本編《Feb》

第五章 寝待月4



「何で彼女を知ってる」
 貴菜の名を芙美夏が口にすると、それまで黙って話を聞いていた功が、立ち止まり戸惑った表情を見せた。
 その問いに、心が過去と今とを彷徨う。
 功に自分の気持ちを少しずつ吐露しながら、あの頃の事を思い出すと、まるでつい昨日の出来事のような生々しい記憶が呼び起こされる。
 康人に頼み込んで調べてもらった功の婚約者と、一度だけ、会った事がある。自分でチケットを購入し、百貨店で催されていた華道の展覧会に出かけた時のことだった。

 羽生家主催の華道展は、多くの人々で賑わっていた。品の良い和服姿の女性が大半で、その立ち居振る舞いの美しさが、いかにも育ちの良さを表しているように思えて、芙美夏は会場に近付いた時点でもう気後れしていた。
 若い年代の女性は、母親や祖母らしき大人と同行している人が殆どで、ひとりでこの会場を訪れた芙美夏は、場違いなその雰囲気にも怖気づいてしまっていた。迷いながらもチケットを差し出すと、受付の女性が戸惑ったような表情を浮かべた。
「あの、招待状はお持ちでないでしょうか?」
 女性に確認されて、今度は芙美夏が戸惑う。
「チケットだけでなくて、招待状もいるんですか?」
 尋ねた芙美夏に、女性は気の毒そうな顔を向けた。
「申し訳ございません。こちらのチケットを使っての一般の方のご入場は、明日からとなっております。本日は関係者等ご招待客のみとなっておりまして」
 チケットの日付を見ると、確かに明日からのものだった。恥ずかしさに顔が赤くなる。
「すみません。また来ます」
 慌てて踵を返そうとしたその時。
「どうしたの?」
 と、後ろから涼やかな声が聞こえた。振り向いた瞬間、心臓が止まるかと思った。
 品の良い、だが控えめではない艶やかな着物を着た羽生貴菜が、そこにスッと立っていた。優しそうな眼差しが、芙美夏を見つめて軽く会釈したあと、受付の女性に向けられる。
 ――来るんじゃなかった。
 どんな人か見てみたいなんて、思わなければよかった。その瞬間から芙美夏の中に後悔が込み上げていた。
「構わないから入って頂いて」
 事情を聞いた貴菜は、そう受付の女性に告げてから、零れるような笑顔を芙美夏に向けた。
「こんな若くて可愛い人が、わざわざ一人で来てくれるなんて嬉しい」
「ぁ……」
 突然のことに狼狽し、脈動が煩いほどに耳を打つ。芙美夏は、ただ遠くから見るだけのつもりだったのだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「いけばな、習ってるの?」
「いえ……あの、でも少しだけ」
「そう。お母様がなさってたりするのかしら。高校生くらいよね? それくらの歳の人は殆どが親の影響で始めることが多いから」
「……はい」
 確かに小さい頃は由梨江に、また最近では和美から、少しは華道の手ほどきは受けていた。和美は、ちゃんとした先生について習えばいいと言ってくれたが、習い事にもお金がかかる。和美も免状は持っていたのでそれで充分だと、申し出を断っていた。
「どうぞ、こちらへ」
「あの……でも私、また明日、出直します」
 芙美夏は、そのまま帰ろうとした。
「あ、待って。ねえ、本当に構わないから、よければ是非見て行って。私も――」
 声を潜めるために少し屈んだ貴菜からは、とてもいい匂いがした。
「正直おばさんの相手ばかりじゃ疲れるから」
 イタズラっぽく笑う貴菜から目が離せなくなる。
 高校生の芙美夏から見れば、貴菜は随分と大人びて見えた。四、五歳ほどしか離れていないはずなのに、着物を着ているせいもあるのだろうが、手を掴んで中へと誘う貴菜の着物の襟元からのぞくうなじの白さに、思わずドキッとして目を逸らしてしまう。
 頭の中で、並び立つ功と貴菜の姿が自然と想像できた。芙美夏の手首を緩く引きながら、貴菜が展示作品を説明する声や、重ねられた問い掛けに、何をどう答えていたのか。後から思い返しても、芙美夏はどうしても思い出せなかった。

