由梨江が精神的に不安定になり、芙美夏の存在を遠ざけるようになってからは、永の誕生日や、父の日、クリスマスが来ても、誰も芙美夏を永の部屋に連れて行く者はいなかった。
書き続けることが習慣になっていたカードだけが、渡す機会もなく引き出しに増えていった。
二条家を去る時に、渡せなかったカードの束を一度は持って出たものの、美月として過ごしていたその時々の思いを、自分自身の手で処分することが、芙美夏にはどうしてもできなかった。
一度もその人の目に触れることがないカードが、とても不憫に思えた。
永ならば、受け取ったところで不要だと捨ててしまえるのではないだろうかと、芙美夏は、こちらに来てしばらく経ってから、これが最後となる父と呼んだ人への誕生日プレゼントと手紙とを添えて、このカードの束を永に宛てて送っていたのだ。
捨ててもらって構わない――と書き添えて。
「旦那様は、今、入院されている」
「えっ」
カードに思いを馳せていた顔を上げ、香川を見つめながら、芙美夏は自分の顔が強張るのがわかった。
「心配いらない、と言いたいところだが、残念ながらそうではなくてね。あまり、時間がないかも知れないんだ」
動揺とショックに、しばらくは声が出なかった。ようやく開いた唇が小さく震える。
「どうして、でも、だってニュースなんかでは……何も」
「マスコミにはまだ流れていない。だがそれも時間の問題だ。しばらくの間は抑えることも出来るだろうが…」
「どこが……何の、病気なんですか?」
「かなり厄介なところに、腫瘍が見つかってね。旦那様は、一昨年かなり多忙で、少し落ち着いてからと健診を先延ばしにされていた。きっかけは風邪のような症状が長く続いたことだったが……見つかった時には、もう随分と進行していて回復を見込むのは非常に厳しいと言われた。手術をする予定もあるが、それはどちらかといえば延命に近いものだ」
香川はテーブルに肘を置くと、重そうに頭を支えた。
「入院までのしばらくの間で、出来る限りの引継ぎは行ったが、未だに病室に旦那様の決済が必要な書類が持ち込まれている。今はまだ、自覚症状も余りなく見た目もお変わりない。だが、いずれはそれも難しくなるだろう。功様も……このところあまり睡眠もとらずに働かれているような状況でね」
呆然と話を聞きながらも、功の名前に自分の心が揺れるのを感じてしまう。見ないように蓋をして、芙美夏は目の前の人に意識を戻した。
「香川さんも、ほとんど寝てらっしゃらないんじゃ……」
「私は、ここ二年程掛けて会社での秘書室総括の仕事は後任に任せるようになった。そうしなければなかなか後続が育たないからね。責任のある地位に就けてその環境に育てさせる事も必要だと、旦那様のご指示もあってのことだったんだが……もう少し私がお側に……いや」
言いかけた言葉を呑みこんだ香川は、小さく首を振ると顔を上げた。
「だから今は、会社でも二条家に関わる旦那様の個人的な用件に対応するのが主な職務になっている。今日のことも、旦那様の意を受けて私がここを訪ねた。旦那様が入院して真っ先に望まれたのが、君と会えないか、ということだった」
「でも……私は、あんな風に出てきてしまって、どんな顔をして」
「そんな事は気にしなくていい。それから、君が望まないのであれば、他の誰にも会うことがないように細心の注意を払う。職場が大変なのであれば、数日誰かに来てもらうように頼もう。お願い、できないだろうか。君がようやくこちらで自分の生活の基盤を築き始めたことは私も良くわかっている。いつも、君に縋ることしかできない私を、どうか許してくれ」
そう言った香川は、芙美夏に向かって頭を下げた。
「やめて下さい、香川さん、そんな、頭を下げたりしないで下さい。私、行きます。行きますから……」
芙美夏がそう答えても、香川が頭を上げる事はなかった。
「さっき香川さんが言ったんじゃないですか。謝らなければならない事はお互いにあるだろう、けれど、分かってるからもういいって、そう」
ゆっくりと顔を上げた香川は、小さく苦笑いを浮かべた。
「確かに、そう言ったね」
都合がつくのならこれから一緒に東京に、と言われたが、支度や職場の都合があるので、一日だけ待って欲しいとお願いをした。
香川には先に戻ってもらい、都合をつけて、なるべく明後日には東京へ向かうと約束をした。
部屋を出る間際、香川はリビングに飾られた写真立てに目を留めた。
そこに、母、望の高校生の時の写真と、芙美夏が卒業式の時に皆で取った写真とを飾っていた。
「この写真」
母の写真を見つめながら、香川が口を開いた。
「功様から?」
芙美夏は小さく頷いた。
「そうか。だから、北海道だった?」
問い掛けに、もう一度頷く。
「それも功様から?」
今度は声に出して否定した。
「いいえ、違います。それは……」
「いや。いつかきちんとお母さんの事を君に話さなければならないって思っていた矢先だったから」
「……はい」
答えながら。
芙美夏は、写真に写った母の制服を頼りに、康人に協力して貰い母の出身校を探し出したときの事を思い出していた。
知りたい事全てを、知る事はできなかった。ただ母も母の身内も、もうこの世には居ないのだということを知った。母が、子どもを産んでいたことを知る人は誰も居ないことも知った。
恐らくあの頃、酷く傷ついていた芙美夏に、功も淳也もそして香川も、その事を告げることが出来なかったのだろう。
「写真だけでも渡しておけばよかったって、ずっと思っていた。だからここにあって、良かったよ」
「香川さん……」
「いつか、落ち着いたらその話をしよう。今は、申し訳ないが」
「わかっています。……香川さん、あの……」
結局一度も、いや眠らないほど働いているという事以外、避けるかのように聞かなかった事を、聞いてみたいと思った。けれど、あの人の心配をする人は他にいるのだと、そう自分に言い聞かせて口を噤んだ。
「いえ。では明後日よろしくおね」
「功様は」
唐突に香川が口を開いた。
「功様は、今は確かにしばらく大変ではあるけれど。あの人なら、大丈夫だよ」
「……はい」
柔らかく微笑み芙美夏を見つめた香川に、少しぎこちない笑顔で頷いた。
「そうだ言い忘れていた。名前」
「え?」
「君の名前。嬉しかったよ」
一瞬言葉をなくして、結局何も答える事が出来なかった。
「では、また明後日。時間が決まったらすぐにここに連絡をくれれば座席を確保しておくから」
そう言って肩書きのない名刺を手渡した香川は、もう一度芙美夏をしっかりと見つめてから、部屋を出て行った。
香川を見送ったあと、芙美夏はリビングに戻り、しばらくの間ぼんやりと横になってみた。徹夜明けなのに、いつも襲ってくる眠気が今日は全く感じられない。
きっと眠れそうにはないと、立ち上がり簡単に着替えを済ませて、部屋を出て再び園へと向かった。