唇が離れた瞬間、また功と離れ離れになるのだと胸が軋んだ。もう会えないわけじゃないと、わかっているのに。
口を引き結び、泣きそうになるのを堪えて、顔を上げ笑顔を見せる。
「気をつけて、帰ってね」
「ああ。芙美夏も仕事頑張って。咲ちゃんが、何ともないといいな」
優しい眼差しでそう返す功に頷く。助手席のドアを開けて車を降りようとした時、功に呼び止められた。
「芙美夏」
「なに?」
「あいつのこと。どうしようもなくなったら、ちゃんと俺に助けを求めて。仕事じゃなかったら、本当はあいつのいるところに君を行かせたくないくらいなんだ。それから、話をするなら無防備に2人きりになったりせずに、絶対にどこか人気のある場所を選んで」
笑顔を消した厳しい顔を正面に向けたまま、功が少し強い口調でそう言った。
「大丈夫」
「芙美夏、思い出すのも嫌だろうけど、いざとなったら男の力には適わないことは、分かってるだろ」
功の言葉に、過去が頭を過り僅かに頬が強張るのを感じた。
「大竹さんと……まあくんは違うから」
答えながらも、昨日、園の中でされた事を思い出すと少し身体がざわつく。
だが、ここは子どもたちが生活している場所だと芙美夏が言ったとき、大竹は確かに我に返った。我に返って後悔していた。大竹が、子どもたちを大切に思う気持ちは本物だ。彼の周りに多くの人が集まり、信頼を寄せるに足りるだけの人だ。
芙美夏に寄せる大竹の気持ちも、本物だとわかっている。だから尚更、そんな大竹を傷つけた自分が、彼の苦しみをちゃんと受け止めなければならないと思っていた。
独り善がりかもしれなくても、自分だけがそこから逃げ出すことは出来ない。何を言われても、自分の感じる痛みより、彼の方がずっと苦しいはずだ。それを、功に任せて自分が傍観者になるわけにはいかない。それに、何もかも、功がいなければ解決出来ないのでは駄目なのだ。
そんなことを考えている芙美夏の隣で、功が、溜息混じりの呟きを零した。
「わかってないよ、芙美夏は」
何も言えずにいる芙美夏の横で、功が、シフトレバーをドライブに入れた。
もう一度礼を伝えてから車を降り、ドアを閉めるとすぐに、窓が下げられる。
「芙美夏」
少し屈んで運転席を覗き込むと、やはり懸念を隠せない表情を浮かべた功が、芙美夏を見つめていた。
「とにかく、気をつけて」
再び言い聞かせるように口にした功は、また連絡すると、最後に芙美夏を優しい目で見つめてから、顔をフロントガラスへと向けた。
動き始めた車を、手を上げて見送る。ひとつだけ軽くクラクションを鳴らして、すぐに道を曲がるとそれは見えなくなった。
ゆっくりと手を下ろしてから、寂しさを振り払うように、園に向かって歩きだした。
* * *
真っ先に医務室に向かった芙美夏が扉をそっと開けると、机に腰掛けノートをつけていた和田が振り返った。
「おはよう、早かったのね」
「おはようございます、咲、どうですか?」
部屋に入りながら、ベッドに眠る咲を見やる。
「昨夜一度だけ、目を覚まして泣き出したけど、大丈夫。少し熱が出てるくらいで、昨夜は吐き気や頭痛は訴えなかった。すぐには安心できないから、まだ二、三日は様子みだけど」
頷いて、ベッドサイドに座る。
「そういえば聞いたわよ。早いけど、おめでとうって言っていいのよね」
和田の言葉を怪訝に思い顔を向けると、楽しそうなからかいを含んだ表情で微笑んでいる。
「まあ、何となくはわかってたんだけど。大竹先生、結構わかりやすいし」
「あの……おめでとうって」
問い詰めようと立ちあがろうとしたとき、小さな泣き声が聞こえた。振り返ると目を覚ました咲が、ベッドでぐずり始めている。
「咲」
近づいて優しく頭に手を当ててみた。
「おはよう。頭、痛い?」
ベッドに起こした咲の小さな手を、そっと握る。しゃくりあげながら「うん」と小さく頷いている。
「どこが痛い?」
もう一度確かめると、小さな指が、縫った額を指し示した。
「ほかは? どこか痛い?」
「ふみかせんせ」
抱きついてくる咲をあやすように、背中を撫でる。
「どこか痛いところがあれば、我慢せずにちゃんと先生に教えてね」
そう言って咲の顔を見るが、顔色も悪くないしもう泣き止んでいる。寝ぼけていたのと昨日のショックで、目が覚めたとき少しパニックになっていたのだろうと、近寄ってきた和田が声を掛けてきた。
「ふみかせんせ……お腹すいた」
小さな声で内緒話をするように芙美夏の耳に話しかける咲は、少し落ち着いたのか、さっきまで泣いていたのが、嘘のように、すぐに立ち上がろうとさえする。思わず、芙美夏の顔にも笑みが浮かんだ。
「咲、今日は学校はお休みしようね。今日一日はまだ、なるべくじっとしていて」
しばらくそうして咲をあやしていると、和田を呼びに来た浅井が医務室に顔を出した。浅井は芙美夏より十歳年上の、中堅の職員だった。ボランティアでこの園に来ていた時に、多くのことを教えてくれた先生だった。
