本編《Feb》

第四章 居待月5



 芙美夏が答えた住所を、功がカーナビに入力して車をスタートさせた。
 もう辺りは随分薄暗くなってきていた。二人ともしばらくは無言で、芙美夏は少し遠くに見える窓の外の灯りへと、視線を向けていた。
 もう少しで、この時間が終わってしまう。何か、話さなければ――芙美夏がそう思った時、功の声が聞こえた。
「今日は、楽しかった」
 視線を、運転席の横顔へと向ける。
「こんな風に、誰かとゆっくり時間を過ごしたの、多分初めてだ」
 その顔を、少しだけこちらに向けた功の口元に、微かに笑みが浮かぶ。
「っていうか、考えてみたら、誰かとデートするのも多分初めてだな」
「嘘、だって、功さんいろんな人と……」
 つい、口をついて出てしまった言葉を芙美夏は慌てて飲み込んだ。
「あれは、デートなんかじゃないよ」
 苦笑混じりの答えが返ってくる。
「でも、いろんな……あの、綺麗な女の人といるのを見かけたって、学校でも、よく噂になってた。それに……あの、お見合いの人だって……」
 視線を落としながらそう口にすると、「ああ……」と溜息のような声が聞こえた。顔を上げると、ばつが悪そうな顏をした功が、もう一度小さな溜息を零した。
「情けない俺の、過去の愚行は忘れてくれないか。それ……誰一人、彼女とかじゃないから」
「えっ?」
「それ以上聞かないで。俺にとってなかったことにしたい過去なんだ。特に芙美夏の記憶からは消してしまいたい。とにかく、俺はこの歳まで誰とも、まともなデートすらしてこなかった。それは本当だから」
 どこか、苦虫を噛み潰したような顔で、拗ねたように話す功が可笑しくて、思わず笑ってしまった。
「芙美夏」
「……ん?」
「君には、誰か居るのか」
 声色が変わると、問い掛けながらフロントガラスを見つめている功の横顔が、真剣なものになる。
「……え」
「君の側には、もう、誰かが居るのか」
 大竹の事が頭を過り、指を握り締めながら視線を逸らした。あれから大竹は、普段と変わらない態度で接してはくれているが、芙美夏が話をしたいと切り出すタイミングは上手く避けられていた。
 ちゃんと、伝えなければならないと思っていた。虫のいい話だとは充分わかっていても、それでも、功と再会する前から考えていた事だと、自分に言い訳をして。
 こんなにもはっきりと誰かの存在が胸を占めてしまっている今、大竹の気持ちに応えることはもう、出来ない。その事をきちんと大竹に告げた上で、功に対する気持ちをもう一度見つめてみようと考えていた。

 だが、結局は話もできないままに今日を迎え、功を目の前にすると、自分の気持ちが嫌でも見えてくる。
 申し訳ないと思いながらも、大竹の時には振り払いたかった手を、今日はずっと離したくないと思っている自分がいた。
 苦しいのにずっと見ていたい。
 怖いのに、離れたくない。
 耳に届く声を、ひとつも聞き漏らしたくない。
 功は、空港で再会した時からずっと、真っ直ぐに芙美夏を見つめていた。それに、同じように視線を返せないでいることに引け目を感じる。
 はっきりと返事をしないまま黙ってしまった芙美夏を、功はそれ以上問い詰めたりはしなかった。
 目的地である芙美夏のアパートが近付くと、カーナビの音声が案内の終了を告げる。
「あと、簡単に教えて」
 功が道を尋ねるのを、説明しながらアパートの建物が見えるところまで来た。
「そこです。凄く小さなアパートだけど」
 建物を指すと、ハザードを出した功が、アパートの前の道路上に車を止めた。辺りはすっかり暗くなってしまっている。
 止まった車の中で、シートベルトを握り締めたまま、言うべき言葉を探す。何も浮かばないままに、功が芙美夏の方を見ているのを感じて、ゆっくりと視線をそちらに向けた。
「芙美夏」
 真っ直ぐな視線に絡めとられたみたいに、目を逸らすことができなくなる。 
「君が俺に二度と会いたくないって、二度と二条と関わりたくないって、そう言わない限り、俺はこうやって何度でも君に会いに来るよ。他に……今君のそばに誰かがいたとしても、まだ俺にもチャンスがあるのなら、引き下がるつもりはない。もう、自分の気持ちを押し殺すつもりもない。二条の環境が君を躊躇わせているのなら、今度こそ自分の力で、君を守るつもりでいるから」
 功の手がゆっくりと伸びてきて、芙美夏の頬に添えられた。熱くなった頬に、功の今は冷たい手が、熱を冷やすようで心地いい。
「功さん……私」
 何を答えるつもりなのかもわからないまま、口を開こうとした時、不意に功の視線が怪訝そうに芙美夏の後ろの助手席のドアの方に向けられた。
 功の手がゆっくりと離れていき、その目が鋭くなると同時に、窓を叩く音がした。
 振り向くと、ドアの外に大竹がいた。

「大竹、さん」
 大竹は、芙美夏ではなく功に鋭い視線を向けたままそれを逸らそうともしない。
 芙美夏が止める間もなく、功がシートベルトを外しドアを開けて外に出てしまった。慌ててベルトを外そうとするが、焦って上手く外せない。
 大竹からの視線を遮るように、功が助手席のドアの前に立っている。これでは外に出る事が出来ない。外で二人が何かを話しているようだが、途切れ途切れに聞こえて来る声では、内容まではわからなかった。
 助手席のドアをそっと開けると、身体にドアが当たり、功が振り向いた。そのままドアが外から開けられる。
「功さん、待って」
 二人の間でどういった遣り取りがなされたのかわからないが、空気が張り詰めていることは確かだった。その時、芙美夏へと鋭い眼差しを向けた大竹が、口を開いた。


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