空港の到着ロビーへ出ると、いつものように控え目に手を振る芙美夏に頷く。
本当は人混みが見えた時から、その中にいる彼女を見つけているが、走り寄って抱き締めてしまいたい気持ちを抑えるように、功はゆっくりと歩を進めた。
「久しぶり」
その言葉に、芙美夏は笑みを浮かべて功を見つめた。
たった二週間会わないだけで、また芙美夏を見失うのではないかと、どこかで不安を覚えてしまう。そんな自分を、彼女には見せないようにしなければならない。
「今夜は、雪が降るかも」
そう言ってロビーから外を伺う芙美夏の横顔を、じっと見つめていると、視線に気が付いた芙美夏が、功の方へと顔を向けた。
「何?」
「いや……綺麗だと思って見とれてた」
途端に顔を赤くして、俯いてしまう。
「からかって楽しんでる?」
その反応に笑って、何も答えず手を取ると、いつものように車で札幌市内へと向かった。
今夜の食事を予約したホテルに車を置いて、大通公園をブラブラと歩く。
そうしながら、時折屋台を覗いたり、永の容体や会社の事を話したり、この前の会議の様子を話して芙美夏に笑われたりした。
大竹の事を聞くと、芙美夏はただ静かに首を横に振った。
あの男も――。頭ではどうにもならないときっとわかっているのだ。だが心がそれを認められずに、苦しんでいるのだろう。そんな事を考えていると、立ち止まった芙美夏が功を見上げた。
「功さん」
足を止めて、続く言葉を待つように、芙美夏を見つめる。視線の先で、一度強く結ばれた唇が、薄く開いた。
「私……。年が明けたら、東京に戻ろうと思って」
驚きに目を見開く。どうにか平静を装い、問い返した。
「仕事だってあるだろ。何もそんなに急いで決めなくても」
戻るという言葉に、狂気めいた喜びを感じている事も確かだ。けれど、芙美夏が今の仕事と真剣に向き合っている事も、すぐには辞められないだろう事もわかっているつもりだ。何より、目を輝かせて、時には悲しみを湛えながら、子ども達の事を話す芙美夏を見ていて、この場所を彼女から取り上げてしまいたくないと、功はそうも感じていた。
「大竹さんの事もあるけど、園にも、あまり長くいると、多分辛くなるから。それに……」
言い掛けて口を閉ざした芙美夏の視線は、公園で鳩の群れと戯れている子ども達の方に向けられていた。
「そばに、居たいから……」
小さな声で、そう口にした芙美夏の頬が微かに赤くなり、繋いでいる手に力が入るのを感じた。
嬉しい言葉だが、あの夜のメッセージからも今日の様子からも、微かな違和感を拭えずにいる。どこかで、芙美夏の中にある不安定な気持ちを感じ取っているのかもしれない。
「ここが外じゃなかったら、今すぐ芙美夏を押し倒してるな」
そう言って笑うと、芙美夏の口元にも、ほんの微かに笑みが浮かんで消えた。
淳也にも言われ、そして自分でも自覚しているが、芙美夏といると功の感情は豊かになる。些細な事が楽しく、瑣末なことで不機嫌になる。不安も喜びも、その感情の全てを動かしているのが、目の前に居る芙美夏だと思うと、振り回されている自分が滑稽で、でも決して嫌いでなかった。
「芙美夏。……もしかして、あの記事を見た?」
俯いたままの芙美夏が、首を横に振りかけて止まる。それが何かを尋ねない時点で、少なくとも記事の存在は知ってるという事だろう。
「ごめん。でもあれは」
「違うの、雑誌の事は……信じてない。そうじゃなくて……」
それきり黙ってしまった芙美夏の、透明な膜をまとった瞳と、笑おうとして震える唇を見つめた。
「言いたいことは、ちゃんと口に出して言ってくれないか。一人で抱えてたんじゃ、昔と一緒だ」
俯いた芙美夏は、唇を強く引き結んだ後、口を開いた。
