本編《Feb》

第四章 立待月7(雨月)

 

 突然の問い掛けに、戸惑いを覚えながら考えてみる。
 二条の家の中で10年以上の月日を過ごした芙美夏には、それがほんの少しだけわかる気がした。
 気の遠くなる程続いてきた由緒ある家柄と守られて来た伝統、大きく成長していく会社と、そこに関係する人々。その歴史と未来を背負う重心が二条家の当主なのだ。
 その空白は、求心力を低下させ守ってきた歴史と守るべき未来の崩壊を招きかねない。そしてそれは、恐らくはそのために犠牲になった多くの人々への裏切りにもなるのではないだろうか。
 芙美夏は、小さく頷いた。
「ほんの、少しなら」
「そうか。君の意見を、聞いても構わないかな?」
 まさかそれを求められるとは思ってもいなかったので、わかると言ってしまったことを後悔した。顔を赤くして答えに詰まる芙美夏を、何を言っても呆れたり笑ったりしないから言ってみなさい、と永がせっつく。
 芙美夏は、つかえながらも何とか、先ほど頭に浮かんだ事を言葉にした。
「それに……」
「それに?」
 笑みを浮かべ、微かに頷きながら聞いていた永が、躊躇う芙美夏に先を促した。
「それに、お兄様に対する後ろめたさ、みたいなものが」
 言ってしまってから、永の表情を見て、はっとした。芙美夏を見つめる永の顔から笑みが消えていた。
「す、すみません。私、わかったような事……ごめんなさい」
 頭を下げて謝る芙美夏の耳に、永の深い溜息と「顔を上げなさい」という声が聞こえた。けれど、恥ずかしさに視線を上げることが出来ない。
「まったく君は。……君という人には呆れてしまうな」
 言葉の内容にしては、どこか柔らかな口調に、思わず顔を上げる。笑みを浮かべ目を細めて芙美夏を見ている永がいた。
「まあ、95点だな」
「え?」
「君の答えの点数だ。あとの5点は、そうだな……私のプライドと、意地と諦めだ。君は、ずっと功をそばで見てきた。だからその重さも分かっているんだな」
 功の名前に、指がピクリと動くのを感じて、誤魔化すように握り締める。永の唇がわずかに弧を描いたように見えた。
 微かに頷いた永は、再び話の続きを語り始めた。

「兄の婚約者だった黎子さんは、兄をひどく嫌っていてね。もともと意に沿わない婚約だった上に、兄はあのとおりで当時から女性にもだらしがなかった。由梨江と違って行動力があった黎子さんは、黙って親の言いなりになることをしなかった。他の男との間に既成事実を……まあ、要は子どもを作ってしまったんだ」
 永の口元に、苦笑のような微かな笑みが束の間浮かぶ。
「もちろん、表立っては別の理由で黎子さんと兄との婚約は破棄された。由梨江の実家である後藤家としては、娘の不始末の汚名を返上するため、今度は妹の由梨江を兄の婚約者に、と考えたようだった。そこへ、うちの方で後継者が交代するという話が浮上した。それが現実となると、由梨江の実家はここぞとばかりに新しい後継者の妻にと、彼女を――差し出してきたようなものだった。当時私は28、そして彼女はまだ18歳だった」
 永が水を少し含み唇を湿らせる間、芙美夏は、当時のまだ若かった頃の二人を脳裏に思い描いていた。
「それからの二年間、私は、後継者となるための準備に忙殺された。いくら傍で見ていたと言っても、兄の20年以上をたった2年で自分のものにしなければならなかったからね。兄があんなだからと言って、周囲には色んな思惑もあって、皆が諸手を挙げて私が後継者になることに賛成していたわけではない。周りには敵もいた。
 父は、由梨江の卒業を待って、私と由梨江を結婚させると共に、自分は隠居し私を当主とすると宣言していた。私は、父を含めた周りを納得させる為にも、とにかく必死だった」
 過去の記憶を辿りながら語っているはずの永の口調は、まるで今もその渦中にいるかのように、淀みがないものだった。
 知らないことの方が多い芙美夏にも、当時の様子が目に浮かぶように自然に入ってくる。

