褒めてたよ」
 嬉しそうにはにかんで咲が笑う。
「咲ちゃん、怪我した時、たくさん泣いた?」
 咲の顔が少し恥ずかしそうなものになり、功を上目遣いで見て小さく頷いた。
「怪我をしたら、みんな痛くて泣くんだ。大人でもそうだよ」
「ほんと?」
「本当。我慢出来ないくらい痛い時は、園長先生や、僕も大声で泣く」
 えー、と言いながら、今度は楽しそうな咲の笑い声が響いた。
「芙美夏先生は、痛くて痛くて大人でも我慢出来ないくらい、大きな怪我を身体中にしたんだ」
「咲、知ってるよ。先生が言ってたもん」
 園長の手を揺らすと、その手を離して功に一歩分だけ小さな身体が近寄る。
「咲ちゃんは怪我した時、よく眠れた?」
 少し首を傾げて返事が戻ってくる。
「うん……」
「眠ってる時は、痛かった?」
 その問いには、じっと功を見つめてから、目をキョロキョロさせた。
「……わかんない、だって、寝てたもん」
「そうだね。眠ってたら、痛いのわからないよね。芙美夏先生の怪我は、大人でも大声で泣き叫ぶくらい凄く痛い傷だから、たくさん眠って痛いのわからなくしないと、芙美夏先生はずっと痛い痛いって泣いていないといけなくなる」
 納得しているのかどうかわからない風に首を傾げた咲を見つめて、言葉を続けた。
「ずっと泣いてたら、かわいそうだろ?」
「うん……。じゃあ、どれくらい? ふみかせんせい、どれくらい寝たら泣かないの?」
「僕にも、わからない。誰にもわからないんだ」
「ふぅん……」
 咲は功と芙美夏の眠るベッド、そして城戸を順番に見回した。こんな説明で納得はすまい、と功は少し苦笑いする。
 そして、本当に痛みが治まれば芙美夏が目覚めてくれないかと、自分の稚拙な思いつきに縋りたくなった。
 気がつけば、咲がじっと大きな黒めがちの瞳で、功を見つめている。
「……お兄ちゃん、淋しいの?」

 小さな声でそう口にした咲を見ながら、既視感を覚えたかのように、功の時間が、一瞬過去へと巻き戻った。
 功を見上げる真っ直ぐな咲の瞳が、初めて出会った時の芙美夏と重なる。
 功を見つめて、手を差し出した芙美夏と――。
 不意に、言いようのない感情が胸に込み上げて、そのまま床に膝を付いた功は口を手で覆った。熱い塊が迫り上がり、気が付けば堪える間もなく、嗚咽が漏れた。
 顔を覆う手を涙が濡らしていくのを感じ、自分自身でもひどく戸惑っていた。
 それを目の当たりにしている咲の戸惑いも、顔を伏せたままでも伝わってくる。
「……おにいちゃんも、どこか痛いの?」
 少し上ずった声が聞こえ、小さな手が髪におずおずと触れる。城戸が、咲の背丈に合わせるように屈みこむ気配がした。
 俯き、耐えようとしても止まらない涙を抑えようと唇を噛む功の耳に、二人の会話が聞こえてくる。
「咲。芙美夏先生はね、この人のお嫁さんになるんだよ」
「ホント?」
「ああ。お嫁さんになるはずの先生が、大怪我をして、ずっと眠ったまま起きてくれないから、とても淋しいんだよ。この人も……大怪我をしてるんだ」
「どこに?」
「ここだよ。目には見えないけど、この中に。咲ならきっと……わかってあげられるよ」
 城戸と咲の二人のやり取りをどこか遠くで聞きながら、功は涙を拭い、少しずつ呼吸を整えた。
 その時――。
 小さな手が、子どもをあやすように功の頭を撫でた。何度も何度も、柔らかく繰り返されるその動きに。
 功は目を強く瞑り、ただじっと、その小さな手の慰めを受けていた。
 瞼の震えが収まり、静かに息を吐き出す。そうしてゆっくり顔を起こした。
「ありがとう……痛くなくなったよ」
 咲に笑いかける。微笑みながら功を見つめた城戸にも、恥ずかしく思いながら頭を下げた。
 それから、照れたように身体を動かしながら笑う咲に手を伸ばす。
「咲ちゃん、お願いがあるんだ。芙美夏先生にも、いい子いい子って、してあげてくれる? きっと僕みたいに、痛くなくなると思うから」
 咲が大きく頷いた。伸ばした功の手のひらに、咲の小さな手の温もりが触れる。
 そっとそれを握りしめて抱き上げると、その高さに嬉しそうに笑う咲の声が、耳に、心地よく響く。
 あの時拒絶した芙美夏の手を、ようやく、受け止めることができた気がした。

