ベッドサイドの絞られた明かりだけを灯した部屋で、こちらに背をむけたまま、ベッドに腰掛けて窓の外を見つめている功がいた。気が付いているだろうに振り向かない後ろ姿から視線を逸らして、芙美夏は、ゆっくりと足を進めベッドの横で立ち止まった。
見つめた窓の外に、ぼんやりとこの部屋の景色が浮かんでいて、その向こうに白い雪が舞い落ちていく。今夜、満ちるはずの月の輪郭は、まだ見えなかった。
「月が……」
気が付けば声に出してしまっていた。
「……ん?」
月明かりの元で、功に抱かれるのは苦しい。できればこのまま、その姿を隠したままでいて欲しい。
「月が、何、?」
「ううん、何でもないの」
きっとわけがわからないであろう功に、笑みを浮かべてみせる。
「――こっちへ、来て」
座っている功から、手が伸ばされる。躊躇ったのはほんの一瞬だけで、側へと近付くとその手に手のひらを重ねた。
引かれるままに、功と向かい合うようにベッドサイドに立つ。
目を伏せた功は、芙美夏の腰を引き寄せ腹部に柔らかく頭を寄せた。そこから、身体を震わせるようにくぐもった声が、もう一度芙美夏を乞う。
「全部、俺のものにしていい?」
胸を打つ鼓動が強くなり、息が、上手くできない。
「……私」
「もう待たないって言った。俺が、どれだけ芙美夏を求めているか教えてやる」
「功さん……」
「芙美夏がどれだけのものを俺に与えてくれているか、君は何もわかってない。君が自分が誰だかわからないっていう過去も、何も持ってないっていう過去も、俺にとっては……価値があるんだ」
「……え?」
伏せられた功の口から語られる言葉が、芙美夏を戸惑わせた。
「その過去が、俺と君とを引き会わせてくれた」
息が止まりそうになる。
その瞬間自分の身体に芽生えた感情を、何と呼べばいいのか。いつの間にか止めていた息を吐き出そうとした時、功の顔が腹部から離れ芙美夏を見上げた。
「俺は、最低な人間なんだ。芙美夏をこんなにも苦しめている過去を、君をそんな目にあわせた奴らを心の底から憎みながら、どこかで……自分のためにそれを歓んで受け入れてる。君がもしも、あのモデルや見合いの相手なら、きっとこんなに惹かれたりはしなかった。君だから……芙美夏だから大切なんだ」
胸の深いところにずっと存在していた重石のようなものが、確かにひび割れる音がした。
「意味が……あるの? 私があんな風に生まれてきたことにも、生きてきたことにも、意味がある?」
どこかが壊れたように、涙が溢れて零れ落ちていく。
「あるよ、俺にとっては意味がある。君と出会わなければ、二条功っていう人間は、きっと死んだように生きてた」
「……ほんとうに?」
功の表情が、柔らかくなる。
「そうだよ芙美夏。だから、俺のそばにいて、俺をもっと欲しがって。夢なんかじゃない。ほら……」
その手が、芙美夏の手を取り功の頬にあてた。触れた頬も添えられた手のひらも、温かい。
例えこの人の中でだけであっても、価値がある人間だと、ここに居る意味があると、その温もりが教えてくれている気がした。
「芙美夏以外の人を、欲しいと思ったことは一度もない。君だけでいい。君しか……いらない」
「功さん……」
芙美夏の涙を拭うために伸ばされたその指は、微かに震えていた。苦笑いするように、功が問いかける。
「わかるだろ、俺の指、震えてるって」
その瞳をじっと見つめた。
「どうして?」
口を開きながら、もうその瞳から目を逸らせない。逸らしたくない。瞬きをする間も惜しかった。
「君に触れるときはいつでもこうだ……馬鹿みたいにドキドキする。壊したくないのに、滅茶苦茶にしてしまいたくなる自分と闘ってる。君だけが……。芙美夏だけが、俺をこんな風にするんだ」
震える功の指先に手を添えると、芙美夏はそれを自分の唇へと導いた。指先に唇を当てて、目を閉じる。今のこの想いを伝える言葉を、自分の中に見つけられなかった。
「……にして」
小さく呟く声が震える。聞こえていたはずの答えを、もう一度確かめるように功に見つめられているのを感じる。
瞳を開いて、自分を救い出してくれた大切な人を見つめた。
この人と溶け合って、自分がなくなっても構わない。その熱で、壊して欲しい。
「――滅茶苦茶に……して」
息を呑んだ功の瞳が、スッと細くなる。芙美夏を見つめるその目が、欲望を露わにした深く暗い色に変わった。背筋をゾクリと何かが這い上がっていく。
冷たくさえ聞こえる低い声が、芙美夏に命じた。
「バスローブを、そこで脱いで。芙美夏の全てを、見たい」
その声に、瞳に、身体の芯に熱が灯る。焼かれるような羞恥に顔が熱くなる。けれど、抗いたいとは思わなかった。
流石に顔を見つめているのは、恥ずかしすぎて、目は逸らしてしまう。バスローブの紐に手を伸ばすと、指先が震えそうになるのを深く息を吸って堪えた。
抜けそうになる力を指先に入れて、ぎこちなく紐を解く。
じっと芙美夏を見つめている視線を、嫌というほど意識してしまう。床に、バスローブの落ちる音がやけに大きく聞こえる。
「……綺麗だ」
功の掠れた声がして、その手が、素肌に触れた。