本編《Feb》

第四章 居待月4

 到着ロビーから出て来る人を出迎える人々の中に佇んで、功が出てくるのを待つ。
 先日とは違い少しラフな格好をした功の姿が見えると、心臓が高鳴った。功は、殆ど迷うことなく芙美夏へと視線を向け、片手を挙げると少し歩を早め近づいて来た。
「待たせた?」
 見惚れるようにボンヤリと功を見てしまっていた芙美夏は、急に近くなった距離感に緊張して、つい目を逸らしてしまう。
「今来たところです」
「そう。レンタカー頼んであるから、あっちへ行こうか」
 気にする風でもなく、功はそう言いながら、レンタカーのカウンターへと歩き出す。
 すぐ後ろを歩いていた芙美夏の目に、シャツの袖を捲っている功の右腕の肘の上あたりから小指に向けて、深い傷跡が線状に残っているのが目に入った。
「怪我……?」
 こんな大きな傷跡が功にあっただろうか、と思いながら、ふとそれを口に出してしまっていた。功が足を止めて振り返る。
「え?」
 自分が声を出しているつもりがなかった芙美夏は、少し狼狽えた。
「あ、あの、右腕に傷が……大きな怪我をしたんですか」
 功は、腕を持ち上げその傷を眺めたあと、苦笑いを浮かべた。
「ああ、これ。自分で手当てしたから、治りが遅くて大袈裟な傷跡になった」
 ほら、というように芙美夏にその傷を示す。
「自分でって、こんなに大きな傷を、どうしてそんな」
「消したくなかったから」
「えっ?」
 驚いて顔を見上げると、功の深い眼差しに捕らわれる。微笑んでいるのに、どこか少し苦しそうな瞳が、芙美夏を見つめていた。
「傷も痛みも……消えなくていいって。消えない方がいいって、そう思ってたから」
 それ以上は何も問うことが出来ず、目を逸らすことも出来なかった。その瞳はどこかまだその痛みを感じているように見えて、見ている芙美夏の方が、胸が痛くなる。
 小さく息を吐いた功の表情が柔らかなものに変わる。
「行こうか」
 そう言うと功は、傷痕の残るその右手で芙美夏の左手を掴んだ。レンタカーのカウンターに着くまでの僅かな間、功は黙ったまま、その手を離さなかった。手の平の全ての神経が、まるで自分の胸に繋がっているみたいに、その温もりが芙美夏の胸に甘い痛みを生み出す。

 助手席のドアを開けてもらい座席に乗り込むと、運転席に回った功が、芙美夏の方へと顔を向けた。
「お昼はもう食べた?」
「まだです」
「敬語、やめていいよ」
「あ……はい。何か緊張して」
「また俺の心拍数確かめる?」
 功は笑いながら、自分の心臓に手を当てて見せる。
「もう……」
 芙美夏は、あの時不意に功に手を掴まれ、彼の鼓動が感じられるその胸に手を置かれた事を思い出して、顔が赤くなった。
「せっかくだから美味しいお寿司が食べたいな。どこか心当たりある?」
 エンジンをかけながら、功が尋ねてくる。芙美夏が知っている寿司屋は、庶民的な学生でも行けるような店ばかりだ。そう答えると、功はそれで構わないという。だが、しばらく考えて小樽の方まで行ってみようかということになった。
 目的地へ向けて走り始めた車の中で、芙美夏はふと、こうして功の運転する車の助手席に乗るのも初めてなのだと気がついた。ハンドルに伸ばされた腕に何気なく目をやると、肘のまで捲った袖から覗く腕に、男の人を感じて思わず目を逸らした。
 あの腕の中にいた夜のことを思い出しそうになり、変に思われないように何とか意識を他に持っていこうと考えていると、功に名前を呼ばれた。
「淳也も芙美夏にとても会いたがってた。そういえば香川から、淳也のこと何か聞いた?」
 問い掛けに、少しホッとしながら答える。
「はい……淳ちゃんが、結婚するってそう聞きました」
「敬語」
「ぁっ……、あの……。藍ちゃんとって、そう聞いて……凄く嬉しかった」
 功は、淳也をネタにしながら、面白おかしく二人の馴れ初めなどを話してくれた。淳也に会っても内緒にしてろ、と言いながら。
 そんな話を聞きながら、芙美夏は少しずつ自分がリラックスしてくるのが分かった。こんな風に、功と普通の話をするのも初めてだった。意外に功が話し上手なことや、悪戯好きな子どものような一面が見えて、心が浮き上がる感じがした。

 小樽に到着して、店に入ってからも、功は店の主人に話し掛け、魚の事や小樽の話を聞き、親しげに会話している。そんな空気が、芙美夏の緊張を解くのを手助けしてくれていた。
 食事を終えると、小樽の運河沿いを、目的もなくゆっくりと歩く。
 功が伸ばした手に、手を差し出すのを躊躇っていると、何も言わずに功がその手を取り、指を絡めてしまった。指先が温かくなり泣きそうになる。芙美夏も、その手を離したくなかった。
 ブラブラと店などを見て回りながら、仕事のことや大学の話を聞かれるままに答えた。土産物を見ながら店員と話をしている功を、そっと見つめる。まるで、ずっとこんな風に過ごしていたかのような、穏やかな時が過ぎていく。功は、その間一度も、芙美夏にこの先の事を問うたりはしなかった。
 考えなければならない現実や、様々な問題を置き去りにしたまま、この時間が終わって欲しくなくて、わざとゆっくり歩く芙美夏に、功は多分気づいていただろうと思う。
 やがて少しずつ辺りから、昼間の明るさが消えて行く。気がつけば、もう夕方6時を回っていた。
「全然、時間が足りないな」
 功が残念そうに、そう口にする。頷きたいのに、そう出来ない自分がいた。

「芙美夏の住んでいる町を見てみたい。送って行ってもいいかな」
 芙美夏を送ってから空港に戻るのでは遠回りになり、時間が遅くなる。そう言ってはみたが、今日は最終で戻れば良いからと返事が返ってきた。
 駐車場に戻り車に乗り込むと、功が後部座席に置いた鞄から、封筒を取り出し芙美夏にそれを差し出してくる。
「これ、藍ちゃんと淳也から」
 それは、二人の結婚式の招待状だった。
「芙美夏は二人を引き合わせた張本人なんだ。だから、ちゃんと見届けてあげないと。返事がなくても、芙美夏の席は取っておくって、そう二人は言ってる。まだ式は先で正式な招待状は準備してないから、それは芙美夏だけへの招待状だって。絶対来いって言っておいてくれって、淳也にも藍ちゃんにも言われたよ。父のことがあるから、あまり派手な事は出来ないけど」
「……うん」
「これを渡さずに戻ったら、二人に叱られる」
 はじめは躊躇っていたが、ほら、と急かされてそれを受け取ると、芙美夏は二人のことを思いながら、封筒を大切に鞄の中に仕舞った。


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