 ベッドサイドに立って、芙美夏を見下ろす。包帯は殆ど取れているため、管が繋がっていなければ、その顔は今にも起き出しそうに見える。
「ふみかせんせ……どこが痛いの?」
 咲は、芙美夏を少し恐々と功の腕の中から見やりながら、ちょうど同じ目線の功に問いかける。功は後ろに立つ城戸に顔を振り向けた。
「少し見せても構いませんか」
 確認してから、屈んで芙美夏に掛けている薄い掛布を捲る。前開きの入院着を着せているが、身体のあちこちにまだ管を留めるテープやガーゼ、固定のためのギプスなどがはめられている。
 驚いた咲は、功に強くしがみ付いた。すぐに掛布を元に戻して、抱えた身体を揺すり顔を覗き込む。咲は、もう一度そっと芙美夏の方に視線を戻した。
「ごめん。びっくりさせたね。でもね、これは芙美夏せんせいの怪我を治すために、必要なものなんだよ」
 何か言いたげに功に視線を止めた咲の顔に、少しずつ力が入っていくのを感じた。
「ふみかせんせい……痛いの?……せんせ……死んじゃう?」
 か細く尋ねながら、泣き出しそうになる咲に、功は困ったように城戸を見遣った。
「少し驚いたんでしょうね」
 言いながら彼が咲に手を伸ばすが、咲は、首を横に振って功から離れようとしない。
「せんせいは、死なない。死んだりしないよ」
「ほん、と?」
「ああ」
 この子が、人が死ぬと言う意味をどれだけわかっているのかは、わからない。だが芙美夏から、咲は彼女と似たような境遇の子どもだとは聞いていた。
 小さな咲は、もう知っているのだ。大切な人がいなくなることを。そこにいるべき人がいない悲しさを。
「芙美夏が怖い?」
 口を強く結びそれを否定した咲を、そっと床におろす。
 咲は手を伸ばすと、眠る芙美夏の頭をそっと――。力を入れないようにそっと、と気をつけているのがわかる強さで撫でた。
 撫でながら、功を見上げる。微笑んで頷き返すと、咲はもう一度芙美夏に向き直り、掛布を捲りギプスをまいた腕に、おずおずと手を伸ばした。
 そこに、柔らかく手のひらを乗せるのがわかる。そうして、指先だけでギプスをなぞると、そこに顔を近づけて小さな口から息を吹き掛けた。
「いたいの、いたいの飛んでけ……」
 何度も腕に囁きかけながら、芙美夏の身体に息を吹き掛ける咲を見つめ、功の胸の中が切なくも温かくなる。
 優しく頭に手をのせた功は、視線を上げた咲をそのまま抱き上げて、恥ずかしそうに顔を傾けて笑う咲の頭をもう一度撫でた。
「ありがとう……。きっと芙美夏の痛いの飛んでいったよ。咲ちゃんのお蔭で、きっと、元気になるよ」

 病室を出て行く二人を見送りながら、功はとても久しぶりに、心が少し軽くなっているのを感じた。
 咲の姿が見えなくなるまで手を振って、ベッドで眠る芙美夏の元に戻る。捲れたままの掛布を直そうとして、手を止めた。
「ビー玉……?」
 芙美夏の手のひらの上に、少し欠けて鈍く光るガラス玉が置かれていた。

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