 そうするうちに、貴菜に声を掛けてきた年配の女性がいた。
 芙美夏に向けていたのとは少し違う、型にはまったような笑顔で対応する貴菜の手が緩む。
「あの。すみません。本当にありがとうございました。私、用事を思い出したのでこれで」
 その隙に手を引いた芙美夏は、早口でそう告げると、貴菜の呼びかけを無視して出口に向かった。
 ――まあ、まるで私が邪魔をしたみたいじゃありませんか。ごめんなさいねえ貴菜さん。
 背後から、大きな声で話す先ほどの女性の声が耳に入り、顔が熱くなる。そそくさと逃げ出したことを非難されているようで、居た堪れない気持ちがした。
 受付の女性に頭を下げ、そのまま俯き加減でエレベータの方へと早足で歩いた。早くここから――貴菜の元から、立ち去ってしまいたかった。
 人にぶつかり、頭を下げる。反応の無さにその人をふと見上げると、芙美夏とそう変わらない年代の男性が、顔を上げた芙美夏にそっと首を振ってみせた。気にしなくていい、とでも言いたげなその人にもう一度詫びる。すれ違う時、彼の耳に小さな機械のような物が入っているのが見えた。
 エレベーターに乗り込む際、振り返り会場の入り口に目をやると、先ほどの男性は、じっと同じ場所に立ち尽くしたままで展覧会場のほうを見ているようだった。

 扉が閉じたエレベータの中で、芙美夏は、足が震えるのを感じた。壁に身体を預けて、目を閉じる。閉じた瞼に貴菜の美しい姿が浮かんだ。
 本当にお似合いだと思った。
 ――あの人が、功と一緒に歩いていく人
 それに相応しい人だと、一瞬で思い知らされた。
 本来の目的がこれで達成されたのだ。功はきっとあの人と幸せになるに違いない。苦しいのに、たいして言い聞かせることなく、これがあるべき姿なのだと理解してしまう自分が悲しかった。
 功と身体を重ねた夜、部屋を出て行く時に目にした功の、結納のための服。あの時、貴菜を傷つけたと思いながらも、芙美夏を抱いた功の腕が、この先はあの人のものになるのだと思うと、本当は身を切るように心が痛かった。
 わかっていたはずなのに、抱きしめる腕の強さやその温もりを知ってしまって、それがもう自分のもになることはないと諦めるのは、苦しくて堪らなかった。


 功を誰にも渡したくないと思わず口をついて出たのは、声に出せないまま、あの時胸の奥に封じ込めた思いだった。
 慰めを与えるように髪を撫でていた功の手がとまり、身動ぐ気配がした。
「芙美夏……雪」
 声が、胸元から直接頭に響くように聞こえてくる。顔をそっと上げると、空から舞い落ちる白い雪と、それを見上げる功の顔に見とれてしまった。
「……きれい」
 思わず、そう呟いていた。
 ゆっくりと視線を下ろすと、功のコートの肩口に、雪が落ちてはほんの少しの間で、溶けて消えてしまう。
 初めて北海道で冬を迎えた時、降る雪を見るたびに感動した。初めて、雪の結晶が目で見えることを知った時、芙美夏はその美しさの虜になった。
 けれど、それを伝えたい人も、それを見せたい人も、ここには居ないのだ。一生一緒に見ることは適わない。そう思った時から、芙美夏の中で雪の結晶は自分の悲しみを凝縮した象徴になってしまった。そうして、意識して見ることをしなくなった。
 まだ結晶が見える状態ではない、降り始めの雪が溶けていくのを見つめながら、その時の気持ちを思い出していた。
「功さん……雪の結晶って見たことある?」
「いや、写真でしかないかな」
「本当に、綺麗なの。ちゃんと、目で形が見えるの。本物の雪の結晶、功さんに見せたいって……ずっと思ってた。今日の雪は、まだ駄目そう」
 見たことがないと答える功に、本物の美しさを伝えようとしたけれど、やはり言葉では、実物を見たときに感じる感動は上手く伝えきれない。
 今日の雪では無理だろう……そう思いながらも、以前とは違い、今度はいつか一緒に見ることが出来るかもしれないと思うと、閉じ込めていた感情が溢れ出そうになる。
 もう一度雪の結晶を探すように、芙美夏は空を仰ぎ見た。目を凝らすうちに、舞い落ちる雪に、ふと、どこかへ吸い込まれてしまいそうな浮遊感を覚えた。

