本編《Feb》

第四章 居待月10



 淳也との通話を終えてから、芙美夏は放心したように、しばらくの間ボンヤリとベッドに座っていた。
 ふと我に返り涙を拭うと、クローゼットから毛布を取り出してドアを開ける。
 功は、完全に床に眠ってしまっていた。 手にした毛布をそっと被せて、ソファにおいてあるクッションを頭の下に敷いてから、パソコンの音量をミュートにしておく。
 朝晩は日によっては霜が降りるほど冷える。低めの設定でヒータをつけてから、芙美夏は決して広くはない部屋を見渡して、明かりを小さく落とした。
 キッチンとの境にあるガラス戸を閉めて風呂を沸かしながら、空腹を覚える。今頃になって、夕食を食べていない事を思い出した。
 冷蔵庫を開いて、今朝炊いたご飯を電子レンジで温めてから、功が夜中に目を覚ました時、何かお腹に入れられるようにと、全部をおにぎりにする。
 いつ咲の事で呼び出しがあるかもわからないと、芙美夏は先に一人で握ったおにぎりを食べて風呂を済ませて、ドライヤーも、功を起こさないように浴室で当てた。
 功が隣の部屋に眠っていると思うと、とても不思議な気持ちになる。こんな狭いアパートのしかも床に眠ることなど、きっと初めての経験だろう。起こした方がいいかと迷いもあったが、淳也の言葉を思い出すと、疲れているのだろう功を、そのままゆっくり眠らせてあげたいとも思う。
 眠る支度を済ませた芙美夏は、冷蔵庫から水を取り出しグラスに注いで飲み干した。

 功のために、新しい歯ブラシとタオルを用意し、開封していないペットボトルを一本取り出して、そっと扉を開ける。
 薄明かりの灯る部屋の中、毛布を被った功が、起き上がってこちらを見ていた。驚いた拍子に、ペットボトルを床に取り落としてしまう。
 転がったそれは、テーブルにコツンとあたって止まった。
「ごめんなさい。起きてると思わなくって」
 まだ眠たそうな目でボンヤリと芙美夏を見つめた功は、顔を顰め後ろのソファへと仰け反った。
「ああ……しまった」
 唸るように、呟いている。
「今何時?」
「12時、少し前」
「いつ戻ってきた?」
 芙美夏に尋ねる功の、本当にバツが悪そうな顔に、芙美夏は少し笑い声を上げた。
「10時頃。戻ってきたら部屋の明かりがついてて、凄くびっくりした」
「だろうな……」
「鍵も開いてた」
「え、あ、ごめん。そうだな……どうも鍵を閉めるって意識が薄くて、淳也にも叱られるんだ」
 確かに功の生活において、鍵を使って家のドアを開け閉めする習慣はあまりなさそうだったことを思い起こす。
「何度も起こしたんだけど」
「う……ん。なんとなく覚えがある。芙美夏がいるの、夢かと思ってた」
 そう言って苦笑いした功に、淳也と話したことを伝えると、とても助かったと礼を言われた。
 身体を起こした功の視線が、芙美夏へと向けられる。
「今更だけど、今夜は、ここに泊めてもらったらダメかな」
 芙美夏もさすがに、こんな時間にホテルを取って欲しいと追い出してしまうつもりはなかった。
「パジャマ、男物は置いてないけど」
「それ、置いてある方が反応に困るよ」
「宿代、高いですよ」
 笑って答えた芙美夏に、少しホッとしたような笑みが向けられる。
「じゃあ、身体で払うよ」
「もう」
 顔を赤くして立ち上がる芙美夏を、功が、悪びれた風もなく笑顔のまま見上げてくる。
「功さん、何も食べてないでしょ。大したものはないけど、おにぎりでもよかったら」
「すごくありがたいよ、確かに夕飯も食べてない」

 嬉しそうな顔で頷いた功を少し待たせて、芙美夏は握ったおにぎりと、インスタントのスープ、卵焼きと冷蔵庫に残っていた酢の物を用意した。
「本当に、今日はこんなものしかなくて」
 いつもあの家で出されていた、バランスが取れて味付けもプロ並みの食事を思い出すと、質素すぎるそれが恥ずかしくなる。けれど、よほど空腹だったのだろう功は、あっという間に全部を平らげてしまった。
「ご馳走様。今まで食べたご飯の中で一番美味しかった。あ、これ……和美には内緒だから」
 笑いながら功が言ったことを、本気にする程お目出たくもない。それでも、本当に満足してくれた様子に、つい笑みが浮かぶ。
 着替えが何もないが風呂に入るかと聞くと、少し考えてから、明日戻ってから入るからいいとの返事が返ってきた。
 用意していた歯ブラシとタオルを渡して、功が洗面を使っている間に、芙美夏は洗い物を済ませようとキッチンに立った。
 功の存在を意識してしまい確かに落ち着かないのに、余りにも想定外のハプニングに、不思議と緊張感はどこか薄らいでいる。何よりこの部屋に他人の気配があることに、芙美夏は胸の奥に温かな何かを感じていた。
 無意識のうちに笑みを浮かべながら洗い物を終え、タオル掛けへと手を伸ばそうとして――。
 すぐ後ろに気配があるのを感じた。そう思った時にはもう、背後から功に抱き締められていた。

