「芙美ちゃん、この男か?」
芙美夏に向けて問いかける大竹の声も表情も、硬く尖っている。
「ずっと会ってたのか、こんな風に」
「違う」
否定する芙美夏の声は、大竹には届いていない様だった。
「この男と会いながら、俺と付き合うって言ったのか」
「芙美夏に再会したのはついこの間だ」
功が口を挟むのを、芙美夏が止めた。
「功さん、私が話します。私が話さないといけないの。お願い」
口を噤んだ功の前に進み出て、芙美夏は後ろを振り返った。
「今日は、送ってくれてありがとう。遅くなるといけないから、もう戻って下さい」
何か言いたそうに、功は動く気配がない。
「お願い。今日はもう」
懇願するように見上げると、暫く芙美夏の顔を見つめていた功は、躊躇った様子で大竹を一瞥してから、頷いて運転席に向かおうとした。
「あんたに芙美ちゃんを渡すつもりないから」
背を向けた功を、呼び止めるように大竹が言葉を放つ。
「大竹さん、やめて」
「どんな事情があるのか知らないけど、こっちへ来てから五年、芙美ちゃんをずっと見てたのはあんたじゃなくて俺だ。誰かの事を忘れたくて、そのために好きでもない男と付き合ったりしてたのも知ってる。そういうの全部見てきて、やっと俺とのことを考えてみるって、そう言ってくれたんだ。あんたなんだろ、芙美ちゃんを苦しめてた張本人。一度も、彼女に会いにさえ来なかったくせに、虫が良すぎないか? 今更、突然現れて取り返せるなんて思うな」
「違う、大竹さん、そんなんじゃない」
芙美夏の言葉を聞き入れる筈もない大竹を、足を止めた功が真っ直ぐに見つめ返した。
「……悪いが、何を言われても俺は芙美夏を諦めるつもりはない。やっと見つけたんだ。俺を止めることが出来るのは、芙美夏だけだ」
動じない功の様子に苛立ちを抑えきれないように、大竹が手を伸ばそうとする。その腕を咄嗟に掴んで引き止めた芙美夏は、大竹に視線を向けた。
「お願い、ちゃんと話します。功さんは何も知らないの。話を聞いて下さい大竹さん、お願い」
大竹の視線が、ゆっくりと芙美夏へと落とされる。どこか泣きそうなその顔に、芙美夏の胸が痛んだ。
「どうせ、こいつを忘れられないっていう話だろ。聞きたくないよ。それに、無効にするつもりないって、そう言ったよね」
「大竹さん」
微かに首を横に振る芙美夏から視線を逸らすと、大竹は、功を見つめた。
「三週間ほど前」
口を開いた大竹の言葉が続く先に気付き、芙美夏は声を上げた。
「やめて」
「彼女と二人だけで、泊まりがけの旅行に行きました。意味、わかりますよね」
大竹は、唇の端を持ち上げ笑って見せている。芙美夏は功の顔を、まともに見ることが出来なかった。
「どう、して……」
功に向き合ったまま、芙美夏を見ることもなく、大竹はその答えを口にした。
「君が、それを受け入れたんだよ芙美ちゃん。そうだろ?」
功は、無言のままだ。
「じゃあ、そういうことなんで。行こう芙美ちゃん」
焦れたように大竹が、芙美夏へと手を伸ばした。芙美夏が身体を引く前に、功がそれを避けさせるように腕を引いていた。
「彼女の荷物は、まだ車の中なんだ」
落ち着いた口調のままで、そう後ろの車を指す功を、大竹が睨むように見据えている。同じような視線が、功に腕を取られたままの芙美夏へも向けられた。
「芙美ちゃん、忘れないで。君はもう俺の手を取ったんだよ」
投げ掛けられた言葉に、何も言えず身体が強張ってしまう。そんな芙美夏を見つめる大竹の目元から力が抜けて、口元に、どこか自嘲めいた笑みが、本当に微かに浮かんだ。
「大竹、さん……」
芙美夏から視線を外し、功をもう一度睨むように一瞥した大竹の表情は、初めて目にするものだった。功も、無言のまま目を逸らそうとはしない。
ほんの僅かな時間が、随分と長く感じられた。
車がそばを通る気配に、ようやくヒリヒリと張り詰めた空気に、僅かな綻びが生まれた。
「今日は、帰るよ。芙美ちゃん……また、明日」
沈黙を破った大竹は、また、明日と、言いながら強い視線を芙美夏に向けると、二度と功を見ることもなく背を向けて帰って行った。
息をするのも苦しくて、芙美夏は呆然とその場に立ち尽くしていた。
掴んでいた腕が離され、隣に功が並ぶ気配を感じて、視線を下へと落とす。
「私……」
小さな笑い声が聞こえた。この場の空気にふさわしくないそれを怪訝に思いながら、顔を上げる。
「ごめん。笑ったりして」
功は、大竹が去っていった方を見つめていた視線を、芙美夏へと向けた。
「あの男の気持ちは、俺にだって嫌っていうほどよくわかる」
「……」
「だからと言って、引き下がる訳にはいかない。向こうは5年だろうが、こっちは15年だ」
「功、さん」
「父にも言われたよ。芙美夏みたいな女を、簡単に手に入れられると思うなって」
思わず顔に血が上り、頭を何度も横に振った。
「私……そんな風に言ってもらえるような人間じゃない」
「少なくともあいつや、俺、それに――」
功の口元に、どこか楽しそうな笑みが浮かぶ。
「いつの間にか、父にとっても君はそういう存在らしい。芙美夏?」
問いかけるような呼びかけに、瞬きをする。
