本編《Feb》

第四章 立待月4



 ベルト着用サインが消えるのを待って、座席から立ち上がり、降機の準備を整える。
 手荷物のキャリーケースを引き、地上係員の先導で真っ先に到着ロビーに降り立った。
 機内で電源を入れた途端入ってきていた着信に折り返しの連絡を入れながら、迎えの車が待つはずの場所へと向かうと、手の中にある通話を終えたはずの携帯から、また着信を知らせる振動が伝わってくる。
 相手を見てすぐに出る必要はないと判断し、先ずは外に出て迎えに来ているはずの車を探した。見知った車を見つけたものの、少し訝しく思いながら近付くと、ドアを開けるために後部座席に回り込んできた運転手に声をかけた。

「珍しいですね、社長専属のあなたが。しかもこの車も」
 声を掛けられた運転手は「お帰りなさいませ」と、ドアを開けると中を指し示した。とりあえず車に乗り込む。社長専属の運転手である西原は、自身も運転席に乗り込むと振り返り事情を説明し始めた。
 永の指示で、飛行機の出発時間に遅れてしまった客を乗せて空港に到着した直後に、出張から予定より一日早く戻ってきた功を迎えに来る予定の車が、事故渋滞に巻き込まれ到着の目処がたたなくなったとの連絡が入ったのだと。
「それで、そのまま私が待機し、功様の到着をお待ちすることになりまして」
「それは、申し訳ないことをしたな。予定外に早く戻って来たんだから、迎えを断ってタクシーにすると言えばよかったですね」
「いえ、私がおりましたので、丁度良かったです」
 西原は笑みを見せながらそう答えると、右ウインカーを点滅させて車をスタートさせた。
「それにしても、父の指示で送迎をつけるほどの客って、よほど重要な取引先の関係者か何かですか?」
「いえ、お見舞いに来られたお客様のようで」
「見舞いって、病院に?」
 開いたPCに入ってくるメールを流し読みしながら、尋ねる。
「ええ」
「誰だろう……。今は余程の事がなければ、親しい人にさえ入院のことは伏せているはずなんだけど」
「綺麗な若いお嬢様でしたよ」
「若い、女性?」
 指先が止まる。
「ええ、今朝北海道からいらして、そのまま病院」
「待って下さい」
 功は、ひどく動揺して思わず大きな声を上げていた。
「えっ」
「若い女性ってどんな」
「どんな……え、いや、感じのよい」
「名前はわかりますか」
 西原の言葉を遮り問いかける。
「え、あ」
「その女性の名前です」
「お名前……ですか。苗字はお聞きしていませんが、確か……香川さんは……ふみ、そう、ふみさんでしたか、そんな風に呼ばれていた気が」
「引き返して下さい、車を、すぐに空港に」
 心臓が、息を吹き返したかのように、早い鼓動を刻む。
「どうされましたか、その女性が何か?」
「頼む、早くっ」
「はい」
 剣幕に押され、西原はまだ空港敷地内を辛うじて走っていた車を周回させて、出発ロビーのあるターミナルへと戻った。
「フライトの時間はわかりますか」
 功の焦った口調につられて、西原も早口で答えていた。
「十九時半のフライトには間に合わなかったので、恐らく次の55分か20時半頃かと」
「服装は?」
「それは、ああ……いや」
 しばらく眉をひそめて考える西原をそのままにして、功は、返事も待たずにドアを開けた。
「功様っ、確か、紺色のワンピースです。お土産を買うと仰ってました」
 自動ドアに差し掛かっていた功に、運転席から降りた西原が呼び掛けた。立ち止まり、振り返る。頷いてから、先に社に戻って貰うように頼み、再び出発ロビーへと走った。

 搭乗手続のカウンターへ向かい、乗客への案内のため待機している係員を捕まえて、名刺と航空会社のカードを差し出した。カードの色を見ればすぐにそれがVIPの中でも更に特別な会員であることがわかるものだ。
 係員の顔色が変わり、少々お待ち下さいと一旦カウンターへ向かうと、すぐに上司らしき女性を伴い戻って来た。
 挨拶を飛ばし、人を探して欲しいと伝える。強引で性急な申し出に戸惑いを隠せないその女性に、責任は全て自分が負うからと無理強いをした。彼女は更に責任ある立場の人間に素早く連絡を取り、こちらの依頼を承諾した。
 なりふり構わず二条の名を――利用した。

 VIPラウンジでお待ち下さいと言う彼女に携帯の番号を伝え、何かわかればすぐに連絡を入れて欲しいと頼むと、フロア内を当てもなく探し始める。
 土産を買うと言っていたという。誰に――との思いは、今は胸の奥に押しやり、功はただ闇雲に辺りを見渡して歩いた。
 もうすでに手荷物検査を終えて中に入ってしまったかもしれない。そう思いながら、だが何もせずただ待っていることなど出来なかった。大勢の人ごみの中、土産物売り場を覗いて回る間も、焦りばかりが募っていく。何度も、間に合わないのだろうかと不安が押し寄せる。
 携帯が振動するのを感じて、すぐに耳元にあてた。
「二条です」
「21時のフライトに、香川芙美夏様のお名前がございました。いくつか仰ったお名前に近い二十三才くらいの女性は、この方だけです。ミヅキ様とおっしゃる方はいらっしゃいません」
――香川……芙美夏
 芙美夏は、そう名乗っていた。馴染んだ名前を、捨てた訳ではなかったのだ。
「間違いありません。香川芙美夏です」
「まだ手荷物検査は終えられていません。お呼び出しをいたしますか」
 少し考えて、それは最終的な手段でいいと答えた。
「畏まりました。では、検査ゲートにお見えになれば、お引き止め致しますか」
「お願いします。私もすぐにそちらに向かいます」
 手元の時計を確かめると、午後八時を回ったところだった。足を早め、数ヶ所の検査ゲートに並ぶ人々を見て回る。途中で何人もの人とぶつかりながら、頭を周囲に巡らせた。
 その時――。

 ほんの数メートル程先で、ベンチから立ち上がる人の後ろ姿が視界に入った。
 心臓がドクッと脈打つ。
 出発ゲートに向かおうとしたのだろうか、身体の向きを変えたその人の横顔が見える。
「……芙美夏」
 一瞬で、周囲のざわめきが耳から遠ざかっていった。
 芙美夏が、そこに居た。ベンチの間を抜け、重そうな紙袋を持ち直しながら、こちらへと向かって来る。
 数歩進んでその動きが止まり、立ち止まった芙美夏が、目を大きく開き呆然とした表情で功を見つめた。
 ゆっくりと間を詰めていく。功の姿を発見した係員がこちらに来ようとするのを、手を軽く上げて退けて。
「芙美夏」
 と、彼女の名前を、掠れた声で呼ぶともなく口にする。
 青ざめた顔で功の動きを追っていた芙美夏の震える唇が、自分の名を呼んだ。
「功、さん」


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