本編《Feb》

第五章 有明の月1



 東京に戻ってからの功は、しばらく、北海道に向かう時間もほとんど取れなかった。
 和美からの報告と、そして香川が二条の名で手を回し、病院からも直接功の元に報告が入るように手筈を整えていたため、芙美夏の現状だけは常に把握できる状況にある。
 未だ意識が戻らず一進一退を繰り返している芙美夏の容体に、事故から二週間を経た今も、毎日心が浮き沈みする。
 仕事を何とかこなしているのは、同じ心痛を抱えながら、功をも支えている淳也のお蔭だった。
 意識しようがしまいが、常に心の大部分は、芙美夏に占められていた。
 芙美夏が意識を取り戻すことなく過ぎ去ったこの二週間、功がギリギリの時間をやりくりしてどうにか二度ほど、藍を伴った淳也が一度、そして香川も何度か病院の芙美夏の元を訪れていた。
 けれど、タイトなスケジュールや面会時間の制限のため、ほんのわずかな滞在時間で、皆、東京に戻っていた。

 しばらくは多忙で東京を離れられない日々が続き、功が再び病院に顔を出すことが出来たのは、芙美夏の容体が一定の安定した状態になり、ICUから個室に移って五日程たった頃だった。
 病院に到着するとすぐにまずは医師の元を訪れ、経過の詳細を尋ねる。
 事故から一か月近く経とうとする中、意識が戻らない原因がよくはわからない事。こういう状態では実際のところ、明日目を覚ますのか、半年先なのか、それとも目覚めぬままなのか、見通しを立てるのは困難なのだとの報告を受けた。
 病室へと向かい、部屋のドアをノックする。
「どうぞ」
 中から和美の声が答えた。
「ああ……功様でしたか」
 ドアを開けると、ベッドの向かいに置かれたソファで編み物をしていた和美が、それを置いて立ち上がる。
「先生の話を聞いてきた」
「そう、ですか」
 静かに頷いた和美の視線を追って、ベッドサイドへと足を向けた。
「随分、傷は綺麗になったな」
 眠っている芙美夏を見下ろして、頬にそっと触れる。
 擦傷や腫れはかなり治まり、身体も、いくつかの管に繋がれてはいるが、包帯やガーゼに隠された部位は事故当初より随分と少なくなっていた。
「ええ。お医者様も、顔に傷は残らないだろうって」
「ああ、よかった」
 手を離すと、隣に並んだ和美へと視線を向けた。
「和美も疲れているだろう。明後日まではいられるから、一度東京に戻るといい」
「ですが……功様の方がお疲れでしょう。ほとんど、お休みになっていないと聞いています」
「俺なら大丈夫。今はどっちにしろあまり眠れない。忙しい方が気が紛れるんだ」
 笑みを見せながらそう答えた功に、和美が気遣うような表情を浮かべた。
「それでは、芙美夏ちゃんが心配します」
 静かに、物言わぬ芙美夏に視線を向けて、「そうだな」と呟くようにそれだけを答えた。

 東京には戻らないが、少し買い物に出掛けてくるという和美が病室を出て行ったその午後遅くに、部屋のドアをノックする音がした。
 和美から、今日園長の城戸が園の子どもを連れて来ると聞いていた。扉を開けるとやはり城戸が立っており、右手を小さな女の子と繋いでいる。
 功が出てきた事に、二人が驚いた表情を浮かべた。
「おみえになってたんですね……どうしようかな」
 最後は、自問するように呟いている。
「和……芙美夏の母親から聞いています」
 そう答えると、城戸と功の顔を交互に見ている女の子を見つめる。
「この子、ですか? 芙美夏の」
「せんせ……だあれ?」
 少し恥ずかしそうに、囁くような小さな声で城戸に尋ねる女の子の仕草に、思わず笑みが零れた。
「咲ちゃん、ですか?」
 もしかして、と思い城戸に問いかける。
「よくご存知ですね。芙美夏先生からですか」
「ええ。ですが、今の状態でいいのですか」
 小さな子どもを、意識の無い、そして身体中に傷を負っている芙美夏に会わせる事は、ショックが大きいのではないかと心配になる。
「何度も言って聞かせたのですが。どうしても会いに行くと言って聞かない。先日とうとう園を抜け出して、一人でここに向かおうとしたんです。大騒ぎになって。普段はとても大人しい子なんですが……」
 功は、困ったような顔で苦笑いしながら咲を見下ろす城戸から、俯いてモジモジしてる咲に視線を移し頷いた。
 部屋の中に入ってもらうと、咲の視界にもベッドが入ったらしく、城戸を見上げた。
「ふみかせんせ、あそこで寝てるの?」
 城戸が答える前に、功は咲の目の前に屈み込んだ。
「そうだよ。芙美夏せんせいは、あそこでずっと眠ってる」
 突然話し掛けられて驚いたように城戸の脚に隠れた咲は、だがしばらくすると、好奇心を抑えられないように、チラチラと功に視線を送り始める。城戸が何か言おうとするのを目線で制して根気よく待つうちに、身体が少しずつ脚から離れてきた。
「咲ちゃん」
 興味が警戒心を上回るタイミングを待って、もう一度、声を掛けてみる。どんな表情を向ければいいのかわからないような顔をして、咲が少し首を傾げた。
「今は咲ちゃんが呼んでも、芙美夏せんせいは返事をしてくれない。けれど、きっと聞こえてるから。だから、頑張れって、言ってあげてくれるかな?」
 澄んだ瞳が、こちらを窺うようにじっと、上目使いで見つめている。 
「ふみかせんせい、どうして起きないの?」
 やがて咲は、小さな声で、けれど初めて功に向けてそう問いかけた。

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