本編《Feb》

第五章 下弦の月6



「淳也」
 落ち着いた声色の功の呼びかけに、淳也はその顔を上げた。
「俺は、芙美夏に約束したんだ。もう、絶対に独りにはしないって。俺も、約束させた。もう一人で消えたりするなって」
 虚空を見つめ、静かに語る功の横顔を、淳也は瞬きもせずに見つめている。
 口角をあげ、口元に柔らかな笑みを浮かべた功を見て、淳也がハッと目を開く様子が、視界の端に映った。
「俺は。……その約束を、守るから」
 言葉の意味を咀嚼するかのように、淳也は、ゆっくりと瞬きをした。
「何……を、功さん、何、言ってるんですか」
 功は、静かに目を閉じると、背中を壁に凭れかからせた。
「みいはっ、生きてます」
「……ああ」
 目を瞑ったまま、答える。
「生きようと今、必死に闘ってる」
「……わかってる」
「なのに何でそんなこと言うんですかっ……功さん、何で、そんな……」
 激昂しかけた淳也の声は、次第に小さな震えを伴い消えていった。
「そうだな。……悪かった」
 目を開けて、淳也の方へと顔を向けた。
「知ってたか、淳也。俺は、臆病なんだ」
 目を赤くした淳也を、小さく笑みを浮かべて見つめる。
「芙美夏を、失う事には耐えられない。向き合ったら、怖くて息も出来ない。芙美夏は生きてる。祈って……救いを求めて、助かる事を信じないといけないのはわかってる。でも……不安で堪らない。あんな風に、たったひとりで……もしも芙美夏が、いってしまうような事があったら。……ひとりでいかせるつもりにはなれない。約束した。約束したんだ。そう思っていれば……何も出来ずに、ただ待っているだけのこの時間だって耐えることが出来る」
「功、さん」
「お前は、よく知ってるだろ。 あいつを失った俺が、どんなに駄目な男か。多分俺よりも、知ってるはずだ」
 赤い目をしばたくと、淳也は、睨みつけるような強い瞳で功を見つめた。
「嫌って言う程……知ってます。だから、こんな功さんを置いて、みいは……、絶対にひとりで逝ったりしません」
 願うように縋るように、強く言い切る淳也の言葉を聞きながら。功は、何も言わず、もう一度笑みを浮かべてそっと目を閉じた。

 永遠にも思えるような時間が過ぎ、看護師に指示を与えながらICUを出てきた医師が二人の前に足を止めた。
「先生……みい――、芙美夏は」
 表情を変ることなく、軽く頷いた医師が口を開く。
「先ほど、血圧が急激に低下して、一時的に心肺停止の状態に陥りました」
 淳也が息をのむのを感じながら、功は、口を噤み医師を見つめた。
「すぐに蘇生を行ったので、呼吸の止まっていた時間はごく短時間です。今はもう比較的安定した状態に戻っています。ただ今回の事故と手術での出血の量はかなり多いですし、頭を強打している影響も懸念されます。術後の合併症についても厳重に看視しています。まだしばらくは予断を許さない厳しい状態が続く可能性が高い。ひとまずは、今夜から明日に掛けてがひとつの山場になるでしょう」
 青ざめた顔で頷く淳也に、医師は頷き、功に顔を向ける。
「どうされますか。今晩はこちらにおられますか、もしもそうであれば、待合室がありますので案内させます。今夜は今のところありませんが、ここは、二四時間体制で緊急患者の搬送を受け入れている。急患が運ばれてくれば、騒がしくなります」
「では、そうさせてもらいます。どうか……芙美夏を宜しくお願いします」
 立ち上がると、ただそうすることしかできず、医師へと深く頭を下げる。それに頷いて、立ち去ろうとした医師を功は呼び止めた。
「少しでも構いません。もう一度彼女に、会わせて貰えませんか」
 尋ねた功を見つめながら、しばし竣巡していた医師は、僅かにそれとわかる程度に頷いた。
「ほんの五分程度でしたら。ただ、明日からは、深夜の面会は難しいと思っておいて下さい」
 簡潔にそう答えると、隣にいた看護師に指示を与えてから足早にその場を立ち去っていく。
 先ほどと同じように消毒液を使い両手をしっかりと消毒し、マスクとガウンを着用してICUに通される。芙美夏の眠っているベッドに近づくと、脇にいる看護師に声を掛けた。
「少しの間だけ、こちらの手を握っても構わないでしょうか」
 功を見つめた彼女が頷くのを待って、無傷な方の手を取り、そっと手のひらに乗せた。さっきより僅かに温かい気がして、その手を両手で包み込む。力を入れないように握り締めた手は、今は握り返してくることのないされるがままの状態で、芙美夏の意志を何も伝えてはくれなかった。
 こうして握っていれば、少しでも芙美夏と交じり合わないだろうか――。
 そんな馬鹿げたことを考えながら、功の手のひらと同じ温もりを共有するようになったその手をゆっくりと元の場所に戻す前に、そっと指先に唇を落とした。
 立ち上がり、屈み込んで耳元に顔を近付ける。
「芙美夏……。忘れないでくれ。俺は、君をもう離さないと決めてるんだ」
 小さく囁き掛けて顔を上げた。芙美夏は、瞳を閉じたまま、変わらず小さな呼吸を繰り返している。この呼吸が一瞬でも止まっていたのだと思うと、全身がそれを拒絶するように小さく震えた。
 もう一度芙美夏の手を取り、そっと持ち上げて自分の頬に当てる。そこに看護師がいるのにも構わずに、手のひらに刻み付けるように言葉を発した。
「間違えたりするな。戻るのは、俺のところだ。愛してる……。ずっと一緒にいるんだろ」
 応えない手を静かに元の位置に戻して離すと、立ち上がり、若い看護師に頭を下げた。真摯な眼差しで功を見つめ返した彼女は、ただ静かに頷いた。
 眠っている芙美夏に背を向けて、部屋を出て行く。
 功は口元を手で覆うと、顎に力を入れて奥歯をぐっと噛み締めた。そうしなければ漏れ落ちそうになる声を堪える。
 身体が闇に飲み込まれ、足元が抜け落ちそうな恐怖を感じていた。

 功がICUを離れて暫くしてから、機械の数値を記録していた看護師が、顔を上げた。
 数値には、大きな変動はないようだ。足元から順を追って視線を送り、患者の様子を伺う。そうしてその顔を見つめて、小さくマスクの中で呟いた。
「涙……」
 

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