 不意打ちに、頭が真っ白になる。
「芙美夏。正直に答えて」
 功の声色には、さっきまでとは違う問い詰めるような響きが含まれていた。短い髪をゴムで結えているため、剥き出しになっった首筋に、功の指が這うのを感じて思わず首を竦める。
 その動きに、園の中での大竹との遣り取りが思い出された。指先が、恐らくは大竹の唇が触れた痕に止まる。
「これって、あの男?」
 ピクリと身体が揺れて、顔が強張る。
「あいつに付けさせた? あいつと……本当にそういう関係なのか?」
「ちがっ……」
 咄嗟に、首を横に振る。功が部屋で眠っていた驚きが大きく、大竹とのことは意識の外になってしまっていた。唇が触れた時の感触を思い出した身体が、小さく震える。
 それを感じたのか、功が僅かに身体を離す。
「ごめん、怖がらせるつもりはなかった。つい、あの男に……ムカついて」
 最後は独り言のように呟いた功の声に、小さく首を横に振りながら、強張っていた芙美夏の身体から、僅かに力が抜けた。
「功さん……私」
 振り返ろうとして身じろいだ芙美夏の身体を、功の腕が、再び強く後ろへと抱き寄せた。
「嫌なら、ちゃんと拒絶しろ。それくらいの理性はまだ残ってるから」
 功の腕の中にいる――そのことに、眩暈がしそうになる。心臓が、壊れそうなほど強く鼓動を刻むのを感じながら、芙美夏も、その腕を振り解きたくなどなかった。
 答えの代わりに、胸元に回された功の腕を握ると、絞り出すような声が耳元から聞こえてきた。

「芙美夏……会いたかった。ずっと、ずっと探してた。もう一度会って、こうして抱き締めたかった。……芙美夏」
 離さないというかのように、芙美夏を抱く功の腕に力が込められる。その言葉に、芙美夏の中で堪えていたものが、切れてしまった。
 震える心を映すように、瞳が揺れる。
 芙美夏の頬を伝った涙が、功の腕に音もなく流れ落ちた。
「私も……ずっと、会いたかった。ずっと苦しかった。何度も何度も言い聞かせたの。私は、功さんの側にいられる立場の人間じゃない……功さんは、他の人のものだっ……諦めるんだって。忘れるんだって」
 搾り出すように吐露した言葉が、涙と共に零れてゆく。
「俺は。ずっと芙美夏のものだよ。あんな風に追い詰めるまで、何も気が付かなかった俺が馬鹿だったんだ。苦しめてごめん、許して、欲しい」
 何度も首を横に振りながら、堪えようとしても嗚咽が漏れる。こうして抱き締められている事に、胸の痛みが増し苦しさが募る。
 腹部に回されていた功の手が、そこを離れ、芙美夏の頬にそっと触れた。その手の動きに促されて、功の顔を見上げると、降りてきた唇が、涙を拭うように頬に落とされる。
 頬から耳元を緩やかに辿る功の手に頬を埋めるように目を閉じると、今度は優しい唇が、瞼に触れた。
 存在を確かめるように、ゆっくりと何度も頬や額、瞼や耳元にキスを降らせながら、功の唇は、芙美夏の唇にはなかなか触れようとしない。
 思わず目を開けた芙美夏の瞳を、功が真っ直ぐに見つめた。
 功の目は、あの夜芙美夏を愛していると告げた時と、同じ色をしていた。同じなのに、どこか苦しそうな眼差しを向けたまま、功は、背中から抱きしめていた芙美夏の身体を正面に向けた。
 瞳の奥まで混じり合うように、視線が絡み合い、もう逸らすことが出来ない。
 顔を近付けた功は、芙美夏の唇に殆ど触れそうな距離で、その動きを止めた。
 功の唇から、切なげな吐息が零れる。
「やっと……辿り着いた」


タイトルとURLをコピーしました