ドイツの会社との業務提携の話が、ここへきて平行線を辿っている。双方の提示した契約の最重要条件が噛み合わずどちらもが引かないため、なかなか折り合いがつかない状態だった。
かなり大きなその取引の中心となっているのは、功を筆頭とした若手の社員で、現地に出向いていたプロジェクトチームが昨夜遅くに帰国し、変則的だが深夜近くに会議が始まっていた。
既成概念に囚われず、若くても優秀な人材や斬新なアイデアを積極的に取り入れようとする功が会社の中枢にいることに、当然ながら、登用される若手社員らは遣り甲斐を感じている。
頭の固い保守的な社員や年配の者の中には、当然それを面白く思わないものもいたが、確実に成果を上げている功のことを、今では少しでも仕事で関わりをもった社員達は、『所詮跡継ぎの飾り物』という目で見ることはほとんどなくなっていた。
深夜を回り、やはり皆の顔にも疲労の色が濃く浮かんでいる。どうにもならない閉塞感と疲れとで、ピリピリとした空気が漂い始めていた。
打開策を見いだせないまま、もう一度会議を開くまでに各自が条件の見直しをしておくように、との指示が功から出され、ようやく会議は終了した。
各々が帰り支度をし始めた時、携帯の振動音が功の机の上から聞こえた。僅かに眉根を寄せてそれを手に取った功の顔つきが、途端に柔らかなものへと変わる。
初めて目にする功の表情を、数人の社員が驚いたように手を止め、見つめている。
――芙美夏だ
功の顔つきを目にした途端、それが誰からの連絡なのか、淳也には手に取るようにわかった。
メッセージの返信をする功の様子を、周りの社員たちがチラチラと盗み見ている。それを気に留めることもなく、画面を見つめる功の顔に微かに笑みが浮かんだ。
「香川さん、専務あれって、誰と」
社員の一人が、ついに耐えかねたように淳也にこそこそと尋ねてくる。
「ああ、うん……」
「俺、専務のあんな優しい顔初めて見たんですけど。あんな顔することも、あるんですね」
その言葉につい苦笑いする。その時、携帯を伏せた功が、顔を上げて周囲を見渡した。
「悪いが、ひとつ打開策になるかもしれない案が浮かんだ。あともう少しだけ頑張れるか」
帰ろうとしていたメンバーが一種、えっ、と声にならない声を上げるのが手に取るようにわかる。けれど、半ば功の勢いに押されてではあっても、すぐに皆引き返し再び席につき始めた。
中には、淳也に助けを求めるような視線を送ってくる者もいたが。
笑いを堪え、その視線を黙殺し席に着きながら、淳也は携帯を取り出して、芙美夏へと素早くメッセージを打ち込んだ。
社員たちの戸惑いを余所に、功が提案した意見は、確かに双方にとって大した痛みを伴わず妥協出来る可能性が非常に高いものであった。道筋が見えたことで次第に会議は熱を帯び、短時間で濃密で有意義な話し合いが進行した。
程なく会議が終わり、皆が先程とは違い満足げに引き上げて行く中、先ほど、功が遣り取りをしている相手がだれなのかと問うた中田が、淳也の前で足を止めた。
「あの、もしかして専務があれを思いついたのって、さっきのメッセージがきっかけですか?」
淳也は彼を見つめて笑った。
「そうかもな」
「誰なんですか?」
「気になるか?」
「そりゃ、まあならないと言えば嘘になります」
「功さ……、専務に直接聞いてみろよ」
「いや、ちょっとそれは」
「専務、中田が、メッセージは誰からかって聞いてますよ」
「えっ、いや、あの何でもあり――」
書類に目を通していた功が、ふと顔を上げた。顔を引きつらせていた中田は、功を見て、思わず言葉を呑み込んでしまったようだ。柔らかな表情を向けた功に、思わず同性ながら見とれてしまいそうになる。
脳裏に誰かを思い描いているのだろう、功の口元に微かに優しげな笑みが浮かかぶ。
「あのっ……いや、もう、わかりました」
功が何かを答える前に、そう言って顔を赤らめる中田を淳也がからかうように小突いた。
「お前、何照れてるんだ」
「いや、何っていうか……あれだけであてられた感じです」
そう言って、二人に頭を下げ慌てて会議室を出て行く中田を見送ると、淳也が功の元に近づいた。
「みい、何を言ってきたんです?」
「内緒だ。もったいなくて言えない」
「随分ですね。まあ、いいですが。お陰で契約が上手く行きそうですし。それにしても、みいは凄いですね。メッセージひとつで、こんな風にあなたを動かすんですから」
「そうだな」
「これからは困った時は、芙美夏にメッセージを送るよう言いましょうか」
笑う淳也を、功が真剣な眼差しで見つめた。
「淳也」
「はい」
先程までとは違い、功の表情が曇る。
「芙美夏は、あの記事を見てると思うか」
「どう、でしょうね。けど、みいなら、本当の事はわかってくれてますよ」
「そうであって欲しい。芸能人でもない俺が、何であんな……。流石に俺を張ったりはしてないだろうけど、そんなことになったら、芙美夏に迷惑が掛かるかもしれない。気を付けておいてくれないか」
「わかりました。でも功さん……」
「何だ」
「あんな風に惚けた顔、社員にあまり見せないように気をつけて下さいね」
含み笑いをしながら忠告するのを聞き流し、功も席を立つ。深刻ぶらない淳也の反応のお蔭で、少しだけ、気持ちが楽になっていた。
「さっきの条件で、上手く纏まるといいですね」
「大丈夫だ、今度こそ纏めてみせるよ」
淳也は、自信ありげに頷いてみせた功と、今後のスケジュールについて話し合いながら、人気のなくなった会議室を、最後に後にした。