「歴史と伝統の中には、光と闇がある。例えば香川の家などは、元を辿れば二条家の暗部を荷なう一族が祖先だ。今では表立って二条を支える地位にあるが、歴史を紐解けば、香川家はその存在さえ表舞台からは消されていたこともある。勿論ずっとずっと昔の話だ。今は香川でさえ、多くは知らないだろう。そんなふうに、影で二条の為に生きることを強いられた一族や親族がいたんだ。
その多くは、時代と共にその意義がなくなり、形を変え、いつの間にかその事を知るものも少なくなった。時代も変わった。私は、当主だけが知るそういうこの家の歴史の裏側を、功に伝えるつもりもない。
由梨江が、三人目の子を流産したあと、体調や精神的な負担もあって、私たちは暫く夫婦として寝室を共にすることはなかった。そんな時、ある日私は父から呼び出された。訪ねたその場所には、父と共に、若い女性がいた」
「……え」
話の成り行きと、そして嫌な予感に、思わず声を上げていた。戸惑いながら、縋るような目で永を見ている芙美夏を、酷く疲れた表情の永が見つめた。
「父は私に、この女が由梨江の変わりにお前の子どもを産むとそう告げた。私は愕然とした。愛人を持つつもりはないと拒む私に、父は重ねて言った。彼女が産んだ子どもは、お前と由梨江の子どもとして育てる。この女の後の面倒をお前が見る必要はない。むしろ見てはならない。そして、このことは……由梨江も承知していると……そう言われた」
「そん、な……待って下さい。まさか」
話の行き着く先を感じた唇が小さく震える。何度も否定するように首を振る芙美夏の耳に、静かな、永の声が届いた。
「そのまさか、だよ。芙美夏、功は、由梨江とは血が繋がっていない。私は、最終的には、その女性に自分の子どもを」
気が付けば芙美夏は口元を手で覆い、首を何度も横に振りながら、洩れるそうになる声を堪えていた。
「すまない。君にこんな話を聞かせてしまって。私を、軽蔑しても、罵ってくれても構わない。当然のことだ。ただ、君には、功のことは、知っていて貰いたいと思ったんだよ」
手渡された少し消毒剤の匂いがする柔らかなタオルを顔にあてながら、芙美夏は訳もわからず、首を縦に横に振って、永の言葉に応えようとしていた。
全てを諦観するかのような、静かな永の声が、淡々と言葉を紡ぎ出していく。
「さすがに私も、父のそのやり方には嫌悪を覚えた。その場でそれを拒絶した。それなのに……どうしてそんな事になってしまったのか。
私は、由梨江との間に子どもが出来さえすれば問題は解決すると躍起になった。由梨江の事を気遣いもせずにね。だが、そんな私を、彼女が拒絶した。それはどこか、神に弄ばれているようなタイミングだった。丁度その頃、香川から初めて、結婚しようと思ってる人がいると聞かされたんだ。
私の中では、直ぐに由梨江の態度と香川の結婚が結びついた。香川の結婚はカムフラージュだと耳打ちしたその人間を、私は信用などしてなかったというのに、悪魔の囁きのようなその言葉だけは、本当だと信じてしまった。由梨江が父の話を承諾したのは、それほど香川に気持ちがあって、もう私を受け入れることが出来なくなっているからだと、そう思えた。
そうして気がつけば、私は……その女性と関係を持ってしまっていた。信じて貰えないかもしれないが、本当にきっかけも、何故、どうやって彼女と会うようになったのかも何も覚えていないんだよ」
永の口元には、自嘲するように微かな笑みが浮かんだ。
「その女性が身籠った時、私は、決して許されることのない罪を抱えた。自分の愚かさに、死んでしまいたいとさえ思った。そしてそこから、由梨江にとっても地獄のような毎日が始まった。その子どもは、彼女が産まなければならない。由梨江は、それからの日々を、妊婦として過ごした。
由梨江がその話を承諾したのは、自分が子どもを望めないかもしれないという罪悪感をずっと抱えていたからだ。彼女には、それを拒むことができなかったからだ。そうだったと、私はそれを、全てが終わった後で知ることになった」
「……っどい……そんなの」
身体が震えて、搾り出すように声が漏れた。