 * * *

 涙を湛えた瞳で功に微笑みかけた芙美夏が、もう一度顔を上げた。まるで今日でなければ、二度と見せる事が出来ないものを探すように、遠く空を見上げている。
 そんな芙美夏を見つめるうちに、唐突に、功の胸の奥から何かが込み上げてきた。
 天空から降る雪が、芙美夏をどこかへ連れて行ってしまいそうで、引き戻すように強く抱き締める。
 驚いたように身じろぐ彼女の手を掴むと、功は何も言わずにその手を引き、足早に来た道を戻り始めた。空いた手で携帯を取り出すと、ホテルに電話を入れ夕食をキャンセルした。
「功、さん?」
 狼狽えたように呼びかける声を無視してホテルに戻る。
 何かを言おうとした芙美夏を制しロビーで待たせ、フロントへと向かうと、功を迎えた支配人の挨拶を、今日はプライベートだと耳打ちして止めた。
 キーを受け取り、案内は不要だと告げて、戸惑いを浮かべたまま立ち尽くしている芙美夏の元に戻る。
 腕を取った功は、無言のまま上階専用のエレベータへと乗り込んだ。

 功の行動の意図するところに気が付いたのだろう、芙美夏の身体が、固く強張るのがわかる。エレベータのドアが閉まると同時に、握っていた腕を強く引いた。
「芙美夏」
 細い腰を引き寄せ名前を呼ぶ。それは、ひどく切羽詰まった擦れた声だった。
 顔を上げた芙美夏に、覆い被さるようにキスをする。唇を吸い舌でなぞり、微かな抗いはほとんど無理矢理入れ込んだ舌で制して、腕の中で身動ぐ身体をそのまま鏡へと押し付けた。
 僅かに唇を離すと、鏡に映った自分と目が合う。どうしようもなく、飢えた目をした男がそこにいた。
 取り込んでどこにも行かないように縛り付けてしまいたい。今すぐ芙美夏を欲しという欲望で、我を失いそうな自分を、けれど功は何とか抑えた。
 あの日と同じ過ちはしたくない、そう思っていたはずだ――と。
 目を閉じて深く息を吐き出してから、ゆっくりと身体を引き離す。その時、殆ど振動もなくエレベータが止まり、静かに扉が開いた。
 間近で絡み合った瞳を先に逸らしたのは功の方で、芙美夏の手を引き、部屋へと向かう。部屋の中へと入っていくまでのその間、互いに、ひとことも口をきかなかった。

 リビングルームに入ると、手を離し脱いだコートをソファの背凭れに掛ける。少しだけでも、冷静さを取り戻すようにと自分に言い聞かせてから、振り向いた功は、手を伸ばし芙美夏のコートの襟元に手を掛けた。ピクッと肩が揺れ、俯いていた顔が上げられる。
「……功、さん、私」
 不安に揺らめく瞳を、でき得る限り優しく見つめ返した。
「俺が怖い?」
 少し間を置いて、芙美夏の首が横に振られる。
「功さんは……怖く、ない。……でも、心臓が壊れそう」
 その言葉に、笑みが漏れた。コートを脱がせて、ソファへと座らせた芙美夏の手を握り、その前に屈み込む。
「俺は、自分が怖いよ」
 華奢な指先を口元に持っていきながら、視線は芙美夏から離さずにいた。さっき口づけた唇が熱を持ったように少し赤い。黒目がちな瞳がゆっくりと瞬きをして、功を見つめ返した。
「芙美夏の側にいたら、自分が抑えられなくなる。余裕な振りをしようとしても、今も全然、平気じゃない」
 芙美夏は、少し目を見開いた。
「でも……功さんは、こんなこと慣れっこでしょ」
「慣れてないよ」
 つい、苦笑いが浮かぶ。
「俺だって、心臓が壊れそうだ。本当に余裕があったら、こんなふうに食事もせずに、部屋に連れ込んだりしない。淳也にも、言われたんだ」
 問いかけるような眼差しを見つめ返しながら、功は思い出し笑いをした。
「淳ちゃん?」
「ああ。みいに対してだけは、俺の理性は当てにならないって」
 その答えに、顔を赤く染めて視線を逸らした芙美夏を見つめながら、笑みを消した。唇を当てた指先が、冷たく微かに震えている。
「俺に、くれないか?」
 身体も心も乾いている。芙美夏が欲しくて、ずっとずっと餓えていた。握りしめる指だけでなく、口づけた唇だけでなく、その全てを――
「芙美夏を、全部」




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