本編《Feb》

第四章 居待月8



 あれからタイミング悪く、園の中でゴタゴタが続いていた。
 仕事にはもちろんプライベートを持ち込むつもりはなかったが、大竹に時間を取って欲しいと告げる間もなく、また大竹も、担当する児童の一人に起きたトラブルに対処するため奔走しており、とても話が出来る空気ではなかった。
 何度か、落ち着いたら時間を取って貰いたいとメッセージを送ったり留守電を入れたりしたが、それに対する返事は未だ入っていない。
 あれから、功とは一度だけ会っていた。その時は、急に仕事が入ってしまったからと、札幌で僅かな時間をカフェで過ごしただけで帰って行った。
 今は特に多忙だという功が、本当ならこんな風に芙美夏のために割く時間を取っている余裕などないはずだとは、流石にわかっている。
 だが、無理はしないで欲しいという言葉も、芙美夏が東京に行くという意見も、強く拒否された。
 そして功は、大竹との事は、何も聞いてはこなかった。
 明日にはまた、功がこちらに来る予定になっている。

 翌日、午後2時過ぎに仕事を上がった芙美夏は、空港からこの町に直行すると言っていた功を待っていた。2時半頃には到着する予定だと連絡が空港から入っている。
 けれど、功が到着する直前になって、芙美夏の方に園から緊急の呼び出しがかかった。児童の一人が学校で怪我をして、病院で診察を受けているが、その子に付き添っている先生がどうしても4時までには病院を出なければならないからと、交代の要請が入ったのだ。
 申し訳ないが引き継いで病院に行って貰えないか、という連絡だった。
 今は、他の先生方も色々と手一杯の状況であることはよくわかっていた。しかも今日、芙美夏は地元に居るだけに、断ることは出来なかった。
 わざわざスケジュールを調整して、功がどれだけ無理をしながら芙美夏に会いに来ていてくれるのかは分かっているつもりだ。けれど、心苦しいが、怪我の子どもを放っておくことは出来ない。
 芙美夏は、功の到着を待って事情を説明した。
「仕事だろ。ましてや子どもの事だ。気にする事はない」
 何度も侘びる芙美夏に、功はそう言ってくれた。

「芙美夏が戻るまでしばらく、家で仕事をさせてもらってもいいかな。PCさえあれば、片付く仕事も多いから」
 そう言った功に、家の鍵を渡すことにした。
「状況がわからないから、戻れるかどうかもわからなくて……。だから、もし時間が来たら、鍵はポストに入れておいて下さい。なるべく連絡するから」
「ここから病院に直行するの?」
「そのつもり」
「じゃあ、病院まで送るよ。その方が早く交代できるだろ」
 今は遠慮するよりその方がいいだろうと判断し、芙美夏は、送ってくれるという功に甘え、車に乗せてもらい病院へと向かった。

  * * *

 病院で、先に付き添っていた久保井から引継ぎを受けた。運ばれていた子どもは、咲だった。
 同じクラスの子どもと喧嘩をして、転んだ拍子にコンクリートに頭をぶつけたのだという。僅かではあるが縫う怪我を額に負ったのと頭を打っていることから、検査が必要だと言うことだった。
 久保井は、芙美夏が現れた事にホッとした顔を見せた。咲がかなりナイーブになっていて、普段、比較的接する機会が少ない久保井が付き添いでは落ち着かないのだと言う。
 処置室から看護師に手を引かれて出てきた咲は、芙美夏の顔を見ると大声を上げて泣き出した。
「咲……痛かったね。大丈夫、先生が一緒にいるからね。ほら、痛いの痛いの飛んでいけ」
 そう、笑みを向けながら身体のあちこちを確認していく。看護師に他に怪我はないかを確かめ、ぴったりとくっついてくる咲を、そっと抱き締めた。抱き上げると、しゃくりあげながら首元にしがみつく咲の背中をそっと撫でてやる。
「ちゃんとお医者さんの言う事聞いて、いい子にしてたって。久保井先生もお医者さんも、みんな咲のこと偉いって誉めてたよ」
 看護師に従って、医師の元へと向かう。ひと通りの検査は終わり、骨折も見られない。今のところ問題はなさそうだが、頭を打っているのでしばらくは注意して様子を見ているようにと指示された。
 ひどい嘔吐や頭痛の症状が現れた時には、すぐに連れて来るようにとの説明を受けて、病院を後にする。
 泣き疲れたのか、その頃には咲は眠ってしまっていた。病院を出る間際に、追いかけてきた看護師から、咲の大事なものらしいと手渡されたのは欠けたビー玉だった。
 嬉しそうに咲が見せてくれたのを思い出す。
「どうもそれが、喧嘩の原因だったみたいですよ」
 看護師からそう伝えられる。眠っている咲の頬をそっと撫でた看護師は「大丈夫だとは思うけど、しばらく安静にね」と言い残し、院内へと戻っていった。

 呼んでもらったタクシーに乗り込み、園に戻る。その頃には午後5時をすでに回っていた。タクシーの中から功に、メッセージを送る。
『今日はやっぱり戻れないかもしれない、ごめんなさい』
『気にしなくていい。子どもは大丈夫だったか?』
 すぐに、そんな返信が入ってきた。
 簡素な内容の返事だけを送ってから、手にしたビー玉を見つめる。このビー玉のことを、何かからかわれたり馬鹿にされたのだろうか。それとも、誰かがこれを取り上げようとでもしたのだろうか。
 咲は、元来とても引っ込み思案な子どもだ。その子が喧嘩をした。相手の子どもは男の子で、咲に突き飛ばされて彼も怪我をしたそうだが、少し擦り剥いた程度のもので学校の保健室で手当てを済ませて帰って行ったという。
 それでも、場合によっては園に怒鳴り込んでくる親もいたりするのだ。
 咲の小さな手が、芙美夏の服を握っていた。腕の中で眠っている咲を見つめる。
 芙美夏にとって、園の子どもたちはどの子も可愛い、愛しい存在だ。子どもとはいえ、人間であり個性もある。確かに、相性の合う合わないはあるにしても、出来るだけ差をつけずに子どもらには接するように心がけていた。
 だが、本音をいえば芙美夏にとって、咲は少し特別な子どもだった。咲は、生まれてすぐに捨てられた子どもだった。自分と同じ境遇の咲を、芙美夏はどこか自分と重ねて見てしまっていて、そんな芙美夏に咲も自然と懐いていた。
 車が園に到着する。咲を起こさないようにそっと抱き上げるが、途中で目を覚まして、またしばらくは泣き止まなかった。他の先生が来て芙美夏から離そうとすると、一層しがみついてくる。
 しばらくは見ているから、と、咲を医務室で寝かせて、芙美夏はそのままそばにずっと付いていた。ぐずりながらも、何とかお粥とゼリーを口にした咲がようやくぐっすり眠ったのは、午後9時を回った頃だった。

 看護師の資格を持つ和田が交代を申し出てくれ、そのほうが心配がないと、後をお願いした。芙美夏がここへ来るまで、咲が一番懐いていたのが和田だった。明朝、出来るだけ早く出てくることと、夜中でも何かあればすぐに呼び出して欲しいとお願いをして、医務室を後にする。
 扉をそっと閉めて、薄暗い廊下を進むと、その先に佇んでいる人影があった。
 大竹が壁に凭れて立っていた。

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