「ごめんなさい。功さん嫌がるってわかってたのに、記事……見たの」
「あんなのは」
「何でもないってわかってる。そんなことじゃなくて……」
功は、まだ葛藤しているように見える芙美夏が、自分で話し始めるまで待つ事にした。
「身体か冷える。歩きながら話そう」
そう言って握ったままの手をコートのポケットに入れ、ゆっくりと来た道を戻って行く。
何も言わずに歩いていると、ポツポツと芙美夏が話し始めた。
「あの写真を見た時……胸が、苦しくなった」
「……」
「写真を見て、すぐに思ったの。私……この人だったら、良かったのにって」
思わず立ち止まりそうになり、ポケットの中の手に力が入った。何かを口にして、彼女が吐き出そうとしているものを止めてはいけないと、辛うじて口は噤んでいた。
「私……功さんと一緒に……いたいって思ってる。思ってるのに……怖くて……。自分が何者なのか考えたら、心が揺らぐの。あのモデルさんなら、見た目だけじゃなくって、何も……引け目を感じなくてよくて、家柄も、何もかも。こういう人がきっと、功さんと釣り合いが取れるんだろうなって、そう、思えて……」
そっと横目で見ると芙美夏は、笑おうとして上手く笑えず、堪えるように唇を噛んだ。
「あの人だけじゃない。功さんと昔噂になってた人達も、功さんと……結婚するはずだった貴菜さん。……あの人のことも。思い出すと、苦しい。本当はやっぱりあんな人が、功さんには……相応しいって」
その言葉に、功は思わず足を止めつい口を挟んでしまった。
「何で彼女を知ってる?」
見合い相手の羽生貴菜と会っていた頃、芙美夏とは全くと言っていいほど接触を持っていない。
誰かがわざわざ芙美夏に教えたのだろうか。だがその可能性は少ない気がした。
芙美夏が顔を上げた。その表情を見た時、何故だか唐突に、あの頃生徒会長室の窓から見つめていた、倉庫裏に一人きりでいる芙美夏を思い出した。
一人じゃないと教えたくて、伸ばした手で頬に触れる。
冷たくなったそこを、指の腹でそっと撫でると、芙美夏はゆっくりとその手に頬を摺り寄せるような仕草をした。そしてどこか苦しそうな笑みを浮かべた。
「あの時……功さんを、ちゃんと忘れようって。自分の立場はわかっていたけど、でもちゃんとそれを思い知ろうと思って、調べて貰ったの」
「誰に、何を聞いた」
ただ首が横に振られる。
「本当は……こんな風に、卑屈な自分は嫌い……。だけど、私には自分が生まれた時から、根っこがないの。……私が、ただ生まれてきたことすら許せない人がいて、私は捨てられた子どもだった。多分死んでもいいって……いっそ死んでくれって、そう望まれた子どもだった。どこの……馬の骨ともわからないって、面と向かって言われたこともある」
搾り出すように吐き出される言葉に、心が軋む。芙美夏を引き寄せると、その身体を抱き締めた。胸が痛みに締め付けられそうだった。
周囲を行き交う人がこちらを見ている事も、今は気にならなかった。
「私……自分が誰だかわからない。……もしかしたら、私は、本当に生きる事が許されないほどの罪を背負って生まれてきたのかも知れない。……そんな人間が、功さんのそばにいてもいいのかな。一緒に、生きる夢を見てもいいのかな。功さん……あの人達の誰にも……私は、何も適わない。皆が普通に持っているものを……私は何も持ってない……そう思うのに……」
胸元から聞こえる小さな声が、慟哭のように胸に響く。
「芙美夏、もういい」
「なのに、私……功さんが……欲しいの。欲しくて、欲しくて堪らない。他の誰かのものになる功さんを、見たくない、見るのは、もう嫌」
「芙美夏……」
掠れる声で、初めて心の内を吐露した芙美夏の、身を切るような言葉が、抱きしめる功の胸に吸い込まれていった。