本編《Feb》

第四章 居待月14


 廊下に出た芙美夏は、詰めていた息をそっと吐き出して、足早に大竹の姿を探して回った。
 途中ですれ違った職員に尋ねて、ちょうど、食堂で朝食の支度をしている大竹を見つけた。
「大竹先生」
 部屋の入口から声を掛けると、数人の子ども達が、芙美夏と大竹を交互に見遣る。
 聞こえていただろうに、大竹は気付かない振りをしているようだった。
「おはよう」
 芙美夏は、コチラに視線を向けている子どもたちに声を掛けた。当番の中でも年長の子どもが、大竹の袖を引く。
「先生、芙美ちゃんが呼んでるよ」
「ちゃん、じゃなくて先生だろ」
 流石に子どもを無視することも出来ず、大竹はそう口にしてから、ようやく芙美夏へと視線を移した。
「少し、いいですか」
「今、手が離せないんだけど。ここで話してくれるかな」
 すぐに視線を逸らし作業を続ける大竹と、立ち尽くしている芙美夏を、子どもたちが戸惑ったように見ている。そろそろ皆が食堂に出てくる時間だと思うと、焦りが募る。
「大竹先生、5分でも構いません。お願いします」
 頭を下げると、子ども達が騒ぎ始める声が聞こえてきた。
「とも先生が芙美先生泣かせてる」
 中のひとりがそんな風に囃し立てるのを聞いて、大竹は小さな舌打ちをすると、手にしていた食器をテーブルに置いた。
「何でもないから、続けてろ」
 子ども達に声をかける大竹に少しホッとしながら、芙美夏も泣いてないよ、と笑みを向ける。
「5分だけなら」
 目も合わさず面倒そうに溜息を吐いた大竹は、それでも、諦めたように食堂から出てきた。
 
 大竹を伴い、芙美夏は人気のない非常口へと向かった。
 機嫌の悪さを隠そうとしない大竹は、非常口を開けて階段の踊り場に出ると、ドアに凭れ腕を組んで、ようやく芙美夏へと視線を向けてくる。
「大竹さん、私と、結婚するって……本当にそんなことを言ったんですか?」
 黙ったままの何も答えようと来ない大竹に、もう一度問い掛ける。
「どうしてそんな事」
「……」
「私、大竹さんとは結婚出来ません。好きな人が……いるんです」
 見たこともないような気怠そうな笑みが、大竹の顔に浮かんだ。
「知ってるよ。だったら言えばいい。片っ端から否定して回ればいいよ。大竹が勝手に付きまとってるって。困ってるって皆に言って回れ。俺は、取り消すつもりないから」
 言いながら大竹は、芙美夏から視線を逸らし大きく溜息を吐いた。
「ごめんなさい……自分勝手なことを言ってるって、わかってます。けど……もう終わりにして下さい。すみません。私を許せないなら、許さないで下さい。ごめんなさい、どうしても忘れられない人がいるんです。だから、あなたと、生きて行く事は出来ません」
 それしか言えなかった。謝りながら、深く頭を下げる。
「終わりって……いつ始まった? 君にはさ、俺が馬鹿みたいに見えるんだろ? 勝手に好きになって、相手にされてもないのにひとりで空回って、嫉妬してこんな嫌がらせに嘘をついて。お陰で仕事も子どものことも上の空だ。でも、俺は君を5年も好きだったんだ。今更、はいわかりました、って簡単に引き下がれるはずないだろ。他の誰かになんて目が行かないんだ。こんなになっても、やっぱり君を好きで、あんな奴に持っていかれたくないんだよ。君が……誰を好きかなんてどうでもいい」
 首を横に振った芙美夏は、唇を噛んだまま顔を上げた。
 笑っているのに、苦しくて泣きそうな顔をした大竹がそこにいた。無言のまま芙美夏に手を伸ばした大竹に、避ける間もなタートルネックの襟を引っ張られる。
「大竹さっ」
 芙美夏が大竹の意図に気づいた時には、もうその目的を果たしたのか、襟に掻けていた指は放されていた。
 思わず、襟元を押さえる。
「ほら。やっぱり昨日、あいつがいたんだろ」
 皮肉げな口調の大竹に、何も言い返すことができずにいた。何を言ったところで、言い訳にしかならない。
「昨日、出勤前にアパートの前を通りかかったら、君の部屋、明かりがついてた」
 襟元を握り締めた芙美夏は、頬を強ばらせたまま大竹を見つめていた。
「部屋にいるんだろうと思って出勤したら、君はここにいた。驚いたよ、電気を消し忘れたんだって思おうとしたけど、わかったんだ。きっとあいつが部屋に居るんだって」
「……それは」
「あの時間まであそこに居たなら、東京には戻ってないってことだろ。君は……昨日あの男が居るのかっていう俺の質問を否定した。俺は君を試したんだよ。そしてわざと君に印をつけてやったんだ」
「違いますっ、あの時は」
「どうでもいい。嘘をついているのも、何も話してくれないのも君だ。どうにもならないってわかってるけど、物分りのいい振りをするつもりはないから。……5分だ」
 大竹はそう告げると、険しい表情を浮かべたまま、声をかける隙もなく非常口から中へと戻っていった。

 取り付く島もなかった。
 芙美夏は、額に手をやり、小さく息を吐いた。
 結局、自分では何も解決出来ないのだろうか。やはり、ここを辞めなければならないのだろうか。
 もう、それしか打てる手はないような気がした。このままでは、本当に子どもたちにさえ影響を及ぼしてしまうかもしれない。
 また逃げるように出て行く事になるのか。気がかりな子どもたちも、たくさん居るのに。
 功の手を取るならば、いずれはここを辞めなければならない。それはわかっている。けれど、そう決める時が来るとしても、それはもう少し先でありたかった。もう少し続けたかった。まだ、始まったばかりだったのだ。
 唇を引き結ぶと、芙美夏は自分を叱咤するように頬を叩いた。
 辞めるにしてもそうでないにしても。今、自分がここですべき事を、しなければならないと言い聞かせる。
 非常口を後にして、咲の元へと向かいながら、すれ違う何人かの子どもたちと、笑顔で挨拶を交わし、いつもと変わった様子はないかと一人一人の顔色を伺う。
 この場所にいる間は、子ども達のことを一番に考えるべきだと、芙美夏は気持ちを仕事へと切り替えるように、強く意識した。

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