機械の音がやけに大きく耳に響いて聞こえる部屋の中で、功は、それに合わせるように微かに上下する芙美夏の胸を見つめていた。
指先に機器をはめていない手の傷のない指に、そっと触れる。冷たいこの指が功の身体にしがみつき、しなやかな芙美夏の身体を何度も愛したのは、たった10日ほど前の事だ。甘いその唇が、功を愛していると告げたのも。
誰よりも近くにいる芙美夏に、もっと親しげに名を呼んで欲しいと、最初はほとんど強迫めいたやり方で呼ばせたその呼び方も、少しずつ間違える事なく呼べるようになっていた唇は、今、色を変え、触れることのできない透明なマスクに覆われている。
もう独りにしないで――
そう振り絞るように願った芙美夏の小さな声が、今も功の耳の奥に響いている。
指を止めて顔を上げた功は、そっと芙美夏に微笑みかけた。
* * *
功がこちらに到着してからも、社内外を問わず何件もの連絡が入ってきている。功の手を煩わせないようにと、淳也が、己の裁量で処理できるものについては、担当者や部署の責任者、秘書室と連絡を取り、功の確認を取ることなく指示を返していた。
功自身、こちらに向かう道中、余程の緊急案件でない限り、社内の業務については直属の部下である藤原に回すよう手配していた。それでも、取引先からの連絡やアポイント依頼、それ以外にもどうしても功の決済を必要とする事案もあった。
ICUから出てきた直後の功にそれを伝える淳也は、こんな時に仕事の話を持ち掛けなければならない事を、唇を噛んで詫びている。
「構わない。ここでは迷惑になるな。電話やパソコンを使っても差し支えない場所はあるか」
共に薄暗い静かなロビーへ移動すると、淳也が携帯を取り出し、どこかに連絡を入れた。誰もいないロビーに、淳也の声と、それに応答する相手の微かな声とが聞こえる。
その遣り取りを聞くともなく耳にしながら、功は、ぼんやりとガラス越しに見える外の景色を見ていた。
ふと、鮮やかな赤色が目の端に入り、そちらへと顔を向けた。入口周辺にめぐらされた生け垣の一部に、鮮やかな実を湛えたナナカマドの木が植えられていた。そこに何かを捉えた気がして、近づいてガラス越しに目を凝らす。じっと見つめるうちに、赤い実の上に綿のように降り積もった白い雪が、重なり合ったいくつもの小さな美しい結晶からできているのだと気が付いた。
「功さん」
呼ばれた声に振り返ると、申し訳なさそうな顔をした淳也が、携帯を差し出してくる。
「すみません。松本です」
「ああ」
手を伸ばして受け取ったはずの手のひらから、電話がするりと滑り落ち、床に落ちる音がロビーに響いた。
「功、さん」
ゆっくりと視線を落とすと、泣きそうな顔で携帯を拾い上げた淳也と目が合う。
「やっぱり……無理です。何とかこちらで」
「淳也。10分したらこちらから掛け直すから、稟議書と資料をアップデートするよう指示しておいてくれないか。PCの準備も頼む」
「わかり、ました。……功さん? どこに行くんですか」
力の抜けた指先を握り締めた功は、淳也の問い掛けを無視したまま、ドアを開けて表に出た。肌を切るような冷気が身体に纏りつくが、今はその方がよかった。
夜空を見上げると、闇の中から白い雪が次々と舞い落ちてくる。ジャケットに積もった雪を見ると、そこにも、沢山の雪の結晶が重なり合っている。
あの日、芙美夏が功に見せたいと言っていた雪の結晶は、嘘のように美しく繊細で、夢みたいに儚かった。そっと指先で触れてみると、ほろほろと剥がれるように崩れ、やがて溶けて形を失くしてしまう。指先の熱に溶けた雪が水滴に変わるのを見つめながら、白く長い息を、大きく吐き出した。
喉元に何かが込み上げてきて大声で叫び出したくなるのに、言葉は、何も出て来ない。
顔を下げて足元を見ると、靴の先にも雪が積もっていた。地面に靴を当ててそっとその雪を落とすと、そのまま踵を返した功は、心配そうにこちらを見ている淳也の横を通り抜け、トイレの洗面所で顔を洗った。
ロビーに戻ると、何か言いたげな淳也から目を逸らし、担当者に連絡をとりながら繋がったパソコンで至急の案件を処理していく。頭が妙に冴えていて、仕事はあっと言う間に片付いた。
急ぎの連絡があれば構わないから回すようにと淳也に告げて、ロビーの椅子から立ち上がり、ICUの病棟へと戻る。
ちょうど詰所に差し掛かった辺りで、慌ただしくそこを飛び出そうとする看護師と鉢合わせた。ICUの方が騒がしくなり人が出入りしている。
背中を、嫌な感覚が這い上がった。
「今お二人を呼びに行こうかと。患者さんの容体が急変して」
「――え」
隣に並んだ淳也の顔が、青ざめた。
「緊急処置中ですので、部屋の外でお待ちになって下さい」
「急変って、どうなってるんですか、みいは今」
「後で医師からお話があると思いますので」
言い置いて、その看護師もICUへと走って行った。
「……つかまえたはずなのに」
ポツリと、呟いた功を一瞥した淳也は、けれど言うべき言葉を見つけられずに、結局は二人して無言のままベンチに腰を下ろしていた。
しばらく口を噤んでいた淳也が、強く握り締めたために色の変わりかけた手を、ゆっくりと開いて見つめた。
「みいは……死んだりしません。生きて、俺たちの……功さんの所に戻って来ます。絶対です」
その手で伏せた顔を覆った淳也の、喉から絞り出したような声が耳に届いた。