本編《Feb》

第四章 立待月2




 屈み込んだ香川が、足元にこぼれ出た商品を拾い上げてエコバックに入れる間、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
 差し出されたそれを、手を伸ばして受け取ったが、何も言葉が出てこない。一度俯けてしまった顔を上げることすら出来なかった。
「元気そうだね。私は、ちょっと歳をとったかな」
 優しい声が降って来る。
「……いえ」
 辛うじて聞こえる程度の声で否定する。香川は、芙美夏の記憶に残る姿と殆ど変わっていなかった。
「突然すまなかった。こうでもしなければ、会ってもらえないんじゃないかと思ってね。不意打ちで悪いとは思ったんだが、どうしても、君に会って頼みたいことができたんだ。少し話せるかな」
「……つからですか?」
「え?」
「いつから、私がここにいる事を」
 久しぶりに会ったというのに、挨拶もせずにそんな事を口走る自分に嫌な気分を覚えながらも、どうしても確かめずにはいられなかった。
 躊躇うような間を置いて、香川から、静かな口調で答えが返ってくる。
「君が、出て行ってから三ヶ月ほどで、こちらの大学に通っている事は突き止めていた」
 覚悟していたとはいえ、やはりショックが大きい。自分だけがひとりで立っているつもりで、実際にはこうして二条の監視下にあったのだ――と。
「皆、知ってるんですか? 知っててずっと……見張ってるんですか」
 顔もあげずに身体を強張らせている芙美夏に、香川は穏やかに語りかけた。
「誤解しないで欲しい。居場所を調べたのは、君が心配だったからだ。それ以外の理由は何もない。元気で無事にやっていさえすれば、君の生活に口出しをするつもりはなかった。ただ本当に何か困った事があった時に、いつでも手を差し伸べることが出来ればいいと」
 素直に受け取りたいのに、言葉通り受け取っていいものか葛藤する気持ちも拭えず、すぐに頷くことができない。
「簡単に信じてはもらえないかもしれないが、だから、君を監視したりするような真似はしていない。この事を知っているのはごく一部の限られた者だけだ。淳也達にも言ってはいない。それに……私だって仮にも君の父親だった事がある人間だ。一度もそれらしいことはしてやれなかったけれど、それでも、心配する権利ぐらいはあるだろう?」
 その言葉に、頑なだった気持ちが少し緩んでしまう。
 ゆっくりと、顔を上げた。
 香川の双眸には、芙美夏へと向けられた懐かしさや気遣いが浮かんでいる。
「大人になったね、美月。いや……芙美夏」
「香川さん……私」
 香川と目を合わせた途端に、懐かしさや罪悪感、様々な感情が込み上げる。
「……ごめんなさい」
 自分の行動が、皆に大きな心配や精神的な負担を掛けたのだろうことが、不意に強く胸に迫り苦しくなる。
「謝ることは、お互いにきっとあるだろう。けれど、それは分かっているからもういい。君がこうして元気でいてさえくれれば、それだけでいいんだ」
 香川がそう言って笑みを浮かべた。笑うと以前よりほんの少し皴が増えたその顔を見つめる。
「勤務明けで疲れているだろうが、立ち話も何だから、少し部屋に入れてもらえないだろうか」
 その言葉に、芙美夏はようやく、香川の顔を見てはっきりと頷いた。

「何もありませんが」
 お茶を入れ、リビングのフローリングの床に置いた小さなテーブルに向かい合って座る。
 こんなにも狭い空間で、香川と二人きりで向き合う事など、これまで一度も無かった芙美夏は、久しぶりに顔を合わせたことも合間って、緊張を隠せずにいた。
「あの……皆は、元気にしていますか? 和美さんや、淳ちゃんや……」
 そこで言葉が途切れてしまう。気が付いているはずの香川は、そんな素振りは見せずにいてくれる。
「元気にしてるよ。実はね、淳也は来年結婚することが決まった」
「えっ」
 つい、驚きに声を上げてしまった。
「少し早いとは思ったんだが、まあ、本人たちはいつか結婚するつもりだから早くても同じだとそう言ってね。彼女もまだ就職したばかりだから、しばらくは仕事を続けながら共働きの生活になるけれど」
「ほんとなんですね、……なんだか凄い。淳ちゃん、結婚するんですね。あの、おめでとうございます」
 芙美夏は、香川と再会して初めて、心からの笑みを見せた。
「驚くのはまだ早いよ。淳也のお相手は、君もよく知っている人だ」
「私が、知ってる人?」
 香川は頷いた。
「ああ。金沢藍さんだよ」
「え? 藍ちゃん? ほんとに本当ですか?」
 思いがけない名前が香川の口から出て、大きな声を上げてしまう。気持ちが高揚するのを抑え切れない。
「淳ちゃんと藍ちゃんが……。いったいいつから? 藍ちゃんはどうしてますか? 仕事ってどんな仕事を?」
 興奮のあまり立て続けに質問を投げかけてしまう芙美夏を、香川は、微笑みながら見つめていた。
「藍さんは、今年から出版社に勤めているんだ。忙しいみたいだけれど、もちろん元気にしている。いつも、芙美夏のことを気に掛けているよ。そもそも二人が親しくなった切っ掛けは、もちろん君だからね」
 藍にも、結局何一つ告げる事なく、あんな風に別れてしまった。後から手紙を書いて送ったけれど、それにはもちろん住所も記載しなかった。消印も分からないように、休日中に本州にある実家に帰省する友人に頼んで、投函してもらった。
 一方的な、勝手な言い訳じみた言葉を並べただけの手紙だった。
 それなのに、今でも気に掛けてくれているのだ。高揚した気持ちが落ち着いてくると、胸が詰まる思いがした。

