夜勤を終えてから、芙美夏は退園前に園長室に立ち寄った。
「どうぞ」
ノックをして中に入ると、机から顔を上げた園長が芙美夏を見遣る。
「香川先生。どうしましたか?」
「今、少しだけお時間を頂けますか?」
黙ってソファを示され、頭を下げてそこに腰かけた。
「昨日は、何事もなかった?」
そう尋ねながら、園長も椅子から立ち上がり、目の前のソファへと腰を下ろしす。
「はい。特にいつもと変わったことは。ただ、風邪気味かな、というような子が何人かいたので、念のため報告しておきました」
「そうですか」
他の施設と比べると、園長である城戸は、比較的年が若い。若く思えるのは、自分が大人になったからなのかもしれないが。子どもの頃は、園長のことを、絵本で見たおばあさんのようだと思っていたが、今になって考えてみれば、それほどの歳ではなかったように思う。
「それで、何か話が?」
城戸は、話を切り出した。
「あの……。大竹先生から、先生に何かお話がなかったでしょうか」
「ああ、大竹先生から。ありましたね、あなたとの事で。今後の予定というか……」
「そう、ですか」
やはり、大竹は園長にまで話をしていたのかと、溜息が出そうになる。話が広まる程、収拾をつけることが困難になる。辞職するにしても、後に残る大竹の事を考えると気が滅入ってしまう。
「僕は彼に、話が正式に決まっているのなら、君と二人で話をしに来なさいと答えました」
その言葉に、顔を上げて城戸を見る。いつもと変わらず穏やかな顔がそこにあった。城戸は、何かを知っているのだろうか。
「そのお話は……事情が変わって、私の全く個人的な勝手な理由で、お受けする事が出来なく――」
「最初から、そんな話は無かったのではないですか?」
「え?」
戸惑う芙美夏に向けて、城戸は口を開いた。
「実は、あなたにはとても申し訳ないことを話さなければならないのですが。あなたがこの園に就職すると決まったとき、二条家から私のところに接触がありました」
「二条から……ですか。じゃあ、もしかしてそれで私の就職が」
「ああ、違います。そういったことではなくて。あなたの就職に二条の口添えがあった、などということは全くありませんから、安心して下さい。そうではなくて、あなたは二条家にとって大切な恩人なので、何か大きな問題が起ってあなたが困った時には、知らせて欲しいと。それ以外にはあなたの生活に干渉するつもりもないし、こういう話があったこともあなたの耳には入れないようにお願いしたい。といったお話でした。二条家主催のチャリティーパーティーに出席したことがありましたので、実はそのお話をするためにお越しになった方とは、それ以前から面識がありましてね」
「もしかして、香川さん。ですか」
「ええ」
恐らくそうなのだろうと口にした香川の名に、城戸は頷いた。
「あなたは、自分の娘のようなものだと。今から考えれば、あのパーティの頃には、既にあなたはうちの園にボランティアに来てくれていた。パーティの会場でお話をした時には、あなたの事は何も仰らなかったが、わざわざ私に声を掛けて来られたのには、様子を伺うといった意図もあったのかもしれません。こちらにお見えになった時も、本当にあなたの事を案じているご様子が伺えた。ですから、私は香川さんの話を承諾したんです。あなたを娘のようなものだと仰ったのは『香川』さんで、孤児だと言っていたあなたの苗字は『香川』です。何らかの繋がりがあると考えるのが自然でしょう」
「それは……」
「そういったこともあって、あなたの事は少し注意深く見守っていました。もちろん、ボランティアをしていたとはいえ働き始めてからはまだ日も浅い、といった理由もあります。そうして見ていた私の主観ではありますが、見ている限り、あなたが大竹先生に対して特別な感情を持っているとは思えなかった。大竹先生は……あなたのことを想っているようでしたが」
答える言葉が、芙美夏には何も見つけられなかった。
「ですから、彼があなたとの結婚の話を持って来た時、どこか不自然だと感じました。これでも私は長年この仕事をしているんです。多くの人を見てきましたから、人より少しは見えるものもあるんですよ」
