呟くような声でそう口にした功の唇が、芙美夏の唇を掠めて動く。功のシャツの袖をぎゅっと握り締め、芙美夏はそっと目を閉じた。
待ち望んだものを与えるように、ようやく唇が重なる。何度も啄ばむように小さなキスを重ねてから、芙美夏の腕が肩に回されると、功はそっと唇をなぞるように舌を這わせた。
「開いて」
欲を滲ませた低い声に、顔が熱くなる。
「や、」
つい首を振って顔を下げようとするのを許さないかのように、下から、僅かに開いた唇に舌が差し込まれた。力が抜けそうになる芙美夏の身体をシンクに寄りかからせ、覆い被さるように、功が口内を犯していく。
唇が食まれ歯列をなぞられ、逃げる舌は何度も捉えられた。
「ん……っ……」
吐息と水音の狭間に、時折、水道の蛇口からシンクに水滴が落ちる音が背後で響いた。
舌が絡み合う音が、外からも頭の内側にも響いて、クラクラした。圧し掛かる功の身体の変化を感じながら、芙美夏の身体にも、誤魔化しきれない熱が灯り始める。
何も考えられなくなって、自分が制御できなくなりそうで怖い。
慣れないながらも、拙く功に応えた。何度も角度を変えて、キスを繰り返したあと、功が、ゆっくりと唇を離す。半分開いた濡れた口元から、舌の先を覗かせた表情は色気を滲ませていて、いつもより深い色をした功の瞳に、そのまま吸い込まれそうな気がした。
芙美夏を見つめた功の目が、僅かに眇められた。
「あの男とは……本当に?」
擦れた功の声が全てを問う前に、芙美夏は小さく首を横に振った。
芙美夏の答えが意味するところを把握したのだろう、功は、安堵の溜息を漏らすと、もう一度、答えを求めるような目を芙美夏へと向けた。
「どうして」
どうして――。その答えは、すぐ目の前にあった。
声を出そうとした唇も、答えを映す瞳も、抱えていた痛みを思い出すように微かに震える。小さく息を吸って、芙美夏は声を絞り出した。
「忘れたいって……功さんを、忘れようと思って……何度もそう思って、でも、できなくて」
瞬きもせずに答えを聞いている功の顔が、ぼやけていく。
「だから、もういっそ誰かとって……そう、思ったのに」
「誰かって、あの男?」
「忘れられるなら、誰でも……よかった」
芙美夏の気持ちを解すように、責める風もなく問う功に、本音が溢れる。誤魔化しながらも、どこかでわかっていた。本当は大竹でなくてもよかったのだと。
「ひどい、よね。功さんじゃないなら……本当は誰でもいいって思ってた……なのにいざとなったら……だめで」
大きく息を吐き出した功が、何かを振り払うように首を振る。もう一度芙美夏を見つめた視線が、さっきまでよりずっと柔らかくなっていた。
「間に合って、よかった」
芙美夏を強く抱き締め、髪を撫でていた功は、不意にその手を止めた。
「キスは?」
顔に血が上る。逸らしたいのに、逸らすことの出来ない自分の目が、それを肯定してしまっていた。
「功……っ」
その刹那、激しく功に唇を塞がれていた。さっきまでの、激しさの中に優しさを含んだキスではなかった。全てを奪い、何もかもを塗り替えるように、唇を歯で強く食まれる。その痛みに、必死で功にしがみ付きながら、芙美夏はそれを受け入れ応えた。
深く功の舌が入り込むと、互いの唾液が混じりあう音が響く。身体の芯に熱が篭り、足元から力が抜けて立っていられなくなるのを支えながら、功は、唇と舌で芙美夏を翻弄し続けた。功の存在以外、何も感じることが出来なくなる。
深いキスを止めることなく続けたまま、功の熱い手のひらが、芙美夏のパジャマの中に滑り込み、素肌を撫で上げた。
「んっ……」
漏れる声も、奪い取られる。功に縋り付き、このまま何もわからなくなって流されてしまいたいと感じているのに、まだ、確かな答えを何も出せていないことを思い出した心が、不意に葛藤を始めてしまった。
