「咲の様子はどう」
壁に凭れかかったまま、問うてくる大竹の顔は、疲労の色が隠せていない。
「今は、よく眠っています。和田先生が付き添って下さっています」
静かな廊下に響かぬように、小さな声でそう報告した。流石に、今から大竹と話をする気分にはなれなかった。
「大竹先生は今日は夜勤ですか?」
「ああ」
「私は、一度家に戻ります。お疲れ様です」
頭を下げ大竹の横を通り過ぎる。その時――
「あの男が待ってるのか」
後ろから、小さいが鋭い声が聞こえた。振り返り、首を横に振る。会うつもりでいたのは確かだが、今日は結局ほんの少し顔を合わせただけだった。
「会ってるんだろ、あいつと。あの男、二条の跡継だよな」
「どうして……」
どうして大竹がそれを知っているのか、驚きについ疑問が口をついて出てしまう。けれど、ここは職場だと思い出し、芙美夏は戸惑いを呑み込みながら首を横に振った。
「その事は、改めて話す時間を下さい。ここで、勤務中に話すようなことじゃありませんから」
だが、大竹はその言葉を無視して話を続けた。
「この間会った時に、どこかで見たことがある顔だって思ったんだ。君が知らないとも思えないけど、あの男は、僕らの世界でも結構有名なんだよ。二条グループはここ最近施設への援助を会社の福祉事業として幅広く行ってる。表立ってその事業の指揮を取っているのは、子会社の福祉事業部だけど、実際のところ中心となっているのは二条功――、二条のジュニアだっていう話は、施設の仕事に携わる特に責任者クラスの人間にはよく知られている話だ。寄付を集めるためのパーティに、一度園長の付き添いで行った事がある。そこにあの男がいたことを思い出したんだ。パーティで、最後に挨拶をしたのは、あいつだった」
まだこの仕事に就いて日の浅い芙美夏は、園の経営の事などは、詳しくはわかっていなかった。毎日の仕事で手一杯で、正直なところ二条が援助活動をしているという事も初めて知ったくらいだ。
驚きと戸惑い。そして、それが恐らく芙美夏の出自に起因していることが分かるだけに喜びとで、複雑な気持ちになる。
だが、それを断ち切るように、大竹の言葉が続く。
「なんでそんな大金持ちのぼっちゃんが、芙美ちゃんと知り合いなんだ? 君が隠してる過去に関係してるんだろ。金持ちの男に引っ掛かって遊ばれたのか?付きまとわれてるのか? 所詮二条の慈善事業なんて、ある意味企業の宣伝じゃないか。確かに現場としては有難いよ。だからと言って、僕はあいつらに遜るつもりもない。あの男は、自分から離れた君を躍起になって追い掛け回してるだけなんじゃないのか?」
「功さんは、そんな人じゃありません」
つい、言い返してしまう。
「そうか。じゃあ、君が二条の金や地位が目当てだったのか? 逃げる振りをして、追いかけさせているのか?」
耳を疑った。いつも優しく、そして周りの人にも明るく接する大竹の口から出た言葉であることに、一瞬言われていることの意味さえ理解出来なかった。
「君は、何者なんだ、どうしてここにいる。なんであんな男と知り合いなんだ。なんで、いつまでも僕に心を開いてくれない?」
大竹の顔が、苦しげに歪む。
「ごめん、なさい。私、……大竹さんにずっと甘えてました。助けて貰ってたことも感謝してます。ずっと……あの人を忘れたいって思ってた。時間が経って会わなければ、きっと思い出す事もなくなるって、そう思ってた。でも……。本当にごめんなさい。もう一度、改めてちゃんとお話します」
「話すことなんて何もないよ」
上階から階段を下りてくる足音が聞こえて、芙美夏は我に返ると、口を噤み大竹に頭を下げてその場を立ち去ろうとした。
だが、突然大竹に後ろから腕を引かれ、階段の陰に引き摺り込まれていた。恐怖に身体が竦む。けれど、大声を出して騒ぎにするわけにはいかなかった。ここには子どもたちがいる。ここは園の中なのだ。口を押さえられていたが、それでも漏れそうになる声を辛うじて抑えた。
夜間の見回りに向かうのだろう先生が、階段を下りてくる足音が、子どもたちの部屋がある棟へと遠ざかってゆく。