話を聞くうちに、唇を結び俯いてしまう。全てがお見通しだったのだと思うと、恥ずかしくて合わせる顔もない。
「申し訳、ありません」
「まあ、色々事情はあるのでしょうが。……香川先生は、ここを辞めるつもりですか?」
芙美夏は俯いたまま頷く。
「……はい」
「それは、大竹先生との事が原因で?」
「それも、ないと言えば嘘になります。でも、それだけではありません。私自身の、個人的な事情で東京に戻ろうかと思っています」
「そうですか」
「出来れば、ずっとここで働きたいと思っていました。本当に、勝手を言って申し訳ありません。年内一杯で退職させて頂きたいと思っています」
「そう。……ではもうあと二ヶ月と少しですね」
「何も出来ないまま辞めるのは、とても心苦しいです。子ども達のことも、心残りも、たくさんあります。折角採用して頂いたのに、申し訳ありません」
「短い間でしたが、香川先生は子どもの気持ちに寄り添う事の出来る稀有な先生でしたよ。とても残念ですが、あなたのような方が何らかの形で今後もこの仕事に携わることを個人的には望んでいます」
頭を下げて、詫びと礼を重ねた。そんな事しか言えないことが、本当に心苦しかった。
「あと暫くですが、変わらず頑張って働いて下さい」
「はい。宜しくお願いします」
結果的には、香川から話がいっていたことに助けられた。
自分の与り知らぬところで為されていた遣り取りに、複雑な気持ちもあった。けれど、香川が会いに来た時点で、既に芙美夏の動きが掴まれていることはわかっていた。そこに城戸が絡んでいたということに流石に驚きはしたが、もう今更さほどの戸惑いは感じない。
それに、力になりたいと思ってくれていた気持ちに嘘はないと、もう知ってしまっていた。
立ち上がり、部屋を後にしようと扉に手を掛けたところで、後ろから声が聞こえた。
「そろそろ、ですかね」
振り返ると、立ち上がった城戸が窓から空を見上げていた。立ち止まったままの芙美夏へと、静かな笑みが向けられる。
「もうそろそろ、雪が、降るかもしれませんね」
家に戻った芙美夏は、仮眠を取ってから、正式な退職願いを書いた。それから大竹へ、どうにもならなければ渡すつもりで手紙を綴った。
明日は功が来る日だ。
手を止めて、並べて飾ってある母と由梨江の写真を見つめる。
――戻ってもいい? 私、あの家に。功さんのところに、本当に、戻ってもいいのかな
笑みを浮かべるだけの二人の写真から視線を外し、携帯を手に取る。
「もしもし」
『もしもし、芙美夏か?』
まるで待ちわびていたかのように、すぐに、応答が返ってくる。
「……はい」
『変わりはないか?』
「はい、あの、私は変わりありません。月末に旦那様の事が発表されるって聞きました。ご容態は?」
『今は、少し落ち着いておられる。仕事の引継ぎはほとんど済んでいるから、もう養生なさるだけだ。また時間を見つけて顔を見せて差し上げてくれないか。旦那様も、芙美夏の事を随分気にしてらっしゃる』
「はい。あの……香川さん」
『ああ』
「……」
『どうした?』
「私……戻ってもいいでしょうか」
電話の向こうで、香川が息を呑む気配がした。
『勿論だ。いつでも帰ってきなさい』
「自分勝手に、あんな風に出て行っておきながら、私」
『そんなことは気にしなくて構わないから。芙美夏、今度は、香川芙美夏として帰っておいで』
「……はい」
返事を返す声が震える。
ようやく、どこか胸の支えが取れたように、気持ちが軽くなるのがわかった。
『功様は、喜んだだろう』
「あ、あの……まだ」
『言ってないのか?』
「はい。明日会った時に伝えようと思います。年内は、こちらで仕事をして。それからと思っています」
『そうか……。私が先に聞いたのでは、また功様の機嫌を損ねるな』
そう言ってどこか嬉しそうに香川が笑う。
『君の部屋は、君が出て行ってからも、和美が、いつ戻ってもいいようにと、ずっと綺麗にしているから』
「……はい」
頬を伝い、涙が落ちた。
「ありがとう……ございます」
二度と戻れないと。二度と会えないと思っていた。
それなのに、皆が自分を待っていてくれたということに。
懐かしくて、苦しくて、そして恋しいあの場所に戻るのだという事に。
帰る場所があるというそのことに。
胸が熱くなった。