本編《Feb》

第五章 上弦の月7



 翌日、淳也は午前中にやって来る和美と入れ替わりに、東京へ戻ることになっていた。功も明朝には一度、帰京しなければならない。
 そんな中、夕べ一度病院から離れていた園長と大竹が早朝から顔を見せた。
 功を見て少し驚いたような表情を浮かべた園長の城戸は、昨日から続く事故処理の対応のため一睡もしていないらしく、深い疲労の色をその顔に滲ませていた。
「芙美ちゃんはっ……」
 大竹も目に見えて憔悴しきっており、功を見た途端、縋るようににじり寄ってくるのを、城戸がその腕を捕らえて制止した。
 朝から来院する患者の診察で、昨夜とは打って変わってざわめいている病院の中で、ここだけは変わらず静かなICUの待合室に、二人は空港に経つ前の淳也を探して訪ねて来たらしかった。
 功を紹介しようと、口を開きかけた淳也を遮るように、城戸が声を掛けてきた。
「失礼ながら、二条、功さんでいらっしゃいますね」
「ええ。そうです」
 二人を見つめながら、功は、恐らくはこちらも相当疲れた顔をしているのだろうと、朝方洗面所で顔を洗った時の鏡に映っていた自分の顔を思い出していた。
「以前チャリティーパーティの席で、お姿をお見かけしました。芙美夏先生は、二条家の恩人のようなものだと、香川さんのお父様からも伺っていますが。それで、あなたがここに?」
 自身のことも簡単に名乗ってから、疑問をぶつけるように問い掛けて来た城戸は、そう口にしてから思い出したかのように「――あ、こちらの者は」と、腕を掴んで支えている大竹を紹介しようとした。
「いえ、大竹さんとは、面識があります」
「……ああ、そうでしたか」
 自分の言葉を遮った功をしばらく見つめてから、城戸は、どこか合点がいったように小さく頷いた。
「私は、香川芙美夏の婚約者です」
 続けた言葉に、城戸は目を見開き、下を向いたままの大竹はピクリと身体を揺らした。
「そう……でしたか。それは……この度は、私どもの管理不行き届きでこのようなことに」
 改めて頭を下げて詫びようとする城戸の言葉を、功は再び遮った。
「今は、あなたや園の事をどうこう言うつもりはありません。彼女が子どもを守る立場にあることは、私もわかっているつもりです。大竹さん、あなたも苦しいでしょうが、正直言って、今の私にはあなたのことを思い遣る余裕はありません」
 城戸に答えながら、顔を大竹に向け、最後は彼に向かってそう告げる。
「……だろ」
 ゆらりと顔を顔を上げた大竹は、虚ろな目をして何かを呟いた。
「大竹先生」
「俺がっ……みっとも無くいつまでも芙美ちゃんに纏わりついて、あんな嫌がらせまでしておきながら芙美ちゃんに助けられて……何で、俺なんかを……俺が、死ねば良かったんだっ、あんただってそう思ってるんだろっ、そう言いたいんだろっ、だったらそう言えよっ」
「やめなさいっ」
 涙と涎を流しながら、力無い腕で頭を掻き毟りその腕を功に伸ばして叫ぶ大竹を、城戸が叱責し、引き戻す。
「嫌がらせって、あなた芙美夏にいったい何を」
 硬くなった淳也の声にも反応せず、大竹は城戸に抱えられながら嗚咽を洩らすだけだ。
「その事には、どうか今は触れないで」
「そう思ってるよ」
 城戸に向けていた視線を大竹へと移した功は、二人の遣り取りを遮るように、言葉を投げつけた。驚いたように功を見つめる城戸の視線を感じながら、大竹を冷めた目で見つめる。
 嗚咽を堪えるように唇を噛み締めた大竹が、ゆるゆると顔を上げた。
「どうして、お前じゃない? どうして芙美夏があんな目にあってる? そう思ってると言えば満足か、そう言えば芙美夏の痛みが消えてなくなるのか? そんな事くらいで芙美夏が救えるなら……そう言えば芙美夏の代わりにお前が傷を負うなら、いくらでも、心から本気でそう望んでやる。けれど今、傷を負ってあの部屋で眠っているのは芙美夏だ。死ねば良かった? 間違えるな、芙美夏は生きてる。お前の苦しみは、お前が自分で引き受けろ」
 大竹の顔が強ばり、荒い息を吐きながら身体を支えていた城戸からその身体を引き離した。強い眼差しで功を睨み付けるように見て、涙と唾液に濡れたその唇を開こうとしたその時――。
「もう、やめませんか」
 静かだが厳しい城戸の声が、響いた。
 部屋の中に、大竹の吐く息だけが聞こえる。功は、無意識に握っていた指を解くと、そっと小さな息を吐き出した。
「申し訳、ありません」
 頭を下げて、誰の顔を見ることもなく待合室を出ていく。淳也が慌てて後を追ってきたが、功は振り向くこともなく、ICU前のベンチへと戻り、そこに沈むように腰を落した。
「功さん……」
「大丈夫だ。みっともない真似をした」
「いえ、……あの男、なんですね」
「自分が愛した女が、自分のために死の淵を彷徨ってるんだ。あいつがどれ程苦しいか、それくらいは俺にだって想像はつく。ここで過ごした五年の間、確かにあの男も、芙美夏を支えてきたんだ。けれど……あの男のために、芙美夏が命を危険にさらしていると思うと、どうしても許せないと思う自分がいる」
 頭を抱えるように座り込む功の口から出る言葉を、淳也は黙って聞いていた。

 椅子に座ったまま、さっきからもう口を開くことのない功を、時折伺うように見つめながら、時間の感覚もどこか曖昧だった。
 もうどれくらいこうしているのだろうかと、淳也が時計を確かめようとした時、病院の廊下をこちらに向かってくる人影が見えた。
 顔を向けると、淳也が初めて目にするほど青ざめた表情をした和美が立っていた。
「淳也」
「母さん……」
 功も、わずかに顔を上げる。
「美月ちゃんは――」
 動揺してか、以前のままの呼び方で芙美夏を呼んだ和美を、淳也は立ち上がり、少し離れたベンチに座らせた。
 昨日からの状況を報告する淳也の腕を何度も強く握り、衝撃を鎮めながらその話を聞いていた和美は、そのまま病院に残り、淳也は功の指示を仰いでから、東京へと戻って行った。
 午後の面会時間の間に、和美と功がICUに入り芙美夏と対面した。和美は、怪我の酷さに動揺していたが、功に支えられて何とか立っていた。
 面会を終えて少し時間が経つと、ようやく和美にらしさが戻ってくる。病院の近くにマンションを借りる手筈を香川が整えており、しばらくの間、和美は腰を据えてこちらに滞在することになっていた。
 芙美夏のおかれた状況と自分のすべきことを把握してからの和美は、落ち着いて事態に対処する腹を括った様子だった。

 翌朝まで病院にいた功は、あとの事を和美に頼んで、まだ外来受付も開かない早い時間に出立した。
 立ち去る前に、変わらず静かに眠る芙美夏の顔を見てから、重い足を引き摺るように迎えの車に乗り込み、空港へと向かう。
 心だけは、芙美夏の元に置いたままで――。


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