後ろから芙美夏を抱きしめていた大竹の生暖かい息が首筋にかかり、そこに唇が触れる感触があった。身体が震え声が漏れそうになる。避けるように身を捩ろうとした時、チクリとそこに小さな痛みが走った。
激しく首を振って口元を覆っていた手を何とか引き剥がすと、芙美夏は振り向いて大竹を辛うじて睨み付けた。ここが園の中であるということが、芙美夏を何とか奮い立たせていた。
「ここは、職場です。子どもたちの生活する場所なんです。私のことを許せないとしても、ここでこういうことをするのは、間違ってる。先生なら、分かりますよね」
抑えた声で強く言い放つ間、手を握り締めながら、決して大竹から目を逸らしたりはしなかった。必死だった。大竹の方が、その視線に怯んだように芙美夏から視線を外し、そしてそのまま何も言わずに立ち去ってしまった。
大竹が去った後、身体の力が抜けてその場にしゃがみ込みそうになる。泣き出したい気持ちを何とか堪えて、芙美夏は荷物を取りに職員用の部屋へと戻った。
最終バスに乗り、アパートに帰り着く頃には夜の10時を回っていた。身体も気持ちもとても疲れていて、早くベッドに入りたかった。
アパートの見える場所まで戻って来た芙美夏は、ふと何か違和感を覚えて、自分の部屋を見上げた。
途端に、違和感の正体にドキッとする。
部屋に、明かりがついていた。功は最終便に乗るために、遅くとも8時過ぎにはここを出ているはずだ。
電気をつけたまま帰ってしまったのだろうか。きっとそうに違いない――。
そう思いながら、足早にアパートに向かう。
けれど、ポストの中には鍵が入っていなかった。携帯を確認しても、メッセージは何も届いていない。
部屋の前でドアをノックしようとして躊躇い、一度ドアノブを回してみた。すると、鍵がかかっておらず静かにドアが開いた。
可能性は少ないが、空き巣が入ったことも考えられる。中には大して金目のものはないとはいえ、電話を取り出し、警戒しながらそっと中を覗いてみると、玄関先に。見覚えのある男物の靴がきちんと揃えられ、置かれていた。
――え?
戸惑いながら気配を伺うが、部屋の中はやけに静かで物音一つしない。最終の飛行機はもう出てしまっているというのに、何かあったのだろうか。
玄関から少し死角になっている奥の部屋を、もう一度さっきより身を乗り出して中まで覗くと、功のものらしい足先が見えた。慌ててドアを閉めて鍵をかけ部屋に上がる。
「うそ……」
フローリングに腰を下ろしソファに凭れたまま、目を閉じている功が居た。暫く唖然としながらその姿を見ていた。
眠っているのだろうか、それとも体調でも悪いのだろうか。
「功さん……功さん?」
声を掛けてみたが、功は少し唸って身体をひねるだけで全く目を開ける気配がなかった。近付いて屈みこみ様子を伺うと、小さな寝息のようなものが聞こえてくる。眠っているだけなのだろうか。だが、功は明日仕事があるはずだ。
そっと腰を下ろし、功の肩に触れて身体を揺らした。
「功さん、起きて。ねえ、功さん」
その時、テーブルの上に開いたままになっていたノートパソコンが小さな音を立てた。驚いた拍子に思わず肩を掴む手に力が入る。画面に目を遣ると、メールの着信を告げる音がした。暫く見ている間にも、いくつものメールが届く。急ぎの用件があるのではないかと心配になり、もう一度功を起こそうと振り向いて――。
思わず声を上げそうになるのを、何とか抑え込んだ。
功が、目を開いていた。寝ぼけまなこでじっと芙美夏を見つめる功に声を掛けようとした瞬間、伸びてきた功の腕が、芙美夏の身体を胸元へと引き寄せていた。
息が、止まりそうになる。
「……みか」
寝言のような小さな擦れた声で名前を呼ばれる。功に抱き締められたまま、何も言えず、芙美夏はただ、鼓動を刻む自分の心臓の音だけを聞いていた。
やがて功がそのまま再び寝入ってしまったことを、引き寄せられたその胸が上下する様子と、緩んだ腕の力から感じて、そっと身体を功の腕から引き離す。
