小さく擦れた呟きが聞こえた。
「どうして、ここに……」
「出張の帰りなんだ」
きっと俄にはそんな言葉も信じられないのだろう、噛むように唇を引き結んだ芙美夏は、そのまま視線を落としてしまった。
「芙美夏」
もう一度、確かめるように名前を呼ぶ。
あの頃、長く伸ばしていた髪は今は肩の上で切り揃えられ、殆どしていなかった化粧を薄く施している。
名前を呼んでも顔を上げないことに痺れを切らした功は、思わず手を伸ばしてしまっていた。指先が触れようとする寸前、芙美夏が身体をビクッと震わせ顔を上げる。
「久し振り……だね」
何も答えようとしない芙美夏に、聞きたいことは山のようにあるはずなのに、上手く言葉が出てこない。
「少し、時間を貰えないか」
こちらを見上げた芙美夏の睫が、小さく震えている。視線はまた直ぐに逸らされた。
「出発まで、もう余り時間がありません」
功はこちらの目を見ずに答える芙美夏の、荷物を持つ手をそのまま掴んだ。
「功さんっ」
彼女の腕を半ば無理矢理引きながら、特別顧客用のVIPルームに向かう。周囲の人々が時折好奇の眼差しでこちらを見ていたが、構わず人混みを横切り歩いた。
「離して。ねえ離して下さい。功さん」
何度もそう訴えかける芙美夏を無視して、顔なじみの職員に「奥を少し借りる」と告げてから特別室内の個室に向かった。
綺麗な角度で頭を下げる係員の前を過ぎ、部屋のドアを開ける。後ろに控えた職員に、しばらく誰も近づけないようにと言い残し、功はドアを閉めた。
息を切らせながら、芙美夏が功に強い視線を向けてくる。
「今日中に戻らなくてはいけないんです。私にも、明日は仕事があるんです」
功は、手を離すことなくソファに腰を下ろして、強張った顔をした芙美夏を見上げた。
「分かってる。ちゃんとフライトには間に合わせるから。十分でいい。話がしたい」
じっと彼女の目を見つめるうちに、根負けしたのは芙美夏だった。
距離をとるようにソファに腰を下ろし、再び視線を逸らしてしまった芙美夏の手を惜しみながらそっと離して、功は出来るだけ穏やかな口調で問い掛けた。
「俺の顔なんて、もう見たくもない?」
芙美夏が弾かれたように功を見て、また視線を落とす。
「違います。そうじゃ、なくて……どうしていいか、分からないんです」
弱々しい口調で答えた芙美夏を見ながら、胸が苦しくなった。
ずっと会いたくて会いたくてたまらなかった人がそこに居る。まだ功の中でさえも、余りに突然の再会は、これが現実だと認識しきれていない。心構えのなかった芙美夏の戸惑いも、理解はできる。
「ちゃんと、顔を見せてくれないか」
そう言うと芙美夏が、小さな声で答えた。
「今、ひどい顔をしてるから」
「ひどい顔?」
「……はい」
「どうして? さっきはそんな風には見えなかった。とても、綺麗だった」
途端に、白い肌が薄っすらと赤みを帯びる。
身体が粟立つ気がした。いつでも芙美夏の存在は、功を冷静ではいられなくする。五年経った今でも、それは変わることがなかった。
「ひどく……泣いてしまったから」
その答えの理由と、偶然空港に居合わせた訳が、功の中で繋がった。
「父に、会ってきたんだろ。それで?」
頷いた芙美夏を見つめながら、さっきからずっと気になっていたことを問い掛けた。
「父とは、ずっと繋がっていたのか」
目の前で、小さく首が横に振られる。
「一昨日、突然香川さんが私の住んでいる所に訪ねて来られて」
「香川か……。香川は、ずっと君の居場所を知っていたのか?」
今度は、少し躊躇ってから頷いたようだった。
「そう、だったみたいです。私は、香川さんが来られるまでは、居場所をご存知だとは知りませんでした」
「そうか」
芙美夏の視線が、ぼんやりと功の手の辺りに向けられるのを感じた。
「あの人と何を話した? 何を、言われた?」
だがその問いに、芙美夏は再び首を横に振った。
「何も。ただ、お見舞いに伺っただけです。功さん……結婚、されなかったんですね。どうして」
「それを、君が聞くのか」
はっとしたように、芙美夏が顔を上げる。絡んだ視線を、どこか苦しげな表情を浮かべて、先に逸らしたのは芙美夏の方だった。
「私……」
思わず口をついてしまった言葉に見せた芙美夏の反応に、あの頃栞が言ったことを思い出す。
――きっと、余計に苦しんだと思います
その姿を見ているうちに、気が付けば功の口から、言葉が零れ出ていた。
「あの夜、俺が君に言ったこと、その場限りの言葉だと思った?」
「え……?」
「あの時の言葉を、芙美夏以外の誰にも、告げたことは一度もないよ」
それが意味することを理解したように、芙美夏の顔が薄っすらと赤く染まる。
「あの夜、はっきりわかったんだ。君を、忘れることなんてできないって……手放すなんて俺には無理だって」
「やめて」
「君の言葉も、聞かなかったことにはできない。そう、ちゃんとあの時伝えれば良かった。……そんなの、今更だな」
話しながら、苦笑いが漏れた。