胸元に差し掛かろうとする手を、辛うじて押し返す。
「っ、待って、功さん」
声を上げると、功の唇がようやく離れて、その目が少し細められる。素肌を撫でていた手に一瞬力が入った後、その手が、ゆっくりと引き抜かれた。
力が抜けそのまま崩れ落ちそうになる芙美夏を、功が支える。
熱を持った芙美夏の唇を功の指先が拭った。
「ここ、噛み切らなくてよかった……」
呟いた功も、息が上がっていた。体重を掛けないように芙美夏の肩に頭を乗せた功の、どこか苦しそうな溜息が聞こえた。
「ごめん。……止まらなくなるところだった」
暫くそのまま何かを抑え込むように顔を伏せていた功は、やがて大きく息を吐いて、顔を上げた。迷うように揺れる芙美夏の目を見ながら、頬に温かな手が当てがわれる。
「あいつの話を聞いた時、本当は、凄く動揺してたんだ。妄想で、気が変になるかと思った」
何も答えられずにいると、功はもう一度、今度は軽く音がするだけのキスをした。
「今日は……何の用意もしてないから、ここまでで我慢するよ」
そう言って身体を引く功に、意味を把握した芙美夏の顔が赤く染まる。
「わ……たしだって、今日は、まだ呼び出しがあるかもしれないし、それどころじゃ」
必死で言い募る芙美夏を、功がどこか意地悪そうな表情で見つめてくる。
「それどころ、とか言うな。こっちは、理性総動員で必死なんだ」
いつも余裕そうに見える功が、そう言って顔を逸らし大きな溜息をつくのがおかしくて、つい笑ってしまう。笑いながら、気が付けばまた涙が流れていた。
今度は、そっと優しく抱き締められる。
「芙美夏。待つって言ったけど、やっぱり無理だ。放っておいたら芙美夏を他の奴に持っていかれる。それだけは、ごめんだから」
温かな身体に包まれながら、顔を上げて功を真っ直ぐに見つめた。
「私も……自分の気持ちに、片をつけるから。ちゃんと答えを出すから。大竹さんのこと……今度こそ分かってもらえなくても、話だけはしてくる」
心配そうに見つめる功に、もう一度しっかりと頷いてみせる。
「……わかった」
どこか渋々そう口にした功は、再び眉根を寄せ不満げな表情を浮かべた。
「わかった……けど、これ、完全に俺に対する牽制だな」
小さくひとりごつように呟き、指先が芙美夏の首筋に残された痕に触れる。
「芙美夏……答えて。これ、合意の上なのか」
強く首を横に振った途端、功の唇が、上書きするようにその場所を食む。声が漏れそうになるのをら唇を噛んで飲み込んだ。
そんな芙美夏の様子を見つめながら、功に、再び問い詰められる。
「もう一つ……ここ以外にはない?」
今度は頷いてみせると、微かに笑みを浮かべた功の唇が、今度は逆の首筋を食んでそこに微かな痛みと共に、所有を示すように痕を残した。
触れられた場所から生まれた熱は、功が離れても、しばらくは芙美夏の中から消えてくれなかった。
男の事情だと笑いながら軽くシャワーを浴びた功は、そのまま先にベッドに入っていた芙美夏の元にもぐりこみ、重なるように寄り添った。
背中から確かに伝わってくる温もりに、また涙が零れそうになる。後ろから伸ばされた功の手が、そっと芙美夏の手を握り締めた。
「……ふみか」
「……うん」
「このつぎ、は……」
呟く声はすぐに小さくなって、しばらくすると、後ろから本当に寝息が聞こえてきた。
いつ園から連絡が入ってもいいように、携帯は音を切らずに枕元に置いておく。
功の存在を感じながら、ゆっくりと目を閉じる。
きっと眠れないだろうと思っていた芙美夏も、思った以上に疲れていたらしく、功の体温に包まれたまま、いつしか眠りに落ちていた。