「あれ、芙美先生今朝は早いのね。ああ、そうか、咲?」
腕の中にいる咲に気が付いて、浅井はこちらに近付きながら「どう?」と心配そうに覗き込んでくる。
浅井はどうやら和田を呼びに来たらしく、咲の手を優しく撫で声を掛けてから、すぐに連れ立って部屋を出て行こうとした。
「芙美先生、少しここお願い」
「はい」
和田に答えた芙美夏へと、一度背を向けた浅井が「あ」と、何かを思い出したように視線を向けくる。
「そうだ。おめでとうだったわね。水臭い。まあ、言わなくても、あの子の態度見てればわかりやすかったけど」
そう言って浅井は、可笑しそうに和田と顔を合わせて笑っている。
「待って下さい。あの、さっき確か和田先生も仰ってましたよね、おめでとうって、何がですか?」
戸惑いを隠せず問い掛ける芙美夏に目をやり、二人はもう一度互いの顔を見合せる。そうして、二人して何かに気が付いたような顔をした。
「もしかして、芙美ちゃんはもう少し先に皆に言うつもりにしてたとか?」
「大竹君、嬉しくて黙ってられなかったんじゃない」
二人は納得したように頷き合うと、開きかけていた扉を閉めて芙美夏に近付いた。
「大竹君を叱ったらダメよ。かわいいものじゃない」
「何がですか……先生。大竹先生が何を」
嫌な予感がして顔が強ばる。ようやく芙美夏がとぼけているわけではなさそうだとわかったのか、二人も怪訝な顔をした。
「大竹君と結婚するんでしょ。彼、夕べ嬉しそうに、夜勤のメンバーにそう話してたけど」
「大竹先生と、私が?」
和田も浅井も、眉根を寄せた同じような顔で芙美夏を見つめた。
「え、ちょっと待って。違うの?」
「だけど大竹、今朝園長が来たら、媒酌人を頼むとか言ってたよ」
「もしかして芙美ちゃん、まだ返事してないの?」
「大竹が勘違いするようなこと言ってない?」
畳み掛けるように尋ねられても、頭が混乱して小さく首を振る事しかできない。腕の中にいた咲が身じろぎ、口を噤んだ三人の顔を順番に大きな目で見渡してから、芙美夏に目を止めた。
「ふみせんせ、ともせんせいのお嫁さんになるの?」
屈託なくそう尋ねる咲は、ビー玉を見る時のような目で芙美夏を見つめる。芙美夏は目を逸らせないまま、何も言えずにいた。
「芙美先生、大竹君呼んでこようか?」
今度こそ二人は戸惑いを隠せない声で問い掛けた。
「いえ……。私が探します」
そう答えると二人へと視線を戻す。
「すみません、しばらくは何も言わないで貰えますか。大竹先生に聞いたこと以外は何も知らない事にして下さい。お願いします」
強張った顔で二人に頭を下げる。
「咲。芙美先生はお嫁さんになるわけじゃないんだって。ごめんね、先生間違えちゃった」
和田がすかさずそうフォローするように声をかけながら、咲を抱き取ってくれる。その間に、浅井が芙美夏を手招いた。
「ねえ、何か二人、おかしなことになってるの?」
「いえ……すいません」
「芙美ちゃん、大竹と付き合ってるのよね?」
芙美夏は答えあぐねて、目を伏せた。
「違うの? もしかして一方的に付きまとわれてるとか……考えたくないけどストーカーみたいなこと、されてるの?」
ハッとして、慌ててそれを否定した。
「違います。はっきりしない私が悪いんです。申し訳ありません。職場にこんな個人的な問題を持ち込んでしまって」
頭を下げて謝罪しながら、頭の中は混乱していて、何度も冷静になれと自分に言い聞かせなければならなかった。
「そんなの、他人と一緒に仕事をしていく上では、人との間に色んな摩擦が起こるのは誰にでもあることだから構わないけど。本当に大丈夫なの? なにか困ったことになってるんじゃない?」
「ちゃんと話をします」
「それでどうにかなるの? 大竹がいい子だっていうことはわかってるし、彼の評判を落としたくないっていう気持ちもわかるけど。事が男女のことになると、理性でどうにもならないこともあるでしょ。大竹、あなたと上手くいかなくて自棄になってるんじゃないの?」
「……い、え」
「仕方がないとは言っても、事が大きくなればあなたたち二人だけの問題では済まなくなることもあるから。わかってるだろうけど、流石に、子ども達に影響するような事態になるのは困るし」
芙美夏は神妙に頷いた。
「わかっています。申し訳ありません」
「どうにもならないようなら、取り返しがつかなくなる前に、ちゃんと相談するのよ」
厳しいながらも、声色に芙美夏のことをを憂える気持ちが感じられて、居た堪れなくなる。
「咲はみてるから、大竹を探して先に話をして来なさい」
そう言われて、二人にもう一度深く頭を下げる。
和田が心配そうに芙美夏に視線を送るのに頷いて、二人が咲に構ってくれている間に、芙美夏はそっと部屋を後にした。