本編《Feb》

第五章 寝待月5


 迷いをみせるように揺れ動く双眸を、功は、真っ直ぐに見つめ続けた。
「……ホントに、私でいい?」
 ようやく口を開いた芙美夏のその言葉に、心とは真逆にゆっくりと頷いてみせる。
「芙美夏でないと、俺は満たされない」
 瞳から零れた涙がスカートに落ちて広がる。それを追うように芙美夏は俯き、そして頷いた。
「寝室の奥にバスルームがある。先に、シャワーを使いたい?」
 今度は、間違えずちゃんと手順を踏んで愛し合いたかった。
「功さんが……先に」
 俯いたまま答える彼女に、見えないことはわかっていながら優しく笑みを返して。功は立ち上がると、最後の理性を振り絞り口を開いた。
「もしも、どうしても……まだ無理だと思った時は、俺がシャワーを浴びている間にこの部屋を出て行ったらいい。でも、部屋に残っていたらもう、待ったりはしない」
 俯いたままの芙美夏の頭に手を載せて撫でると、そのまま功は隣の寝室の奥にあるバスルームに入った。
 熱の篭った身体に、冷たい水を浴びる。まるで盛った子どもみたいだと自嘲する。
 心臓が壊れそうだ――と。余裕がないと吐露した気持ちは、大げさなものではなかった。芙美夏が、部屋に留まっているという自信も確信もなく、余裕ぶってみせた言葉をもう既に後悔している。
 手早くシャワーを済ませ、バスローブを羽織り部屋へと戻ると、芙美夏は窓辺に立って外を見つめていた。
 功の存在に気が付いているはずなのに、身じろがない背に声をかける。「芙美夏」と呼びかけると、振り向いた芙美夏はまたすぐに顔を逸らしてしまった。そばに近付き、そっと後ろから抱きしめる。腕の中にいる存在に、思わず安堵の溜息が漏れてしまう。誤魔化すように、笑みを浮かべながら口を開いた。
「余裕がある振りなんか、するんじゃなかったって、ずっと自分を罵ってた」
 芙美夏が、小さく笑う振動を感じる。
「いないかもって、本当に思ってた?」
「自信なんて、本当は、全然ないからね」
 ようやく振り向いて正面から功を見上げた芙美夏が、功のバスローブの袖を緩く握った。
「私は……もう、功さんをひとり置き去りになんてしないから」
 静かにそう口にした芙美夏の唇へと、軽くキスを落とす。深くすると、きっと止まれなくなるとわかっていた。背後に回り、バスルームのドアへとその肩を押した。
「バスローブは置いてあるから。何も着けずに出てきて」
 耳を掠めるように囁くと、身体がビクリと跳ねて耳が赤く染まる。頬に唇をあててから、その身体を離した。

 芙美夏がドアを閉めるのを待って、冷蔵庫からミネラルウォータを取り出し口に含む。そうして、しばらくの間、芙美夏が外を見ていた場所から、同じように暮れゆく街並みを眺めていた。
 携帯をチェックして急ぎの用件が入っていない事を確認してから電源を落とす。フロントにも電話を入れて、外線から入った電話は、火急の用件以外は預かりにしておいて欲しいと伝える。二人の時間を、誰にも邪魔されたくなかった。
 灯りを落としてリビングに続くベッドルームへと移動すると、大きなベッドにひとり腰を下ろした。顔を上げて、もう一度ガラス張りの部屋の窓から外へと視線を向ける。時間的にはまだ夕刻だったが、もう日はかなり傾いていた。
 外はまだ、雪が静かに舞っている。
 やがて、夕方の空がほとんど夜の色に移り変わった頃、バスルームのドアが開く音が背後から聞こえた。

 * * *

 寝室の奥にあるバスルームの扉を閉めた芙美夏は、扉に凭れ掛かり目を閉じた。苦しくなるほどに胸を打つ鼓動の中に、消えることのない痛みを感じる。
 駄目ならば部屋を出ればいいと言っていた功は、部屋に残っていた芙美夏を抱きしめながら、確かに安堵するように溜息を零した。誤魔化すように笑ってみせた功は、きっと、自分が上手く笑えていないことに気が付いていないだろう。
 二条の家をひとり出て行った時、芙美夏は、ただ自分の苦しみだけに浸っていた。後に残された功がいったいどんな気持ちになるのかなんて、きっと、想像しようともしていなかった。何も見えていなかったと、功はそう何度も言ってくれたけれど、それは自分も同じだったのだ。
 功を、ひとり孤独の中に置き去りにした。
 ――もう、功さんをひとり置き去りになんてしない
 功に伝えた言葉を、もう一度自分に言い聞かせるように胸の内で繰り返す。
 欲しいと、気持ちをはっきりと口にしてしまったのだ。この望みが叶うのなら、どんな罰を受けることになっても構わない。溢れ出してしまったものを、今更なかったことにする術を、芙美夏は持ち合わせていなかった。
 迷いを打ち消すように、服を全て脱ぎ、空調だけではない温もりの残るシャワーブースの、濡れたタイルに足を下ろす。身体のラインを流れていく湯の温もりを感じながら、緊張と胸の痛みを誤魔化すように、そっと細い息を零した。
 強く決意したつもりでも、消えない過去の記憶が追いかけてきて、あの頃の自分に引き戻そうとする。ここに今の自分を留めておくために、芙美夏は、功が口にした言葉や、強く求めるその瞳を、刻み付けるように思い出していた。
 心が揺れないだけの――強さが欲しい。

 タオルで全身を拭い、バスローブに手を伸ばす。
 先ほど功に言われた言葉が蘇ってきて、顔が熱くなった。鼓動が早くなりすぎて苦しい。素肌の上にバスローブだけを纏うと、どこかやはり心許なくて、それが少しだけ可笑しかった。
 濡れた髪を急いで乾かし、顔に軽く化粧水をあてながら鏡に映る自分を見つめる。
 迷いも不安も、消えてなどいない。本当は、いつでも手が届くほどそばにある。それでも、もう引き返すことは考えなかった。
 目を閉じて息を整える間に、少しずつ心が、凪いだように静かになっていく。
 そっと目を開いて立ち上がると、芙美夏は、寝室へと続くドアをゆっくりと開けた。


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