「ずっと、君を探してた。だからさっきは必死だったよ。運転手が乗せてきたのが芙美夏だってわかって、君を見つけるためになりふり構わず二条の名をちらつかせて……馬鹿みたい、だろ」
芙美夏が首を振り、振り絞るように声を出した。
「ごめん、なさい」
「今でもずっと後悔してる。あの日何も気付かずに眠ってた自分を何度も罵った。あんな風に酔って、嫉妬して無理やり部屋に引き摺りこんでおいて、君の気持ちにも何も気付いてやれず、それどころか追い詰めて……。もう五年も経つのに、ずっと、俺の中では過去にはできないんだ」
ワンピースの上で握り締められた両手が小さく震えていた。紺の布地に、涙の滴がポタポタと落ちては染み込んでいく。
芙美夏が何度も小さな声で呟く「ごめんなさい」という声が、功の胸を切なくさせた。
静かに立ち上がると、その頭を抱き寄せる。
「違う、芙美夏。君を責めてるんじゃない。俺が責めてるのは俺自身の事だ。自分だけが苦しんでるくらいに思っていた。それに浸って、君のことが見えてなかった。許して、欲しい」
黙って頭を抱かれながら、その腕は、決して功の身体に回されることがなかった。何度も小さく首を横に振る芙美夏から離れて、ハンカチを手渡す。
「ごめん、泣かせるつもりじゃなかった。もうそろそろ時間だ。五分くらいしか余裕がないけど、しばらく外してるから少し落ち着くといい」
少し落ち着くといい――。
その言葉は芙美夏に向けたものでありながら、自分に向けたものでもあった。
彼女を部屋に残して扉を閉めると、近くのソファに腰を下ろす。芙美夏を、決して追い詰めてはいけないと、功は何度も何度も自分に言い聞かせていた。五年前のような、自分の思いばかりを押し付けるような真似をしてはならない。
口をついてしまった言葉がまた彼女を苦しめているのではないか。不意の再会に戸惑い、整理のついていない状態の彼女にきっととても重い言葉を聞かせた。
本音を言えば、このまま連れ去りたい。連れ帰って、二度と離したくなどなかった。離れて、また会うことが出来るのだろうかと、不安と焦りが込み上げる。
だが、彼女には彼女の、功が知らない五年間の生活がある。自分勝手にそれを踏み躙るような真似をしてはならない。
自分も、やはり芙美夏と同じように、この再会に冷静ではないのだ。まだ動揺は全く治まってなどいなかった。
今ドアを開けたら、誰もそこに居ないのではないかとさえ思えて、不安で落ち着かなくなる。
そんな自分に呆れながら、功は苦い溜息を吐いた。
やがて出発十五分程前になり、職員が、「そろそろお時間です」と功に近付き告げた。立ち上がると、ドアをノックしてから扉を開く。部屋の中には、ちゃんと芙美夏が居た。
功を見上げる芙美夏と、視線が合う。彼女は、もう泣いてはいなかった。
両手に荷物を持って立ち上がる芙美夏の手から、重そうな土産の袋を取り上げる。芙美夏が何か言おうとするのを聞かずに、係員を呼びVIP用の検査ゲートに向かう。
「随分、沢山買い込んだな」
振り向いて、まだ目元が赤い芙美夏に話し掛けた。
「子ども達にって思って」
その言葉に、功は動揺して立ち止まり、芙美夏を凝視した。
「……子どもが……いるのか」
何度か瞬きをした後、その意味に気が付いた芙美夏が、顔を赤くして慌てたように首を振る。
「違うっ、私のじゃなくて……施設の」
「……施設」
「はい」
「そこで、働いてる?」
頷いた芙美夏にホッとして、功は顔に手をやると大きく息を吐いた。それと同時に、今垣間見えた芙美夏の表情が五年前の顔と重なって、やっと芙美夏に会えたという実感が生まれた。
「ちょっと、いや、かなり動揺した。カッコ悪いな俺」
そう言って誤魔化すように笑い掛けると、彼女はどこか曖昧な笑みを浮かべて目を逸らしてしまった。
「二条様、お時間が」
と、遠慮がちな係員の声が前方から聞こえ、我に返り二人して慌てて足を早める。ゲートで紙袋を渡す時、指先が一瞬触れるだけで、自分の身体に電気が走った気がした。
荷物を受け取った芙美夏の土産の紙袋に、無造作に名刺を入れて、何か言おうとする彼女を遮る。
「芙美夏、君が、二条や俺と二度と関わりを持ちたくないと思っていても、もしも、誰か……大切な人がいたとしても。一度だけ、もう一度だけ、会ってくれないか。そうしたら、君が二度と会いたくないと言えば、二度と君の前に現れたりはしない。いつでも構わないから、連絡して欲しい」
返事を躊躇っているのか、視線を逸らした芙美夏は、何も答えなかった。
「行った方がいい。引き止めて悪かった」
係員の視線から、もうリミットなのだとわかった。頭を下げてゲートを通り抜けてから、芙美夏が振り返る。
「わかり、ました」
静かに交わった視線を逸らして、小さく開いた口元が、そう動いた。
ゆっくりと手を上げた功は、引き止めることが出来ない芙美夏の後ろ姿が視界から消えても、暫くそこに立ち尽くしていた。
最後にうまく笑みを向けることができていただろうか――と思いながら。