「色々話してあげたいこともあるんだが、今日はさっきも言ったように、頼みたいことがあってね、こうして君の元を訪ねた」
少し間を置いた香川が、改まったように続けた言葉に、芙美夏も姿勢を正す。
「はい」
 何を言われるのだろうかと、緊張が込み上げる。
「芙美夏。旦那様と、会って貰えないだろうか」
「……あの、それは」
 思い掛けない香川の頼みごとの内容に、戸惑いを覚えた。
「どうして、ですか」
「旦那様が、君に会いたいと。是非会って貰えないかと、そう仰ってる」
「なぜ……」
 嫌な予感が込み上げてきて、問いかける唇が少し震える。
「もしかして……功さんの、事とか。でも私は、もう」
「その事と無関係だとは言えない。けれどね、旦那様は恐らく芙美夏、君に、本当に会いたいと思っていらっしゃると思う」
「私、に?」
 戸惑う芙美夏の目の前で、香川は、鞄から取り出したあるものをテーブルの上に置いた。
「それ……」
 机の上に置かれたのは、白い洋封筒の束だった。芙美夏は、顔が熱くなるのを感じていた。
「君が五年前に、旦那様に送ったカードだ。旦那様はこれをずっと、大切にされていた」
「え……」
「君が出て行った時には、旦那様は決して君を探す事を許されなかった。それは、君と二条との関係を断ち切らせてあげたいという気持ちももちろんおありだっただろうが、君がトラブルの原因にならないようにという二条の当主としての判断もあったのだろうと思う。私達が君を探したかったのは、決して監視するためなどではなかった。けれど、君は二条との関係を終わらせることを望んで出ていったのだから、君のためにも情に駆られて行動する事は慎むようにと、そう仰っていた」
 そう言って封筒を一通手に取った香川は、それを開き中からカードを取り出した。洋封筒の束は、芙美夏が部屋の引き出しから持って出た物だった。
「君からの手紙と贈り物、それにこのカード。旦那様は届いたそれをご覧になって、涙を流された。私はあの方に遣えてもう三十年近くなるが、あんな旦那様を見たのは初めてだったよ。いや、二度目かな。勿論私は、手紙の内容は知らない。けれど私に、君の行方を捜し本当に困ったことがあればいつでも助けになれるよう影から見守ることを指示されたのは、それからしばらくしてからだった」
「パパ……いえ、旦那様が?」
 慌てて言い直す芙美夏を、香川が笑って見ていた。恥ずかしさに頬が赤くなる。
 永の事をどのように呼べばいいのか、未だにわからなかった。由梨江が生きている間は「パパ」と呼んでいた。そうはいっても、ほとんど呼ぶような機会はなかったのだが。
「そうだ。旦那様がそう指示をされた」
「これ……このカード。ただ自分が捨てられないから、その役目を押し付けただけなのに」
 目の前で香川の指が封筒から取り出したカードを開いた。
「パパへ 、お誕生日おめでとう。お仕事頑張ってね。――美月」
 声に出してカードの文章を読み上げ始めた香川は、恥ずかしさに顔を伏せる芙美夏の前に開いたカードを差し出すと、また別のカードを取り出して、読み上げた。
「パパへ 、メリークリスマス。パパは小さい頃サンタさんにどんなお願いごとをしましたか? 美月は、今年はサンタさんに、ママが早くよくなるようにってお願いしたからね。――美月」
「やめて下さい」
「どうして、ずっと渡さなかった? いや、答えは聞かなくてもだいたい分かっているけれど。奥様が、君が美月様ではないと気付かれた頃から、君と旦那様の接点は本当になくなってしまったからね」

 由梨江と離れるまでは、由梨江と二人で、普段忙しく余り家にいることがない永に、誕生日やクリスマス、父の日などにカードを書いて、由梨江の選んだプレゼントに添え永の部屋に持っていくことが習慣になっていた。
 数少ない永との接点がそこにあった。
――ほら、美月、パパにカードをお渡ししなさい
 由梨江に手を引かれて、永を見上げながらカードを手渡すと、大きな手が頭に置かれて、髪をクシャっと撫でてくれる。
――ありがとう
 いつも、永はそれしか言わなかった。
 それでも芙美夏は、ドキドキしながらも、そうやって頭を撫でて貰えることが嬉しかった。


タイトルとURLをコピーしました