本編《Feb》

第四章 立待月6(雨月)



 行きも帰りも二条家が手配した広い座席は、自分には不釣り合いで落ち着かない。乗務員から提供される恐縮するほど手厚い接客も、帰りの機内では、愛想笑いを返すのさえ難しかった。
 シートベルトを締めながら、芙美夏は指先がまだ震えているのに気が付き、手を重ねて握りしめた。
 こんなにも簡単に。今でもあの人には心を剥き出しにされてしまう。鍵が開きそうになる度に何度も何度も蓋をして、見ない振りを続けていたはずなのに。
 功と再会した途端、消えてなどいなかったのだ自覚させられる。
 功は、元来の洗練された雰囲気の中に、若いながらも大人の落ち着きを身につけていた。ドキドキした。そして、やはりこの人は、特別に選ばれた人なのだと思い知らされた。
 VIPルームの担当職員が向ける視線の意味に、功は気付いているのだろうか、気付いていないはずがない。つい、そんな事まで考えてしまって溜息をつく。
 動揺のあまり、自分が何を言ったのかもあまり覚えていない。狼狽える気持ちを隠すことなど、出来るはずがなかった。
 あんな風に簡単に、目の前に現れたりしないで欲しかった。
 ――どうして、こんなタイミングで
 誰かが意図した再会だったのだろうかと、つい疑ってしまう。けれど、永や香川は、きっと約束を違えたりしないだろう。それに、必死だったと口にした功の言葉は、確かに嘘ではなかったように思えた。功も、芙美夏との再会に驚きや戸惑いを感じているようだった。
 ――なら、どうして……
 答えのない問い掛けがぐるぐると頭を巡る。
 病室での永との話も、芙美夏の心に、まだ生々しく重く残っていた。
 功が抱えている孤独の正体を知った今、それが芙美夏の中にある孤独と共鳴するかのように、強く胸を締め付ける。
 VIPルームでの功の言葉からも、自分が、再び功を孤独の中に置き去りにしてしまったのだと、芙美夏は気付かされた。
 あの頃はただ、自分自身の居場所を探そうと必死だった。その行為が皆に残すだろう傷は、見ない振りをした。自分の事を大切に思っていてくれた人たちを、どれ程苦しめ傷つけてしまったのか、今になってそれに気が付く。
 アナウンスと緊急時の対応説明を終えると、機体がゆっくりと滑走路に向けて動き始めた。
 重い瞼を閉じると、芙美夏の脳裏に、今再会したばかりの人に重なるように、5年振りに会った、病室のベッドに横たわる永の姿が浮かんだ。

* * *

 とても病室とは思えないホテルのような部屋。
 香川から、この部屋で由梨江が亡くなったのだと聞かされた。
 専用エレベータで案内され香川に連れてこられたその部屋のベッドに、身体を起こして座っている人は、とても今病と闘っているようには思えないほど、五年前と変わりなく見える。
 入口で頭を下げると、芙美夏を見つめた永が笑みを浮かべた。
「こっちへ来て、掛けなさい」
 ベッドの脇の椅子を指し示すと、永は、香川に外で待つようにと声を掛けた。
「何かあればすぐに声をかけなさい」
 そう芙美夏に囁くように告げてから、香川は主人の指示に従い部屋を出ていく。
 再会の意図がまだ掴めていない芙美夏は、緊張を隠せないままベッドに近寄ると、言われた通り椅子に腰を下ろした。

「女の子はやはり随分と変わるものだ。大人っぽくなった。いやもう大人か」
 笑いながら話し掛ける永に、少しぎこちなく笑みを返す。
「あの、お身体は」
「私のことなら、香川から聞いているだろう。その通り、もうあと少しだ」
「何か……方法は」
 わかっていた。永は二条家の当主だ。恐らくは最高レベルの医療を受けているはずで、その上で下された診断結果なのだ。
「死ぬ覚悟は出来ている、と人には偉そうに言ってみせているが、内心はそうでもないな。まあ、そんな事は君に言うことではないけれどね」
 苦笑いを零す永に、何も言えずに小さく首を振る。
「君を、追いかけるような真似をしてすまなかった。君のことを疑っていた訳ではないとわかって欲しい」
「はい……」
「仕事は、充実してるか?」
「はい」
 今度は、顔を上げてはっきりとそう答えると、永が満足げに頷く。
「君に、謝らなければならないことが沢山ある。それをしない事には、ちゃんと死ねない気がしてね」
 穏やかな顔で淡々と告げる永からは、存在感は以前のままだが、芙美夏が知っていた張り詰めた緊張感のようなものは、余り感じられなくなっていた。
「私は……。自分の妻を、君に押し付けた。押し付けて逃げ出した」

 どこか遠くを見るような目をして、永が話し始めた。
 その言葉に、芙美夏の心が揺れる。全く話の展開が読めないこの状況に、何も言えず黙って聞いていることしか出来なかった。
「由梨江は、元々はうちに嫁ぐ予定の人ではなかった。そもそも初めは、私もこの家を継ぐ予定でなかったしね。当主になる予定の私の兄と由梨江の姉が、決められた婚約者同士だった。二人のことは、知っているだろう」
 由梨江の葬儀で顔を合わせた、一際声の大きな男性を思い出す。当時中学生だった芙美夏は、彼に怯えていた。
「はい」
「見ての通りの人だ。評判くらいは耳にしたこともあるかもしれないが。私が成人した頃には、四つ年上の兄について、後継者としての資質も自覚もない、素行の悪さだけが目立って、どうしようもない。そんな悪評が立っていた」
 その人のことは確かに知ってはいたが、なぜ長男ではない永が二条家を継いだのか、そのことについて、芙美夏は詳しい事情を知らなかった。
「なら、次男を後継者にしてはどうか、という声が上がっていることも、私の耳に届いてはいた。だがあの頃はまだ父も健在で、私にとってそれはあまり現実的な話ではなかった。二四年間を後継者として育てられてきた兄と、家名に傷がつくような問題さえ起こさなければ、ほぼ放任に近かった私の間には、簡単には覆らない積み重ねられた時がある。この家のしきたりもあった。並大抵ではない重荷をゆくゆくは背負うことになる後継者と、その他の兄弟との扱いは、大きく違っていて当然の事だった。一族にとって、明らかに重みが違ったんだ」
 静かに語る永の話に、引きこまれていく。
「その頃の私は、数学を専攻している学生でね、自分でいうのも何だが結構才能もありそうだった。幸いうちは裕福で、大して儲からない数学の研究に打ち込んでいられるだけの余裕もあった。勿論、一族が経営する研究者に入り、兄の仕事を影から支えるような業績をあげること、そんな条件は課されていたが、それでも私は、自分が進む道を見つけて、その世界にのめり込んでいた。
 だが、私が28なった頃、父がとうとう決断を下した。兄が賭博で逮捕されるという失態を犯したんだ。家の力で公になる前にもみ消されはしたが、兄はその時既に数億にも上るお金を賭場に注ぎ込んでいた。どうしようもない。更正を期待するだけの時間もなかった。
 後継者を変更するなら、父が健在な間でなければ事態がもっと悪化する。そうして私が、ある日突然研究室から呼び戻され、後継者の椅子に座らされた。……芙美夏」
 不意に名前を呼ばれて、背筋が伸びる。
「はい」
「なぜ、私がそれを拒まなかったと思う?」

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