「さっきも聞いたけど、俺にもうチャンスがないのなら、君の口からハッキリとそう言って欲しい。でないと、さっきの男が何を言っても、あれがもし……本当の事でも、俺が諦める理由にはならない。指を咥えて、さっきの男に君を持って行かれるつもりはないよ」
功の声が優しく耳に響く。
大竹が匂わせるように功に告げたこと。それは、正確に言えば本当のことではない。けれど、受け入れるつもりで彼について行ったのだ。それを決めたのは自分自身だった。そう思うと、何も取り繕う事が出来ない。
「ごめん、なさい。……私が、ちゃんとしないといけないんです」
強張った顔のまま、功を見上げた芙美夏の手に、功の手が触れた。
「俺にもまだ、付け入る隙はある?」
どうにも頭の中が纏まらず、首を横に振る。なのに、功の手を振りほどくことは出来なかった。緩やかに弧を描いてから開かれた功の口元を、ボンヤリと見つめていた。
「芙美夏。ひとつだけ聞かせて。君は、あの男を、愛してるのか?」
その問いに、頷くことなど出来なかった。誰を愛しているのか、その答えは、誰よりも自分がわかっている。
「君を、追い詰めるつもりはない。だけど、自分の気持ちに蓋をするつもりもないから。芙美夏の気持ちが、どちらにせよ固まるまでは待つよ。でも、君がもう来るなというまでは、会いに来るのは止めない。やっぱり……追い詰めてるな」
ゆっくりと顔を上げると、芙美夏を見つめる功と、視線が交わった。その目に捕らわれたまま、顔を逸らせなくなる。功は、掴んでいた芙美夏の手を口元まで引き上げると、指先にそっと唇を落とした。
鼓動が跳ね、それが伝わるように指先がピクリと動く。
「今日は、何とかここまで」
芙美夏の揺れる眼差しを見つめたまま、そう言って笑った功は、そっと手を離した。
去っていく功の車のライトが見えなくなるまで見送りながら、芙美夏は、無意識に指先をそっと自分の唇に当てていた。
やがて小さな赤いランプが見えなくなると、どこか心許なさを覚えながら、部屋へ向かい階段を上がる。
大竹と話さなければならないと考えると気持ちが沈む。さっきの大竹は、これまで芙美夏が知っていた彼とは違ってみえた。
それでも、功を忘れることなど出来ないと頭の片隅ではわかっていながら、その気持ちを誤魔化して大竹を受け入れようと考えたのは自分の甘えだった。都合よく甘えて、都合よく切り捨てようとしている。勝手だと誹りを受けるのも当然だ。
けれど、これから先、功との関係がどうなったとしても、このまま大竹のそばにいることはもう出来ない。
申し訳ない気持ばかりが募るけれど、自分が苦しいのは自業自得だった。
これから、職場で顔を合わせるのも、互いに遣り辛いのではないかとも考えてしまう。
だが、今の仕事は、とても遣り甲斐があった。施設での仕事にもようやく少し慣れてきたところで、そこに存在する理由を与えて貰っている。自分の生きてきた過去に、意味があったのだと思える仕事だと思っていた。
五年という月日をかけて、ようやく自分の足で立っている実感を持ち始めたところだったのだ。
功の手を取るということは、それを手放してここを離れなければならないということでもあった。
彼の立場や地位では、離れたままでその関係を続ける事は到底無理だと分かっている。
永や功がそう言ってはくれても、芙美夏が戻ることを快く思わない、受け入れられない人たちがいることにも変わりないだろう。
それらのことも、やはり芙美夏を躊躇わせていた。
あそこで、自分自身を強く保つことが出来るのだろうか。由梨江の事を思うと怖くなる。自分が弱ければ、功の足を引っ張ってしまうだけだ。
考えなければならないことがありすぎて、気持ちが、ずっと揺れ動いていた。
永も功も。二人は私の事を買い被り過ぎている。
功が向けるようなまっすぐな目で功を見ることが出来ないくせに、伸ばされた手に縋りたいと思ってしまう。未だに、すぐに足元が揺らぐ弱い人間だ。
頭も心も、現実に追いついていない事も確かだった。何かに呑みこまれていくような怖さも感じる。もう少しだけ、落ち着いて考える時間が欲しい。
床に座り込んだまま、ほんの少し顔を上げる。
母の写真の横に、新しく並んでいる写真があった。永と香川に頼んで貰った、由梨江の写真だ。
「私……どうしたらいい?」
問い掛けても応えはなく、微笑みを返すだけの二人の写真を見つめる。
由梨江も永も、芙美夏が功を想っているのならば、功の側にいて欲しいと望んでくれていた。あんな風に伝えられたその想いを、疑う気持ちはない。
芙美夏の心の中には、ずっと功がいた。その気持ちも、もう誤魔化す事が出来ない。
功が口にした15年という時間、それは芙美夏にも当てはまるものだった。
再会して、功が自分の身体の一部となってしまっていることに気が付いた。去ってゆく功の車を見送りながら、心が離れたくないと軋むのを感じた。
一人で生きていく覚悟であの家を出たのに、心を引き千切るようにして忘れる努力をしてきた人と再会した今、離れる時の胸の痛みは以前よりも強く、ついさっき別れたばかりなのに、もう功に会いたいと思ってしまう。
けれど、大竹の気持ちに応えることができないと、話す事が先だ。
目を閉じて、深く溜息を付く。
その日は、功と繋いだ手を抱き締めるように横になりながら、芙美夏は、あまり眠る事ができない夜を過ごした。