想定外の出来事に、心臓はまだ大きく鼓動を響かせていた。
――どう、しよう
功は、とても気持ち良さげに眠っている。こんなにも深く眠るほど功が疲れているのだという事に、胸が痛くなった。少しの間逡巡し、芙美夏は、隣の部屋に入りそっと扉を閉めた。そうして、功から受け取った、淳也と藍からの結婚式の招待状を引き出しから取り出した。
開いてみると、中に二人の連絡先が書かれている。
――淳ちゃん……
しばらくはその紙を手にしたまま、迷っていた。やがて躊躇いを振り切った芙美夏は、思い切ってその番号に電話をかけてみた。
発信音が聞こえ、携帯を握る手が緊張で震える。
『……はい』
知らない番号に怪訝そうに応答する声が聞こえる。その声を耳にした一瞬で、涙が込み上げてきた。
『……もしもし?』
五年ぶりに聞く、淳也の声だった。小さな頃からずっと、芙美夏を支え、慰め見守ってくれた、誰よりも近くにいた淳也の声が聞こえる。
その声に、手を振る芙美夏に笑みを向けて応えた、卒業式の日の淳也の姿が重なった。
『もしもし?……どちら様ですか』
訝しむ声に応えようとするが、言葉より先に嗚咽が漏れてしまった。その途端、息を呑む様子が、電話越しにわかった。
『みいか?』
「……うん」
『本当に?」
「……じゅんちゃ……」
それからは、もう言葉が出なかった。こちらの嗚咽が止まるまで、淳也が投げかける質問に返事をすることさえ儘ならなくて、淳也に笑われた。
暫くはそんな状態だったが、話していくうちに、ようやく少しずつ落ち着きを取り戻していく。
たくさん言わなければならないことがあったが、今日電話した目的を伝えることが先だった。
功が眠ってしまい起きないこと。最終の飛行機に乗り損ねた事を伝えると、大きな溜息が返ってきた。
『そんなに熟睡するのは珍しいから、起こさないでおいて。明日の午前中の会議は、今日の夕方に打ち合わせた内容で何とかなるし、少し前までメールで大半の仕事は処理してたから、他の仕事もある程度は進めることが出来る。明日起きたら、七時までにメールの確認を一度して貰って。あとは昼頃に戻ればいいようにこっちで調整しておくから。みいのところから、空港まではどれくらいかかる?』
聞かれて、おおよその時間を告げる。
『じゃあ、飛行機はこっちで手配して、明日の朝までにメールを入れておくから、起きたらそう伝えて。朝は早く叩き起こして構わないから』
そう言って淳也が笑った。
だが、笑い声が消え、暫くの沈黙の後に真剣な声が聞こえてきた。
『みい……。今のみいに、自分の生活があることも、すぐにどうにもならない事情があるってことも、分かってるつもりだ。だけど、功さん、かなり無理してる。ただでさえ埋まってるスケジュールを何とかやりくりして、みいのところに行ってるんだ。今月末には旦那様の事が公になる。そうしたら今後、もっと自分の時間を作るのが難しくなるんだ。こんなことみいに言ったって、功さんにばれたら俺、殺されると思うけど』
「うん……」
『なあ、みい。もしもまだ、功さんに気持ちがあるなら、出来るだけ早く結論を出して貰えないか。勝手な事を言ってるのはわかってる。俺だって本当は、ちゃんとみいに考える時間を作ってやりたい。けど――』
「わかってる。淳ちゃん。功さんが、凄く無理して時間を作ってくれてるって、私もわかってる。ちゃんと、自分の問題にけりをつけるから。もう少しだけ待って」
『ごめん……みい。結局やっぱり追い詰めて』
「淳ちゃん、心配しないで。大丈夫。今度は、本当に大丈夫だから」
そう言うと、淳也は微かに笑ったようだった。
「淳ちゃんと藍ちゃんにも、きっと会いに行く。ちゃんと、顔を見ておめでとうって言いたいから」
『……頼むな』
「うん」
『……』
「淳ちゃん……」
『ん?』
「たくさん……嘘をついてごめん。あんな風に出て行って……心配掛けて、本当にごめんなさい」
『……うん、……わかってる』
静かに答える淳也の優しい声が、少し震えて、芙美夏の耳に響いた。