「由梨江の入院中も、私はなるべく時間を見つけては病院に通った。何度も何度も妻に侘びた。今更だが、やり直したいと告げた。何度か入退院を繰り返し、由梨江がようやく落ち着いてきた頃、由梨江が子どもを身篭った。それが……美月だった。
由梨江に懐かなかった、いや、懐けなかった功と由梨江の間には、いつもどこか緊張があった。功は、小さな頃から人を圧倒する何かを持っていた。存在感――そういうものを不思議と生まれながらに持っている子どもだった。精神的にも大人になるのが早かった。
美月が無事に産まれ、由梨江は美月を溺愛した。私も、美月が可愛かった。可愛くて、由梨江と二人、どんなことも好きにさせていた。
功には、そうはいかなかった。後継者は、どこか預かり物のようなところがある。立派に育て上げて、当主になるに相応しい人間にしなければならない。結局は、私もこれまで繰り返してきたことをなぞるように、功を育てていた。
だが、功は兄や私とは違った。素質があった。プレッシャーに押しつぶされるような子どもではなかった。自然、私たち夫婦は美月を子どもとして扱い、功に対してはどこか大人を扱うように接していた。
けれど……美月は、たった六歳で、事故で亡くなってしまった。由梨江の錯乱ぶりはもう見ていられないほどだった。どうにもならず、強制的に入院させた。
だが、半年振りの一時帰宅の時、由梨江の表情は輝いていた。症状もとても落ち着いていて、私は戸惑った。医者から聞いている様子とは随分違っていたからだ」
永の視線が、芙美夏を真っ直ぐに捉えて頷いた。
「そうだ。君を見つけたからだ、芙美夏。由梨江は私に、美月が見つかったと告げた。愕然としたよ。それを話す由梨江の顔には、生気が満ち溢れていた。
訳もわからないまま、私は香川を呼んで事情を聞いた。由梨江はすぐにでも美月を迎えに行くと言って聞かない。どうすればいいだろうか。そんな話をしていると、ふと香川が、君が孤児らしいというようなことを口にした。
その時、私と香川は同じことを考えた。あの時私が考えたのは、これで由梨江が救えるかもしれない。そして、私も、解放されるかも知れない……。そんな、ことだった。このまま由梨江が永遠に狂気の中で生きていくのかと、その先を考えると私は絶望的な気持ちになっていた」
永は、その時の絶望感を思い出したかのように、眉間に深い皺を寄せ、苦しげな息を吐いた。
あの時の芙美夏にとっては、目の前に幸福が舞い降りたような、永遠に見ていたいあたたかな夢の中にいるような、由梨江との出会い――。
背景に何があったのかを知った今、目の前の人の苦しみを映し取るかのように、芙美夏の胸にも、息が詰まるような痛みが呼び起こされる。
「私が……考えたのは、自分達のことだけだった。君を、美月の代わりに引き取っておきながら、後のことは全て香川に任せた。
私までが、君を美月として扱ってしまったら、亡くなった美月が可哀想だ。だから、私にとって君は……自分の娘として扱ってはならない子どもだった。君の……小さな君の人生を、少し考えれば分かるようなことも、見えない程、思いやれない程、私は、ひどく疲れていた」
目をしばたくと、顔を隠すように永は、片手で額を抑えて俯いた。歯を食い縛る口から嗚咽が漏れ、顎を伝い落ちた涙が、寝間着に広がっていく。
それでも、永は口を開き、息を嗚咽と共に吸い込むと、声を絞り出した。
「すまない……私は、……由梨江を、愛していたんだ。初めて会った時から一目で……。愛していたのに、全てを間違ってしまった。そして、そのツケを君に、小さな君に背負わせた。すまない……すまなかった、……許して欲しい。私が、全部……」
芙美夏を通して、まるで、もうここにはいない由梨江に許しを乞うかのような、喉の奥から絞り出される永の声が、胸に迫り苦しい。静かに涙を流す永の、心の内にある慟哭が聞こえる気がした。
永の抱えてきた孤独や苦しみ、そしてどうしようもない悲しみが、伝わってくる。
胸が、酷く痛い。永のことを、責める気持ちにはならなかった。
芙美夏は、立ち上がると永の背中をゆっくりと繰り返し擦った。そうして、片手に顔を埋めて身体を震わせる永の、もう一方の手を握りしめた。
その手が、縋るように芙美夏の腕を強く握り締める。何度も何度も嗚咽の合間に、すまない、という言葉を繰り返しながら。
病室の中を静かに満たしていた嗚咽が少しずつ収まり、しばらくすると、永の手の力が緩み、芙美夏からゆっくりと距離をとった。
タオルを手渡すと、永は疲れた顔に少し照れたような苦笑を浮かべ、顔を拭い、ティッシュペーパーで鼻を拭った。
「お水、飲みますか?」
「ああ。確かに喉がカラカラだ」
静かに笑った永は、冷蔵庫に入っている飲み物を所望した。
「君も、飲むといい」
そう言われて、芙美夏は初めて自分も喉が渇いていることに気が付いた。
「わたしも、カラカラです」
グラスを手渡しながら微笑む。
「すまない。……君のような若いお嬢さんに縋って泣くなんて。みっともない所を見せた」
疲れてはいるが、どこか、憑き物が落ちたように見える永は、本来のこの人はこんなに穏やかな人だったのかと思うほど、芙美夏の知っている永とは違って見えた。
それだけ、幾重にも強固な鎧を纏っていたのだ。そうやってこの人は、自分の家族と自分自身を犠牲にして、二条を支えてきたのだ。
「君に、赦してもらったと勘違いしている訳ではない。ただ、勝手に重荷を背負わせた上にすまないが、功の出自については、功には一生話さないで欲しい。あれは、私と由梨江の息子だ。それでいい」
「はい」
しばらく窓から秋口の空を見つめたあと、永は、サイドテーブルに手を伸ばし、引き出しから一通の封筒を取り出して芙美夏に差し出した。
「それから、これを」
永の手から、少し色褪せた封書を受け取る。
「これ、は?」
「君が置いて行った由梨江の財産は、全て貸金庫に納めてある。いつでも必要な時に香川に連絡をしなさい」
「でも、あれは」
「それを、読んでみなさい」
永の視線が、芙美夏の手元にある先程の封書を見つめた。
「由梨江から、君への手紙だ。美月ではなく、君自身、芙美夏への手紙だ」
頭が、グラリと揺れた気がした。
「君が手紙とカードを私に送ってくれた後、ようやく……由梨江の部屋を、整理した。何故そこにあったのかその経緯はわからず仕舞いだったが、彼女の部屋の引き出しからそれが出てきた。私は、自分がこんな状態になるまで、それを君に渡す事を躊躇っていた」
言われた言葉の意味が掴めず、呆然と手元をみる。再び永に顔を戻すと、ゆっくり頷きながら芙美夏を見守るような表情を浮かべる。
もう一度手紙に視線を戻すと、芙美夏は、震える指先で、そっと便箋を取り出した。