本編《Feb》

第四章 居待月15



『もしもし、みい』
「淳ちゃん?」
 功が部屋に泊まってから10日程経った頃、勤務前に淳也から電話の着信が入った。
『元気か』
「うん、淳ちゃんも」
『ああ、まあ……』
「どうかしたの?」
『いや、ちょっと』
 淳也は、何かを言いあぐねている様子だった。
「何か言いにくいこと?」
『えっ? うん、まあ、ちょっとな』
「功さんの、こと?」
『……うん』
「何? 言って。大丈夫だから」
『あのな、みい……。みいは信じたりしないって思ってるけど』
 何のことだろうかと怪訝に思いながら、しばらく続きを待ってみた。
『実は、功さんの記事が週刊誌に載るんだ』
「記事、って」
『くだらないゴシップ記事だよ。押さえようとしたんだけど、間に合わなくて。ひと月ほど前、功さんが旦那様の代理でどうしても顔を出さなきゃならないパーティがあって、そこに来てたモデルと一緒のところを撮られたみたいで』
「……そう」
 無意識のうちに、胸元を握り締めていた。見知らぬモデルの女性と寄り添う功を頭の中で想像してしまい、慌ててそれを振り払う。
『もちろん全く関係なんかないし、写真もたまたま二人で話しているところを、離れた場所から撮ってるって感じなんだけど、どうも誰かが仕込んだっぽくて』
「そう……」
『功さん、今ただでさえ色々あって忙しいし、こんな下らないことで煩わせたくないんだ。普段ならあんな記事なんて気にもしないし相手にもしないだろうけど、今は、ほら。……みいの事があるから』
「え?」
『口には出さないけど、この記事をみいが目にするんじゃないかって、多分凄く気にしてる。ここ数日、無茶苦茶機嫌が悪いんだ』
 参ったような声を出す淳也に、つい少し笑ってしまう。
『見ても気分いいこと書いてないから、見ないでやって貰えるかな。功さんは本当に今はもうお前だけだよ。いや、今だけじゃない。ずっと昔から、本当はそうだ。だから、疑ったりはしないであげて欲しいんだ』
「うん……大丈夫」
『何も知らずに目にしたら、みいが嫌な気持ちになるかもしれないから、耳に入れておくな』
「うん、ありがとう」
 暫く、藍の事や淳也の仕事の話、永や香川の話を聞いたあと、通話を終えた。

 きっと忙しいのだろう、あの日の朝別れてから、功からの連絡は数度あったきりだ。こちらからも都度返事をしたきりで、それ以上の連絡は取っていない。
 大竹はあれから、仕事中はこれまでより頻繁に話し掛けてくるのに、それ以外では明らかに顔を合せることを避けていた。結婚が決まったという話を、更に広めている様子は伺えないが、職員の間では既に周知のことらしく、芙美夏は数人の先生から「おめでとう」と声を掛けられていた。
 曖昧に返事をしながら何とかやり過していたが、仕事以外ではどこかぎこちない二人に、流石に周囲も不自然な空気を感じ始めているようだった。
 ――喧嘩でもした?
 そう直接探りを入れてくる先生もいる。
 和田と浅井もフォローに回り誤魔化してくれているような状況が続いていた。
 そんな問題を抱えながらも、忙しなく日々が過ぎていく。

 功から、週末にそちらに行きたいと連絡があったのは、淳也から電話があった翌日のことだった。土曜日の夕方、空港に着くという。
 手帳を開いてシフトを確認し、芙美夏は空港まで迎えに行くことにした。
 電話の向こうの功の声は、やはり少し疲れて聞こえる。早く会いたいという功の言葉に、胸が締め付けられるようにドキドキした。
 その日、夜勤のため夜から園に出た芙美夏は、引き継ぎの後、大竹に呼び止められた。立ち止まると、何も言わずカバンから取り出したビニールの袋を押し付けてくる。
「え?」
 戸惑って見上げた芙美夏に、皮肉げな笑みが向けられる。
「大した奴だね」
 一言だけ投げ捨てるように口にした大竹の言葉に、芙美夏はハッとした。目を逸らした大竹はそれ以上は何も言わず、声を掛けても立ち止まることなく、帰って行った。

 夜間の見回りが終わり、ひと息つける時間になると、芙美夏は一人になれる場所に向かい、大竹に手渡された物を袋から取り出してみた。予想した通りそれは週刊誌だった。
 淳也の警告通り、見てもいいことなんてないとわかっていながら、気が付けばページを捲っていた。
 寄り添う男女の、どうとでも取れる映りの悪い写真。その横に、モデルの女性と功のそれぞれの写真や経歴が掲載されている。
 最近テレビでもみかけるようになったその女性は、外交官の父とフランス人の母を持つハーフのモデルで、年齢よりも大人びた雰囲気の、とても魅力のある女性だった。
 記事は読まずに雑誌を閉じる。見てしまったことを、芙美夏は酷く後悔した。
 功が今、どれ程忙しい中で、自分に会いに来てくれているか、知ってるはずなのに。
 功の気持ちを思うと苦しくなった。恐らく、芙美夏を傷付けることを一番恐れ苦しんでいるのは、功の方だ。こんなことで今の彼を煩わせるこの記事に、静かに憤りを感じる。
 確かに、誰が見てもお似合いの釣り合いの取れた二人に、嘘だとわかっていても心のどこかが痛む。軋むような痛みが、芙美夏の一番触られたくない場所を刺激する。
 けれどそれよりも、功のことが気懸りだった。
 携帯を取り出す。時刻は午前1時を回っていた。だが恐らく功は、まだ自宅か会社で仕事をしてるはずだ。
『私も、早く会いたいです』
 さっきは口にできなかった言葉をメッセージに打ち込んで、送信する。ほとんど間をおかずに返信が届いた。
『今、電話していい?』
 笑みを浮かべながら返事を打つ。
『ごめんなさい。すぐ勤務に戻るから』
『目が冴えた…』
『お仕事頑張って。でも、無理しすぎないで。おやすみなさい』
『芙美夏も。仕事頑張って』
 メッセージの送信を終えて、手にしたそれを胸に当てる。痛みが、ほんの少しだけ引いた気がした。
 雑誌は袋へと戻して、廃品置き場に回りそれを捨てた。

 ――ここを、辞めて戻ろう
 これまで、迷い悩み続けていた。けれど本当は、とっくに答えなど出ている。
 きっと、この不安はどこにいてもついて回る。それでも、手放すことの方が苦しいと知っているから、それなら選ぶ苦しさを今度は取ってみようと、芙美夏は言い聞かせるようにそう決めた。
 ポケットの中で、携帯が震える。送信者を見ると淳也からのメールだった。
『みい、功さんに何て言った? 急にテンションが上がって、スタッフが皆戸惑ってるぞ』
 思わず吹き出しそうになる。
 返事を打たずに、そのまま携帯の電源を落とした。



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