「二年余りが過ぎ、その間、いわゆる花嫁修業というものをしながら、大学に通っていた由梨江の卒業を結局は待たずに、彼女が成人すると私たちは結婚した。そうして父は宣言した通りに、披露宴の席で実質隠居を表明した。
 由梨江は……とても大人しい女性でね。まあ今になって考えればずっと女子校で育って、そのまま嫁いで来た箱入り娘だった彼女が、十も年上の私とどんな話をしたらいいかもわからなかったんだろうと思えるが。
 それに私も当時は、とにかく自分の事で精一杯で、ほとんど彼女を構ってやれなかった。酷い時は月に一度顔を合わせるかどうか、という状況だったんだ。新婚の妻に……本当に淋しい思いをさせた」
 少しの間、扉の外に視線を向けるように首を巡らせた永は、それをそのまま芙美夏の方へと戻した。
「私と彼女の世話付きとなったのが、当時まだ25の香川だった。香川と妻は、ちょうど君と淳也君のようなものでね、年も近く、そして私よりずっと身近にいる香川に、由梨江が心を開くのは自然な事だった。私には見せない笑顔を香川には見せ、私には自分から話し掛けない由梨江が、香川には自分から話し掛ける。
 由梨江が、いったいどういう気持ちで私の妻になったのか、彼女の気持ちが全く見えない私は、自分の事を棚に上げて、彼女を……いや二人の関係を疑うようになっていた。嫉妬だよ。
 私と香川は、功と淳也君のように幼少から信頼関係を築いてきたわけではない。兄から当主の座を引き継いだ時に、自ずと香川が私付きになったに過ぎなかった。疑いの目で見れば、白いものも黒にしか見えなくなる。時にはご丁寧に、私に黒いフィルターをかけてくれる者さえいた。私は、疑いからより一層二人から遠ざかり、その距離を縮める努力も、彼女のために時間を割くこともしなかった。私は……ただの臆病な卑怯者だったんだよ」

 永の表情は苦渋に満ちたものとなっていた。自分の中の最も隠してしまいたい部分を、抉るようにして芙美夏に伝える姿に、胸が痛くなる。身体にも負担になるだろうと気懸りでもあった。
 だが、止めることは出来なかった。最後まで聞き通さなければならないと感じていた。
 水差しの水を差し出す。受け取った永の上着の袖から覗く腕のところどころが、内出血のような色に変色していた。
 ありがとうと言いながら少し水を口に含むと、永が再び話し始めた。
「当主としての私の重要な役割は、もう一つあった。子どもを、後継者を作ることだ。そんな関係の私達でも、その務めは果たしていた。……いや務めというのは確かに酷い言い方だな」
 僅かに眉根を寄せてしまった芙美夏の反応に気がついたのだろう、永が呟いた。
「酷い言い方だが、私はいつしか自分にそう言い聞かせるようになっていた。彼女は務めで、義務として私と夫婦の関係を結んでいるのだ。香川ともきっと……とさえ妄想した。ならば、こちらも務めを果たす迄だ、とそんな風にね。
 やがて彼女は妊娠した。だが、子どもはすぐに流れてしまった。由梨江は三度妊娠して、三度とも流産してしまった。彼女は流産しやすい質だったんだが、恐らく、精神的なものも大きく影響していたんだろう。結婚して五年、子どもは結局生まれなかった。周囲からは、彼女には子どもは無理なんじゃないか、という声も聞こえ始めていた」
 知らなかった由梨江の過去に、芙美夏は無意識のうちに身体を硬らせてしまっていた。

 もう芙美夏の顔ではなく、真っ直ぐ前の空間を見つめながら、感情をできだけ抑えるように話していた永が、口を閉ざすと、ゆっくりと目を閉じる。
 そのまま長く黙ったまま動かない永の唇が、微かに震えていた。
「あの……」
 声を掛けようとした芙美夏を手で制し、目蓋を上げた永の瞳は、深い悲しみで満ちていた。
 永は、ゆっくりと息を吐くと、口を開いた。

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