目を覚まして時計を見ると、まだ朝方5時少し前だった。いつもより少しだけ早い時間だが、夕べは本当に久しぶりによく眠ったので頭がすっきりしている。
芙美夏を待ちながら、彼女の存在を感じる部屋で一人で過す間、功は、何かが剥がれ落ちるような感覚で、自分が寛いでいるのを感じた。心が解放されたように、無防備になっていた。
そうして、気がついた時には、芙美夏がペットボトルを手にこちらを見ていたのだから、我ながら呆れてしまう。
目の前で眠る柔らかな身体を抱き寄せようとして、手を止めた。触れるだけで止められる自信がない。昨夜はよく制止できたものだと、自分自身の理性に、功は自分で安堵していた。
狂おしいほどに欲する気持ちはいつでもここにある。だが、嫉妬で我を失い芙美夏を押さえつけたあの日のような気持ちで、彼女の意思も曖昧なまま、身体だけを手に入れるようなことは、もうしたくはなかった。
静かに身体を起こしてから、眠っている芙美夏を起こさぬように、かがみ込んでそっとこめかみにキスを落とす。離れ難く思いながらも、淳也の顔が思い浮かび、苦笑いしてそっとベッドを降りた。
胸の奥には、大竹の言葉が確かに小さな棘のように刺さっていて、ここ数日はずっとそれが功を悩ませていた。少なくとも大竹の発言を芙美夏が否定しなかったからには、二人は一緒に旅行に行くような関係だったということだ。
だが、再会した時から、芙美夏の視線の中にも、あの夜、功の腕の中にいた時と同じ気持ちが垣間見える気がして、それをどうにか拠り所にしていた。
功が繋いだ手を、芙美夏は振り解こうとしなかった――
それだけを頼みに、芙美夏に会いに来ることを続けていた。
昨夜彼女が、大竹との関係を否定したことで、功を悩ませていた棘がようやく抜け落ちはしたが、それでも、功を忘れるために、そのために誰でもいいから身を任せようとしたという芙美夏の言葉に、内心ではかなり動揺していた。
間に合ったのは、ある意味大竹が本気で芙美夏を愛していたからだ。二人きりで旅行にまで出掛けた女の拒絶を、簡単に受け入れない男もいる。もしも強引に事を進められていれば、芙美夏はあの男と――。
皮肉な事だが大竹の想いに、芙美夏も功もある意味では救われた事になる。だからといって大竹に芙美夏を譲る気などもちろんない。想いを確かめた今では、それは尚更だった。
洗面所で顔を洗い、冷蔵庫から水を取り出すと、辺りを見回す。
二条の屋敷のキッチンは、調理台だけでこの台所くらいの広さはありそうだと、苦笑する。何もかもが小さなこの部屋を、シンクに凭れながら暫らくの間、ぼんやりと眺めていた。
ここでご飯を作っていた芙美夏を思い出す。夕べは、ほんの十分程で、簡単な食事を用意してくれた。スープもインスタントだと申し訳なさそうに芙美夏は言ったが、それでも、仕事としてでなく自分の為に作られた食事はこの上なく美味しかった。
今まで食べた中で一番美味しかった、と芙美夏に言った言葉に嘘はない。口にするものが美味しいと、初めて感じた気がする。
誰かの――芙美夏の気配を感じることが出来る空間、それに心地よさと安堵を覚える。二条の家は広過ぎて、大勢の人がいてもどこか人の気配を感じさせない。
テーブルの前に腰を下ろしPCを開くと、何通も届いているメールの中から、淳也からの連絡を先に確認した。10時発の飛行機が手配されているため、8時頃にはここを出なければならない。
『お早うございます。良く眠れましたか? 本当にちゃんと寝たんでしょうね?
みいに対しては、功さんの理性は当てにならないので心配です、勿論みいの事が。
昨日からの仕事の皺寄せで、今晩は眠れないと思っておいて下さい。
でも、昨夜は功さんのお陰で、みいと話すことが出来ました。それには、感謝しています。
答えてもらえないでしょうが、敢えてお聞きします。
昨日のは、計算ずくですか?