「そうだ、許されない。周囲のお祝いの声に笑いながら応え、自分のお腹に話かけながら、由梨江の心が少しずつ壊れていくのがわかった。当然だ。誰でもそうなる。何もかも、自分が引き起こした事態なのに、私にはもうどうすればいいのか何もわからなかった。言い訳にしかならないが、そうしている間も、会社の仕事や問題は山積みで、いっ時も気を抜くことが出来ない状態だった。それに、当主である父が書くだけは書き上げたシナリオを残して突然亡くなってしまったのもこの頃だった。
そんな私を、仕事とはいえ献身的に支えたのが香川だ。ようやく香川が見えるようになってきて、私は、自分が何かを大きく間違ってしまったんじゃないか、そう気がついた。それを認めたくなかった。恐ろしかった。認めてしまえば、私に見えていたことが全て違う意味をもってくる」
その時、永の呼吸が、少し大きくなっていることに気がついた芙美夏は、涙を拭くと立ち上がり、そっと背中を撫でた。
びくっと身体を震わせた永が、驚いたような目で芙美夏を見上げる。
「もう、無理をしないほうが……」
芙美夏の腕を緩く掴んだ永は、首を横に振った。
「大丈夫だ。君がもう聞くに堪えないと思ったのなら、このまま部屋から出て行っても構わない。だが、最後まで話を聞いてくれるのなら、私は、まだ話が出来る今のうちに、全てを話してしまいたい。次が、確実にあるとは限らないからね」
芙美夏は、少しでも永が楽な姿勢を取れるように、枕の位置を調整した。そして椅子をより永のいる方へと近づけて座りなおした。
「最後まで、聞いています」
永は目を瞑り、小さく、ありがとうと呟いた。
「私は、香川に正面から問うた。そして、二人の間にそういう気持ちがなかったことを知った。由梨江はずっと以前から和美を知っていたし、香川や和美に私のことを相談したりもしていた。ずっと、私のことを案じていたと、そう聞かされた。ショックだった。私の周りには、由梨江のことを、いや、後藤家の露骨なやり方を認めない人や、私が当主になることを面白く思わない人間がいた。由梨江に取って代わり当主の妻の座を狙おうと、私に近付き取り入ろうとする者もいた。
だが私はそんなことに関わりあっている余裕などなかった。自分が立派に当主を務めさえすれば、そういった者達を黙らせることが出来ると甘く考えていた。
当時、由梨江が本当は妊娠していないことを知っていたのは、父と、父に付いて長くこの家に仕えていた使用人頭の女性、そして子どもを身篭った女性と、掛かりつけの医師だけだった。香川でさえ、そのことを知らずにいた。
私は、全てを香川に打ち明けた。香川に……殴られたのは、後にも先にもあの時だけだ。そして香川は、私の犯した過ちを自分も一緒に引き受けると言った。誰にも、和美にも決して口外せずに墓場まで持って行くと誓ってくれた。
あれは……そういう事が出来る男だ。生まれてくる子どもには、罪はない。その子を、私と由梨江の子どもとして、当主の重荷に負けない子どもに育てていこうと、約束した」
病室のドアの外にいる人へと、永が寄せる信頼の深さが、言葉の隅々から伝わってくる。
そしてまた、そうまでして香川が永に忠実でいるのも、決して義務感からだけではないのだと、芙美夏は感じていた。
「功を産んだ功の本当の母親は、驚くほどあっさりと子どもを手放した。父との間に、どのような約束がなされていたのか私には分からないままだったが、私と居るときも、子どもを宿している間も、ほとんど感情を表に出すことのない女だった。子どもを産んだ後、黙って使用人頭と姿を消してしまった。生活の心配がないことは私も知っていたが、父が連れてきたのも、もしかしたら二条の家の影を引き受けてきた者たちの末裔だったのかもしれないと、今でも思っている。
私も彼女を探したりはしなかった。ひどく勝手な言い分だが、余計な火種を抱えてしまう気はなかった。私は、今度こそ由梨江とちゃんと向き合いたいと自分勝手に思っていたんだ。
だが、功が生まれた後、由梨江はとても子どもを育てられるような精神状態ではなかった。今更止めることは出来ない。産後の肥立ちが悪く、気持ちも不安定だと周囲にはそういう理由にして、彼女を入院させた。その後の功と由梨江の関係については、君も、耳にしたことがあるだろう」
芙美夏は、淳也から聞いていた、幼い頃の功と由梨江の話を思い返していた。そして、微かに永に頷きかけた。