仕事のメールは別に送ります。これは完全なプライベートという事で』
今日のスケジュールを確認するものとは別に届いていたのは、そんな内容のメールだった。目を通しながら、笑みが浮かぶ。
返事を打とうとして、功は書きかけた言葉をすぐに削除した。
もちろん意識しての計算などではない。けれど、芙美夏のそばにいたいという願望はいつでも胸の中に存在している。こんな失敗は今まで一度もしたことがなかった。無意識のうちに、緊張が緩んでしまっていたのだろう。
意識を切り替えるように、各部署からのメールや秘書からの連絡事項を伝えるメールや資料に次々に目を通し、必要な指示を送る。今朝は集中力がいつもより高い。短時間で処理を終えると、新しい事案のプレゼン用資料のチェックに取り掛かった。
しばらくその作業に没頭するうちに、隣の部屋から物音が聞こえ、時間を確認すると6時になっていた。
扉がそっと開かれる。寝起きの、昨日より幼く見える芙美夏が顔を覗かせた。
「おはよう」
「おはよう……ございます」
功が声をかけると、視線を少し俯けた芙美夏から、どこか照れたような声が返ってきた。まだぼうっとしているように見える芙美夏がキッチンの方へ向かう姿を見ながら、自然と顔に笑みが浮かぶ。しばらくすると、隣室から功に呼びかける声が聞こえた。
「功さん、何時頃にここを出ますか? 私、昨日の子が気になるから、7時過ぎには出ようと思って。遅くてもいいなら、鍵をおいて行くから」
「じゃあ、俺もその時間に出て、芙美夏を送って空港に向かうようにするよ」
少し考えてからそう返事をすると、顔を覗かせた芙美夏は、どこか浮かない表情を見せていた。
「あの……昨日夜勤で、今朝は大竹さんがいるから」
寧ろ好都合だと言いたかったが、芙美夏の立場も考えなければならない。それならば近くまで送ると妥協し、彼女を納得させた。
「朝ごはん、簡単なものしか出来ないけど、食べる?」
頷くと、今度は少し嬉しそうにはにかんだ芙美夏が功に背を向けた。その顔をもっと見ていたかったと思いながら、指を動かしていると、やがて、キッチンから小気味よい包丁の音、水を流す音や何かを炒める音がしてきた。漂い始めた香ばしい匂いに空腹を自覚すると、誘われるように立ち上がり、キッチンで忙しなく動く芙美夏に声をかけた。
「何か手伝うよ」
芙美夏が、驚いた顔で振り返る。
「もうすぐだから、座って待ってて」
「いいから、やらせて。これでも少しは出来るんだ」
言いながら、返事を待たずに狭いキッチンに二人並んで、芙美夏と共に朝食の支度を整える。
ほんの15分程で、トーストにサラダ、オニオンスープ、ヨーグルトにスクランブルエッグ、軽く焼いたハム、コーヒー、芙美夏がお気に入りだというバターとジャムが食卓に並んだ。
向かい合って、早速食べ始める。かなり空腹だったようで、功はあっという間に食べ終わると、頬杖をついて目の前で食事をとる芙美夏を見つめた。
「功さん……」
「何?」
「あの、じっと見られてたら食べにくい」
笑みを浮かべながら、目を伏せた芙美夏の唇についたヨーグルトを拭った指を、口元へと運び舐めると、芙美夏が恥ずかしそうに功を見遣った。
「ついてた?」
「ああ」
どんな表情もどんな仕草も、少しも見逃したくないと思ってしまう。会えなかった5年――いや、自ら遠ざかるように会わなかった時間を全部取り戻したいと貪欲に思う自分がいて、その欲求を押さえ込むのは大変だった。
「ご馳走様」
芙美夏が食べ終わるのを待って、そう口にする。
「足りた?」
少し考えてから、功は「足りない」
と答えて、テーブル越しに身を乗り出すと、何か言おうとした芙美夏の唇に軽く口付けた。
「……もう」
顔を薄っすらと赤らめながら、芙美夏は、満足気に笑みを浮かべた功を軽く睨む。
「時間、余り無いから功さんも、用意して下さい」
立ち上がった芙美夏が手をかけようとした皿を、先に取り上げた。
「俺はほとんど支度する事ないし、芙美夏こそ用意しておいで。こっちは片付けておくから。……そんな心配そうな顔しなくても、皿くらいなら洗えるから。ほら、早く」
躊躇う芙美夏を急かすように、食べ終わった食器をキッチンのシンクへ運ぶ。
「……ありがとう」
そう言うと彼女は、着替えと身支度のために、ベッドのある部屋へ入っていった。
* * *
「ここで」
園まで徒歩五分程度だという、芙美夏が指定した場所で車を止める。完全に停車すると、シートベルトを外す音が助手席から聞こえた。
「ありがとう。それから……昨日はごめんなさい」
「謝ることないよ。その分、収穫があった」
「えっ?」
「昨夜、芙美夏の本音を聞けた。もう……遠慮するつもりはないから」
功を見つめた芙美夏の頬を、そっと撫でる。
「功さん……」
やはり、恥ずかしそうに、そして迷うように伏せられた顔を、指で持ち上げた。
「芙美夏、俺を見て。また、しばらく会えなくなるんだ。ちゃんと顔を見せて」
その言葉に、芙美夏の瞳が少し揺れる。濡れたような瞳が功を見つめた。
「また来るから」
そうして、耳元に唇を近づける。
「今度は、もう途中でやめたりしない」
声と吐息に、芙美夏の身体が小さく揺れる。そのまま唇をスライドさせて、座席に押し付けるように彼女のそれに重ねた。
しばらく味わうように舌を絡めて、名残惜しく思いながら、ゆっくりと顔を離す。
「そんな顔、絶対に俺以外の男に見せるな」
芙美夏にこんな顔をさせているのが自分だと言うことに満足しながらも、園には大竹という男がいることを思い出し、功は自分が彼女に小さな熱を灯したことを少しだけ後悔した。